幸福・共同体感覚・貢献感について
直接の成果や見返りが得られにくくても、貢献を社会(共同体)における役割分担や支え合いの一部と捉えられれば、「自分は役に立っている」と感じることができるでしょう。
貢献というものは、見返りとして得られる幸福という観点からすれば、おおむね割に合わないものです。そもそも物事はうまくいかないことも多いですから、努力に見合う達成感がいつでも得られる、といったようにはいかないでしょう。また、物事がうまく運んだとしても、貢献の相手や貢献をおこなう場の側で、その感謝を伝える余裕がないことも多いでしょう。貢献が重要であるとき、そのように逼迫した状況であることは少なくないはずです。貢献の成果というものが、必ずしも明らかになりやすいとも限りません。成果が実るのが遠く離れた場所だったり、年月が経ってからようやく成果が形になって現れるといったこともよくある話です。
しかしながら、貢献というものを自分と相手という観点だけでなく、共同体という視点から捉え直すこともできるのではないでしょうか。すなわち、貢献が共同体における役割分担であり、互いにできることを分担し合う営みであると考えるのです。ある場面では自分が誰かの役に立ち、また別の場面では誰かの貢献で自分が助けられる。共同体ではそのようにして、それぞれが自分のできることでお互いを支え合っているのです。
自分の困っているとき、他者から思いがけない援助を得られることがありますし、自分の貢献が自分で思っていた以上に他者に役立つこともあるでしょう。過去の会ったことのない先人たちの積み重ねのおかげで、私達の現在の生活があるはずですし、私たちの日々の営為が遠い子孫に役立つことがあるのかもしれません。このような視点に立てば、たとえ自分の貢献に分かりやすい直接の見返りが無かったとしても、それでも「自分は役に立っている」「他者から必要とされている」という貢献感を感じ続けることができるはずです。
私たちが直接所属できる共同体は、家族などの身近な場から地域社会程度のスケールに限られますが、そこから繋がり広がっていく多様な共同体によって世界が網羅されていくという視点に立てば、共同体感覚を持つべき「共同体」は全人類へと拡がります。
アドラー心理学でいう共同体(ゲマインシャフト)とは、個人が所属し、たがいに協力しあって暮らすことのできる自然発生的な場のことを指します。したがって非常に広範な概念であり、具体的には家族や職場あるいは学校などの仲間といった身近なところから、普段暮らしている地域社会などを指しますが、可能性としては国家や人類規模の共同体も想定でき、時には生命全体や無生物、宇宙にまで広がるとされることもあります。対義語としてはゲゼルシャフトがあり、こちらは契約によって人工的に作られた社会組織を指します。現代の国家は通常ゲゼルシャフトとして営まれていますし、一定以上の規模の企業も同様といえます。そのため、私たちが直接所属できる共同体(ゲマインシャフト)は、スケールとしては地域社会どまりとなります。しかし、そうした多種多様な共同体によって世界が網羅されている、という視点に立つならば、共同体感覚を持つべき「共同体」は人類全体へと拡がります。
身近な共同体だけでなく、より大きな共同体からも目をそらさずに、そうした「みんな」にとってどういうことかを、広く多角的な視点で捉えることが求められます。
私たちは家族や友人関係だけでなく、地域、学校、職場といった様々なスケールの共同体に同時に所属しています。そしてそれらの共同体は、相互に関わり合いながら、広く世の中というものをかたちづくり、それを支えています。そのため個人の行動は、身近な共同体の内側だけで完結するものではありません。
アドラー心理学では「共同体感覚」について、これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろうと考えること、と説明します。そして、ここでいう「みんな」とは、身近な人々だけを指しているわけではありません。共同体感覚とは、自分たちさえ良ければそれでいい、といった独善的な思想ではないのです。かといって、身近な人々を抜きにして、いきなり大きな共同体のことを考えよう、身近な話など矮小な出来事にすぎない、といったような、自分や他者を疎外する抽象的な思想でもありません。そうした極端な立場には立たずに、自分自身を含む身近な「みんな」のことを考えながら、そこから繋がり広がっていく、より大きな共同体からも目をそらさず、広く多角的な視点で身近なできごとを捉えようとすることが、「これはみんなにとってどういうことだろう」という言葉の真意なのです。
「普通であることの勇気」が、不完全な自分をありのまま受け入れることを意図するものならば、現実的な目標設定と地道な努力といった健全な向上心を持つこととは矛盾しないと考えられます。
著者の方がどのような意味合いで「普通であることの勇気」というものを推奨されているか存じ上げませんが、もし完璧ではなく不完全な自分自身をありのまま受け入れることを意図されているのであれば、それは必ずしも、向上心や目標を持つこととは矛盾しないと考えられます。アドラー心理学の視点からは、個人が非の打ちどころのない完璧な存在であろうとすることは、むしろ不健全ということができます。そうではなく、実際には不完全である自分自身を受け入れて、それによって現実的な目標設定を行い、目標に向けて地に足のついた努力を重ねていくことこそが、健全な向上心であると考えます。
いいえ、その行動が共同体感覚に基づく、心から人々のためにと願って行った有益な行動でなければ、そもそもアドラー心理学でいう貢献には含まれません。
貢献感とは主観的な感覚ですが、そうした満足感さえ得られればそれで良いわけではありません。行動が真に共同体感覚に基づいているかどうかこそが重要です。本人が満足していても、それが他者や共同体にとって有益でなかったり、破壊的であったりするものは、人々への貢献とは言えません。アドラー心理学では、その行動が心から人々のためにと思った行動であり、そこで実際に人々のためになることを行って、役に立てたことに満足できることを共同体への貢献と呼んでいます。つまり、形だけではない、本当の意味で貢献的なものだけを貢献と呼んでおり、したがって自己満足や、あるいは全く別の意図で行ったことがたまたま役立っただけのような場合などは、アドラー心理学でいう貢献には含まれません。
