その他の疑問
基本的な人間理解の枠組みは普遍性を持つと考えられますが、時代や文化(例:米国と日本)によって適合しない技法もあるため、実践の際は常に個別の事情に配慮し柔軟に調整する必要があります。
基本的な人間理解の枠組みや価値判断の仕方としては普遍性を持つと考えられますが、技法の具体的な適用方法や表現は、文化や個人の状況に応じて柔軟に調整される必要があります。アドラーの時代や20世紀半ばまでは一般的だった技法も、現代には必ずしも適合しないことがあります。あるいは現在米国で多用されている技法も、日本人クライアントには適用困難である例があります。そのためアドラー心理学の臨床場面では、クライアントの個別性についてはもちろん、文化の相違についても十分に配慮されています。原理原則は共通でも、実践は常に個別具体的です。たとえば、日本におけるアドラー心理学の家族コンサルティングやカウンセリングの技法にも、現代の日本固有の事情に対する十分な配慮が加えられています。
科学的な実証研究の積み重ねという点では、現代の精神医学全般に及ばない面がありますが、一世紀にも渡る膨大な臨床実践の実績と、「共同体感覚」という明確な道徳的指針を持つ「メタ心理学」としての価値は、現代においてますます高まっているということができます。
アドラー心理学は、たしかに科学的な実証研究の積み重ねという点では、現代の精神医学には及ばないかもしれません。アドラーやフロイト、ユング、ジェームズらが生きた時代の心理学理論は、実験による確証から生み出されたものというより、提唱者の独創を基盤とする、臨床経験から得られた仮説の体系と考えるのが妥当といえるでしょう。なにしろ当時は、行動主義心理学はワトソンらの手によってようやく緒に就いたばかりでしたし、現代科学の前提である『反証主義』がカール・ポパーによって提起されたのも、実にアドラーの没年になってからのことなのです。
しかしながら、アドラー心理学には幾世代にも及ぶ臨床実践の積み重ねによって、その真価が確かめられてきた実績があります。またとりわけ重要なのは、他者と協力し共同体に貢献することを善とみなす「共同体感覚」の育成を、治療の目標として提示している点です。すなわち、治療とは果たしてどのようなことなのか、クライアントとカウンセラーはどのような方向を目指せばいいのかについて、アドラー心理学は極めて明確なビジョンを持っています。この点が、用いられ方が社会適応や自己実現、マーケティングや政策実現などに偏りがちな近年の臨床心理学と、一線を画します。どのようなことにでも使えてしまう「科学的」な心理学の乱用が、倫理的な問題を生み出している現代において、アドラー心理学は、人間主義的かつ道徳的な指針を与える「メタ心理学」としての価値を、ますます高めているということができます。
フロイトとは原因論と目的論など臨床理論の原理が全く異なり、内容は整合せず、互いに混ぜ合わせることはできません。むしろ認知行動療法などが理論的には共通部分を持ちますが、治療戦略が異なるため臨床現場での動きは相容れません。
心理学理論は大変に多岐にわたり、そのすべてについては言及できないため、おおむね例に出された範囲内で述べさせていただきます。
フロイトやユングの理論とアドラー心理学との関係性については、人間の無意識を認める点は共通しますが、特にフロイトとは、臨床理論面においてほぼ全面的に対立すると考えられます。アドラーは元々フロイトの精神分析運動の初期メンバーでしたが、後に袂を分かつことになりました。原因論や性的欲動を重視するフロイトに対し、アドラーはそれらに真っ向から対立するともいえる、目的論、劣等感と補償、社会的関心(共同体感覚)を重視しました。このように、それぞれの臨床理論は原理が全く異なる体系のため、内容は整合せず、互いに混ぜ合わせることはできません。
なお、臨床理論面においてアドラー心理学によく似たものとしては、アルバート・エリスの『論理情動療法 Rational Emotive Therapy』やアーロン・ベックの『認知行動療法 Cognitive Behavior Therapy』をあげることができます。それらは個人の主体性を認めており、目的論的で全体論的でもあります。また社会統合論のなかで対人関係論が、仮想論のなかでは認知論が共通するともいえます。しかし治療における戦略が全く異なるため、臨床の現場での動きは相容れないものとなっています。
