実践の難しさ・現実との乖離について
目的論は感情を「割り切る」ものではなく、アドラー心理学の実践では、その感情が対人関係で持つ「目的」を理解し、抑圧や発散とは異なる建設的な表現方法を学ぶことを目指します。
目的論は、「割り切る」ものではありません。それらの感情を含む実際の対人関係における行動が、いったい何を「目的」としているかを深く理解して、より建設的な表現方法や対処方法を学ぶことを目指します。アドラー心理学の学習では、グループワークやカウンセリングなどを通じて自分が対人関係のなかで「目的」としていることに気づき、そしてそれを感情的ではない方法で、落ち着いて相手に伝えるにはどうすれば良いかを学びます。感情を抑圧するのでもなく、かといってやみくもに発散するのでもなく、感情を用いることで自分が伝えようとしているメッセージが何であるかを理解して、これからの相手への行動の選択に役立てるのです。
もちろんそうした実践はたやすいものではなく、くりかえしの練習が必要ですし、自分ひとりで取り組むのは難しくもあります。そのため専門的な講座、あるいは学ぶ仲間が沢山いるアドラー心理学の自助会などが有用となるのです。
アドラー心理学はいわゆる哲人のように振る舞うことと無関係であり、そもそもそのように完璧を目指す必要はなく、不完全な自分を受け入れつつ、共同体により良く貢献しようと成長するプロセスこそをアドラー心理学では重視します。
アルフレッド・アドラーは大変理知的で洞察に富んだ人物でしたが、「常に冷静で論理的な」哲人といったような、寡黙で孤独なイメージの人物ではなく、気さくに多くの人々と分け隔てなく話し合う、非常に温かい人物だったと言われています。野田俊作も、まさにそのような人柄でした。アドラー心理学を学ぶことと、いわゆる哲人のように振る舞うこととは、何の関係もないように思われます。またそもそも、人は達成困難と思われる完璧さを目指す必要はありません。アドラー心理学は完全主義ではなく、むしろ、不完全な自分を受け入れながらも、共同体にとってより良い方向に進もうとする勇気を重視します。アドラー心理学のカウンセリングでは、人間らしさや弱さを認めつつ、成長していくプロセスを大切にします。
「主張」するのではなく、まず自分から相手への関心と尊敬の念を持ち、自己の課題に責任を持って正しくアドラー心理学を「実践」することが基本であり、その姿勢は一般的な倫理観にも通じるため、健全な環境であれば信頼につながっていく可能性もあります。
主張するというより、まずは、自分自身が正しく「横の関係」や「課題の分離」を実践することが基本です。そうすれば、たとえ力関係がある場合にも、あなたの姿勢や行動を理解くださる方がいらっしゃるかもしれません。なぜならばアドラーの哲学は、伝統的な社会常識や、古くからの道徳哲学が教えるところに通ずる面を持っているからです。たとえば、他者に深い関心と尊敬の念を持つ、自分の課題に責任を持ち、他者を信頼して、その人自身の課題に勝手に踏み込まない、陰性感情をぶつけずに理性的に話し合うなどの姿勢は、アドラー心理学に限らず、広く世の中で共有されている倫理観とも重なります。したがって、職場のあり方やそこでの取引先との関係もまた倫理的であるかぎり、アドラー心理学の実践は、あなた自身の信頼へとつながっていく可能性があります。
ただし、アドラー心理学をきわめて独善的な形に誤解して、「課題の分離」を他者との関わりを拒絶することと捉えたり、「目的論」を常に自分の目標ばかり優先させることだと考えたり、「仮想論(認知論)」を他者と対話をしない理由にしたり、「貢献」や「協力」をひたすら一方的に他者に求めたり、「横の関係」が大事だと言って社会的な役割分担を否定したりすれば、それはたしかに社会での行動として適切とはいえないでしょう。
アドラー心理学にも他の学問同様に誤用や悪用の危険が伴うため、その実践が他者にとって迷惑であれば、嫌われて距離を取られることとなります。また他者を追い詰め苦しめるなど有害な結末が生じれば、当然ながら相応の責任は免れません。
その可能性はあります。まず原則的な話として、いかなる学問であれ、誤用や悪用には危険が伴うものです。それが毒にも薬にもならないものでない限り、人間に対して誤った仕方で用いられれば、当然ながら何らかの危害が生じます。アドラー心理学の実践においても同様です。そして、他者になにか迷惑や危害が生じた場合、もちろん相応の責任は免れません。
アドラー心理学に即していえば、たとえば入門書等からの表面的な知識だけで他人の意図を無遠慮に決めつける、『課題の分離』を口実にして他人に一切協力せず責任ばかりを求める、臨床理論を恣意的に振りかざして自分の行動は正当化しつつ他人の行動を批判する、日本の環境では扱いにくい心理技法を誤用して他人を心理的に追い詰めたり虐待したりする、などといった非常識で横暴な行為があれば、当然ですがその相手や周囲からは「冷たい人」、「理屈っぽい人」、あるいは「わがまなな人」などと思われて、距離を取られることになるでしょう。それらの行為の結果、他者を苦しめその人の日々の暮らしに支障をきたすなどの深刻な結末が生じれば、もはや嫌われるどころでは済まず、ハラスメントやネグレクトとしてその責任を厳しく問われるはずです。
ご指摘の通り読書はきっかけでしかなく、実際のライフスタイルの変容には継続的な学習と実践が欠かせず、時には専門家の援助が必要となります。
ご指摘の通りだと思います。アドラーに関する書籍は多数出版されていますが、残念ながら読書だけで(あるいはこのホームページを含むインターネット上のコンテンツを読むだけで)深い変容が起こることは、極めて稀なことと考えられます。それが何らかの気づきや理解のきっかけになったとしても、実際のライフスタイルの変容には継続的な学習と実践が欠かせませんし、時には専門家の援助が必要です。読書は第一歩であり、そこからどう行動し、体験を積み重ねるかが重要となります。
