アドラー心理学Q&A

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承認欲求の否定について

アドラー心理学は承認を得ること自体を否定するのではなく、承認を「行動の唯一の目的」とすることを問題視しており、真の貢献とは社会(共同体)に有益な行動を選択することだと考えます。

アドラー心理学の立場は、他者から承認されようとすることを、何もかも否定するわけではありません。人々を仲間だと思い、自分には人々の役に立つ能力があると思うなら、有益な行動を人々に申し出るのは道義的な行為とさえいえます。そして貢献の成果があり、それにより他者から承認・称賛を得られたとしても、何も問題はありません。成果を皆で喜べばいいと思います。

問題なのは、そのような称賛が自分の行動の目標のすべてになってしまった場合です。称賛という見返りのために誰かの役に立とうとするのなら、アドラー心理学でいうところの共同体への貢献とはいえません。そうではなく、共同体の一員として、これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろうと考えて、そこで共同体に有益な行動を選択することこそを、私たちは貢献と呼んでいます。

Tag: 目的論

承認が行動の唯一の目標であれば、それが得られない時に自己肯定感が低下したり無気力になったりする可能性は高いと考えられますが、アドラー心理学は自己肯定感そのものを最上の価値だとみなしません。

人々から承認されないことで自己肯定感が下がったり、無気力になったりするケースもありえます。人々にたいする行動の唯一の目標が「他者からの称賛」であった場合には、称賛が得られなければ、ご指摘の通り自己肯定感が低下したり、無気力になったりする可能性は非常に高まります。なぜなら陰性感情とは、自分の期待を満たさない事態に遭遇した際に感じられる感情に他ならないからです。

アドラー心理学は他者からの承認を求めること自体を否定するわけではありません。共同体の一員として役立ちたいという自然な気持ちから行動し、その結果として感謝や承認を得ることは、何ら問題ありません。しかし、見返りとして称賛を受けることだけを目的に行動することは、アドラー心理学では健全な生き方とは考えません。それでは称賛を受けたときだけ行動し、称賛がなければ何も行動しないことになるからです。

なお、時々誤解がみられるため付け加えますが、アドラー心理学は自己肯定感を何よりの価値とするものではありません。自己肯定感だけを目指す生き方は、アドラーのいう自己執着のひとつとして、共同体感覚とは矛盾します。

褒められることを主目的にすると、褒めてくれる人の存在や褒められる物事に依存してしまい、個人の成長からは遠ざかると考えます。

褒められることを目標とするのではなく、人々に貢献する活動による成果や、そうした活動そのものに意味を見出すことが望ましいと考えます。活動の結果を褒められれば嬉しく感じるのは自然な感情といえますが、褒められることが主目的になると、褒めてくれる人が常に身近にいないと努力ができないか、あるいは、誰かに成果を褒めてもらえる物事しか行わなくなるでしょう。それでは個人としての成長からは、ほど遠いのではないでしょうか。

Tag: 目的論

アドラー心理学からは、特定の場での一時的な称賛に一喜一憂するだけでなく、社会と人生の持続的な面に、より多く目を向けるよう促すことになるでしょう。

SNSの文化と構造は、他者からの承認を可視化しやすくします。それに加え、注目を集めることが広告収入やプラットフォームでの優位性につながる側面も持っています。こうした特性は、人々が他者からの称賛に特に振り回されやすくなるという危険性をはらんでいる、といえるでしょう。

これに対しアドラー心理学は、特定の場での一時的な評価に一喜一憂するだけでなく、長く人々と協力しあえる目標やより大きな共同体への貢献といった、社会と人生の持続的な面へ目を向けるよう促すものです。

アドラー心理学は、他者からの評価に過度に依存するのは不健全な生き方だと考えますが、かといって他者に関心を持たず、自己中心的になることもまた適切とはいえません。

むしろ、人が他者からの評価を気にせずには済まないことを説明するのがアドラー心理学だということができます。また仙人のような生活というものが、他者との関わりを絶ち孤立して生きることを指すのならば、アドラー心理学は決してそのような生活を推奨しません。
アドラー心理学では、人は社会に組み込まれた存在だと考えます。したがって、ともに支え合って生きている他者の視線や評価を意識することは、人として自然なことといえます。もちろんそこで、他者からの評価に過度に依存するのは不健全な生き方ですが、かといって他者に関心を持たず、自己中心的になることもまた適切とはいえません。