単なる精神的な強さではなく、自分の課題に取り組み、他者と協力し、共同体感覚をもって共同体に貢献しようとする建設的な態度や行動を指します。
アドラー心理学でいう「勇気」とは、自らの責任を引き受けて、自分の負うべき課題に取り組み、他者と協力し合って共同体に貢献しようとする建設的な態度や行動を指します。つまりこれは単なる精神的な強さというよりも、そうした「姿勢」や「構え」に近いものです。
したがって、アドラー心理学では「勇気」という言葉を、一般とは異なる独特の意味合いで用いています。単に恐れ知らずで乱暴であることや、何もかも勝ち負けととらえて相手に譲らない姿勢などのことを、アドラー心理学では「勇気」と呼びません。「共同体感覚」を伴って行動する姿勢、あるいは共同体感覚を行為に移す力こそを、私たちは「勇気」と呼ぶのです。たとえば人々のために自分にできることを行うこと、人々にたいして対等な仲間として敬意を払うこと、人々と誠実かつ謙虚に話し合って物事にあたること、独善的とならず公正に行動すること、心をこめて人々への配慮を重ねていくことなど、行動にあたって共同体に有益な行為を選択することを、アドラー心理学では「勇気」と考えます。
いいえ、アドラー心理学では強さだけでなく「弱さを受け容れる」こと自体も勇気だと考えます。社会(共同体)はそうした様々な美徳(たとえば謙虚さ、誠実さ、慈愛など)によっても支えられており、したがっていわゆる「強い人間」でなくとも、誰もが互いに各様に貢献し助け合うことができます。
アドラー心理学では勇気という概念に関して、「強くなる」ことだけではなく、まず自分自身の弱さや不完全さを受け容れることを説いています。弱さを受け容れることも、共同体の一員としての勇気なのです。
またそもそも、「強さ」だけが共同体を支えているわけではありません。誠実さ、謙虚さ、感謝、正義、節制、熟慮、慈愛、友情などの他の様々な美徳もまた、共同体には欠かすことができないのです。強さばかりが重視されて、他の倫理的・道徳的側面に欠いた「共同体」に、私たちは安心して所属できるでしょうか。
私たちは、老いや病気など様々な障害のために、あるいは若さや幼さゆえに、「強さ」を発揮することが出来ないことがあります。しかしそうした場合にも、身につけている他の美徳を発揮することにより、各人各様の仕方で共同体に貢献することができます。アドラー心理学の実践とは、お互いに内在する多様な貢献の可能性を見出しながら、仲間同士として助け合い協力し合って、ともに共同体を支えていこうとする道なのです。
自己受容は確かに厳しさを伴いますが、しかし自己受容を避けると達成不可能な目標を追い求めてしまったり何もかも自分で抱え込んだりなど、さらに厳しい道が待ち受けています。
完全ではない現実の自分を受け入れなければ、自分の能力の実際を見誤り、とうてい達成不可能な目標を追い求めてしまうかもしれません。そのような目標に向かって進もうとする日々は、かえって過酷なものとなるでしょう。また、自分の得意な面と不得意な面を正しく理解していなければ、困難な課題にみんなで協力して対処しなければならない場面で、自分からどのような協力ができるのか、あるいは自分に関してどのような配慮をお願いすればよいのかが分からなくなります。それでは適切な課題分担ができず、結果として、お互いが何もかもを自分で抱え込む結果となってしまいます。自分の「できていない」面を認めることは、たしかに大きなハードルに感じられるかもしれません。しかし、そのハードルを避けて通ろうとすると、さらに厳しい道が待ち受けているのです。
ちなみに自己受容の困難さの克服には、多くの場合、アドラー心理学でのカウンセリングやグループワークによる支援が有効です。ただし、その困難さがうつ病や不安障害などの精神疾患に根ざしてい場合は、医療機関への相談が必要となります。
まず支援者側が本人を心から仲間として接し、率直な対話を通じて信頼関係を築くことが必須であり、実際の相談ごとはその上での話となります。専門的なトレーニングを積んだカウンセラーなら援助が可能なこともあります。なお、事情次第では医療機関への相談が必要です。
悩み事の相談というものは、相談するご本人が相談相手を信頼できる仲間だと感じていて、そこで得られたアドバイスによって、自分の困難を改善しようとしている場合に限り可能となるものです。しかしご質問の場合、『他者を「仲間」だと見なすことが難しい』ことそのものが、困っておられることなのですから、このままでは相談が成り立ちません。したがって相談よりも前に、まず、相談に乗る側がご本人のことを心から仲間だと思い、実際にそのように接するところから始めなくてはなりません。たとえば、相手の興味がある話題などについて率直に話し合ってみるのもよい方法でしょう。そのようにして信頼関係を築くことこそが、カウンセリングへの糸口にもなるのです。
また、そもそもご本人が、他者の誰も彼もを「仲間」と見なせていないとは限りません。実は、心の許せる相手がどこかにいらっしゃるのかも知れません。そうした方がおられた場合、もし差し支えなければ、その方にご本人のことで相談してみるのもひとつの方法です。
あるいは、専門的なトレーニングを積んだカウンセラーなら援助が可能なこともあります。また、ご本人の困難さが発達障害や、またはうつ病や不安障害などの精神疾患に根ざしている場合、ないしそれらのおそれがある場合は、医療機関への相談が必要となります。しかしそうした専門家への相談にしても、ご本人の意思を無視して進めることはできません。その意味でも、まずは、あなた自身がその方の「仲間」になることから始めなくてはならないのです。
劣等感などの陰性感情は、人間にとって普遍的かつ自然な感情ですが、劣等感をバネにすることが破壊的でなく有益な成長につながるかは、劣等感を契機とする行動とその目標が共同体にとって適切かどうかによります。
劣等感などの陰性感情は、本来、人間にとって普遍的かつ自然な感情といえます。怒りであれ悲しみであれ、それらは人が遭遇した課題つまり主観的に相対的マイナスである状況から、相対的プラスである目標へ向かうために生み出す、前向きな感情に他なりません。その意味では、人間は誰であれ「劣等感をバネに」動いている、ということができます。しかし、そこで向かおうとする目標が必ずしも適切なものとは限りませんし、それらの陰性感情をそのまま他者に向けることも概ね適切とは言えません。したがって「劣等感をバネに」進むことは、必ずしも人生に有益とはいえず、時として破壊的な結末を招くこともあります。行動の原因ではなく、そこで目標とするものや、状況への対処方法が適切であるかどうかが問われねばならないのです。
アドラー心理学では、目標や対処方法が共同体にとって有益かどうかという観点から、行動の適切さを判断します。劣等感を抱えながらやみくもに進むのではなく、劣等感を契機にしつつも、そこで共同体にとって適切な目標と対処行動を選択することで、はじめて人は共同体の一員として成長できる、と考えるのです。
おっしゃる通り、無神経な指摘はクライアントを追い詰め逆効果になるため、臨床現場で本人に直接伝えることはほぼありません。
おっしゃるとおりです。こうした逆説的な指摘をクライアントに正対して直接伝えることは、実際の臨床の場では、ほぼ行われることはありません。臨床上、クライアントのどのような選択からいかなる結末が生じているかについて、その全体像を理解してもらうことは確かにとても大切です。そもそも個人の行うどのような選択にも、自ずとメリットとデメリットがありますから、「かわいそうな私でいること」の結末としても、苦痛などのデメリットだけでなく、何らかのメリットが必ず生じます。そうした二次的なメリットは、無意識のうちにも、本人を現在のあり方に立ち止まらせます。したがって、そこまで含めてクライアントが洞察することは、人生における視野を広げ、より建設的な生き方へと進んでいく上でとても有益です。しかし、だからといって無神経な指摘によりクライアントを追い詰め非難することになってしまえば、そうした指摘はむしろ逆効果となるでしょう。クライアントはそのような自分でいることに、かえってこだわってしまうかもしれません。
他者の期待に応えること自体は否定しませんが、「他者の期待を満たすためだけ」に生きることは、他者の課題を担う不健康な生き方であり、またそもそも、全ての人に常に好かれることは不可能ともいえます。
ご質問は、アドラー心理学では他者の期待に応えてはいけないとしているように聞いたが、それはおかしいのではないか、というご指摘でしょうか。お考えはごもっともなことと思います。アドラー心理学では、個人が他者の期待に応えることを、一切否定しているわけではありません。自分の行為の結果として、他者の期待が満たされること自体には、もちろん何も問題はありません。たまたまそのようになることもあるでしょうし、特にお互いによく話し合って協力しあいながら物事にあたった場合には、そのようになる可能性が当然高まります。
ただし、人が他者の期待を満たすためだけに生きようとしているのなら、それはおかしな話であると考えます。他者の期待とは他者自身の課題ですから、それを「満たす」生き方、つまり「自分は常に他者の期待どおりの人間でなければならない」という生き方は、とても不健康な生き方であるとアドラー心理学では考えます。なぜなら、他者の課題をまず担うべきはその他者本人であり、またそもそも、他者の期待を常に満たすことなど人間には不可能だからです。
野田俊作はかつて、ある講演会の質疑応答で「私は付き合う相手の期待を満たすために生まれてきたのではないのに、相手は私に自分の希望や要求を満たすような行動を期待し、それに沿わないと不機嫌になります。上手く立ち回るにはどうしたらいいでしょうか」と聞かれ、次のように答えています。
「世の中の人は皆そうですから、それは仕方がありません。私は、人の期待を満たさないことにしております。ということは、嫌われる覚悟をしているということです。10人の人と付き合うと、2人は私が何をしても好きでいてくれ、1人は私がどんなことをしても絶対に憎み続ける、そして残りの7人はその時々で態度を変える、と思っています。
ですから、絶対に孤独にはなりません。確実に仲間になってくれる人がいる、ということさえ信じられれば、人に嫌われることは平気です。大事なことは、その信じられる仲間を作ることです。そこができないと、周りの評価にふらふらと左右されてしまいます。
どうやってその一番近い環境を作るかというと、今日お話ししたように、協力的な関係を築こうとすることです。それはおそらく、家族やごく近い親友といった人々でしょう。そこを中心にして考えていけば、残りの人たちが自分のことを好きになったり嫌いになったりするのは、そんなものだと受け入れられます。みんなに好かれて暮らすことなど、絶対に不可能なのですから」。
ここで言っていることが、誰の期待にも応える必要はない、あるいは一切応えてはならないとか、誰にも彼にも嫌われて構わない、嫌われるべきだ、などといった話とは、むしろ真逆であるとお分かりいただけることと思います。アドラー心理学は他者の期待に応えることが悪である、という立場には立っておりません。
その可能性はあります。謙虚さや他者への関心と尊敬を欠いたまま、理論や技法を自己正当化や他者を操作する道具として用いたり、共同体感覚を全く誤解して自分の理想ばかりを他者に求め異なる価値観を認めなければ、周囲にとっては大変に押し付けがましく感じられることでしょう。
アドラー心理学を自己中心的に誤解して用いると、そのような危険が生じる可能性があります。本来は人間行動を深く理解するための臨床理論を正しく用いずに、自分の行動の正当化のためだけに用いれば、当然のこと、自分に甘く他人にはとても批判的な理屈っぽい人と思われることでしょう。また共同体感覚を真逆にとらえて、自分が「こうなれば素晴らしい」と考えるキラキラした理想の状態ばかりを追いかけていれば、社会性の欠落した独りよがりな人物だと思われても仕方がありません。あるいは共同体感覚と共通感覚を取り違えて、ひたすら世間への同調だけを求めて異なる価値観を認めなければ、周囲にとっては大変に押し付けがましく感じられることでしょう。
野田俊作は、アドラー心理学の実践には謙虚さ、共感、そして他者への関心と尊敬が不可欠であると繰り返し説いてきました。真の共同体感覚が伴わなければ、理論も技法も、他者を支配し操作する道具や、あるいは単なる知的遊戯の手段へと転じかねないのです。
各医療分野の診断基準やガイドラインに準拠して正確に判断する必要がありますが、区別が困難であったり判断に迷う場合は、アドラー心理学カウンセリングを第一選択とせず、あるいは単独で行うのではなく、まず専門医療機関(心療内科、精神科、発達専門医など)を受診し、正確な診断と適切な治療・支援を受けることを強く推奨します。
以下のような場合は、アドラー心理学カウンセリングを第一選択とせず、あるいは単独で行うのではなく、まず専門医療機関(心療内科、精神科、発達専門医など)を受診し、正確な診断と適切な治療・支援を受けることを強く推奨します。また、臨床心理士による専門的な心理療法や心理検査、精神保健福祉士やソーシャルワーカーによる福祉的支援が必要となることもあります。
- 医学的診断・治療が必要な可能性が高い場合:
- 精神疾患が疑われる症状:
- 気分の著しい落ち込み、意欲の低下、興味・喜びの喪失が2週間以上続く(うつ病の可能性)
- 強い不安感、恐怖感、パニック発作、特定の状況や対象への過度な恐怖(不安障害の可能性)
- 幻覚(誰もいないのに声が聞こえるなど)、妄想(現実的でないことを強く信じ込むなど)、思考の混乱(統合失調症などの可能性)
- 気分の高揚と落ち込みを繰り返す(双極性障害の可能性)
- 眠れない、食欲がない・ありすぎる、体重の急激な変化、原因不明の身体の痛みや不調が続く
- 強いイライラ感、怒りのコントロールが難しい
- 発達障害が疑われる特性:
- コミュニケーションの困難さ(言葉の遅れ、一方的な会話、冗談や比喩が通じにくいなど)
- 対人関係の困難さ(視線が合いにくい、場の空気が読みにくい、集団行動が苦手など)
- 強いこだわり、興味の偏り、感覚の過敏さまたは鈍麻さ(ASD:自閉スペクトラム症の可能性)
- 不注意(集中力が続かない、忘れ物が多い、話を聞いていないように見えるなど)
- 多動性・衝動性(じっとしていられない、衝動的に行動してしまうなど)(ADHD:注意欠如・多動症の可能性)
- これらの特性により、幼少期から継続的に日常生活や社会生活(学業、仕事、家庭生活など)で大きな困難を抱えている場合。発達障害の診断・支援は専門医や関連機関との連携が不可欠です。
- 依存症:
- アルコール、薬物、ギャンブルなどがやめられず、生活に支障が出ている
- 希死念慮・自傷行為:
- 死にたい気持ちが頻繁に浮かぶ、具体的な計画を考えてしまう
- 自分を傷つける行為をしてしまう
- これらの場合は、危機的状況であり、速やかに精神科等の医療機関に相談し、安全を確保することが最優先です。
- 原因不明の身体症状:
- 検査をしても異常がないのに、頭痛、腹痛、めまい、動悸などの身体症状が続く(心身症の可能性)。心療内科への相談が推奨されます。
- 精神疾患が疑われる症状:
- 心理検査やより専門的な心理療法が必要な場合:
- 過去のつらい体験(虐待、災害、事件被害など)が忘れられず、フラッシュバックや悪夢、強い不安感などに悩まされている(PTSD:心的外傷後ストレス障害などの可能性)。専門的なトラウマケアが必要な場合があります。
- 自分の性格が極端で、対人関係や社会生活で繰り返し問題が生じている(パーソナリティ障害の可能性)。長期的な専門的心理療法が必要となることがあります。
- 臨床心理士などによる詳細な心理アセスメント(知能検査、性格検査など)が、問題の理解や支援方針の決定に有効な場合があります。
- 福祉的な支援が必要な場合:
- 経済的な困窮、住居の問題、仕事が見つからない、社会的に孤立しているなど、生活基盤に関わる問題を抱えている。
- 利用できる公的な支援制度(障害福祉サービス、生活保護、就労支援など)について情報提供や申請サポートが必要。
- このような場合は、精神保健福祉士やソーシャルワーカー、地域の相談支援事業所などへの相談が重要です。
判断に迷う場合は
「どちらに相談すれば良いか分からない」「アドラー心理学だけで大丈夫だろうか」と迷う場合は、決して自己判断せず、まずはかかりつけ医や地域の相談窓口(保健所、精神保健福祉センター、いのちの電話など)、あるいは信頼できる人に相談し、適切なアドバイスを受けてください。 複数の専門家の意見を聞くことも有効です。
