アドラー心理学Q&A

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基本前提

Category: 基本前提

アドラーの「目的論」とは、現在の行動は未来の「目的」を達成するために起こすものだと考えるのに対し、フロイトの「原因論」は、現在の行動は「過去の原因」(トラウマなど)によって決定されるものだと考える点に違いがあります。

アドラー心理学の「目的論」とは、人間の行動や感情は基本的に、過去の原因や環境によって起きるのではなく、何らかの目的を達成しようとするために個人が起こすのだ、と考える立場です。例えば子どもが不適切な行動をする場合、目的論の立場では、過去の出来事や環境が子どもに不適切な行動を行わせると考えるのではなく、その行動には子どもにとって何らかの重要な目的があると考えます。

フロイトの精神分析に代表される「原因論」では、現在の問題など人間行動全般を、過去の経験、特に幼少期の経験をめぐる内面的な無意識の葛藤などを原因とするといったように、機械論的にとらえます。それに対してアドラー心理学では、「目的論」に基づいて、人間行動全般は有機体としての個人が、意識的あるいは無意識的に定めた仮想的目標を達成するための動きである、すなわち、相対的マイナスの位置から相対的プラスの位置に向かうための運動だと強調します。

なお、アドラー心理学では過去や環境の影響を完全に否定するわけではありません。たとえば成長過程における身近な人間との葛藤がライフスタイル形成に大きく影響するなど、過去の出来事の間接的な影響を認めています。また、強いストレスによる生理的反応としてPTSD等の急性または慢性的な症状が現れることや、発達障害による行動特性が子どもの行動に様々な傾向性を与えることなどを否定することもありません。これら先天的、後天的な事項や環境の影響にも充分注意が必要であるという立場です。

主要概念

Category: 主要概念

アドラー心理学でいう「劣等感」とは、「自分は他者よりも価値がない」という思い込み・感覚だけを指しているのではなく、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。アドラー心理学では前者を後天的に意味づけられた幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へ駆り立てる原動力になるものと捉えます。

アドラー心理学における最も重要な概念は「共同体感覚」ですが、有名であるという点では「劣等感」が一番かも知れません。

アドラーは「劣等感」を、「不完全である成就していないという感覚」と述べました。すなわちアドラー心理学における「劣等感」とは、「自分は他者よりも価値が少ない」という思い込み・感覚だけを指しているのではなく、もう少し広く、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。ドイツ語の原語「Minderwertigkeit」は、文字通り「価値がより少ない感じ」を意味します。これは本来、理想通りでない自分には価値が少ない、という意味あいですが、現代のような競合的な社会において「劣等感」とは、もっぱら「人に比べて自分は○○の点で劣っている(から自分には価値がない)」という意味で使われています。

人間の赤ちゃんは、はじめは自分と他者の優劣を比較しない「平等」な世界のなかで、安心して生きているのでしょう。しかし、子どもは成長し言葉を覚え、社会生活を送る中で、まるで当たり前のように「劣等感」を持ち続けるようになります。これについてアドラー派の学者は、次のようなプロセスによるものとの指摘しています。

  1. 「区別」の学習:優れたものと劣ったものの「区別」を学ぶ。
  2.  「勇気くじき」:親や教師から「それじゃダメ」「なんでできないの?」といった言葉をかけられること(勇気くじき)で、「自分は他者より劣っている存在だ」と思い込む。

人は、「私はこういう点で劣っている」という劣等感(相対的マイナス)を抱くと、世界への所属感や安心感といった「平等」の感覚を失ってしまいます。そこで失った感覚を取り戻そうと、「私はこうでなければならない」(例:「人の上に立たなければならない」「人に好かれなければならない」)といった、その人にとっての理想の姿である「優越目標(相対的プラス)」を立てて、その目標を達成するための行動を起こします。アドラー心理学ではこのように、人間の行動を、相対的マイナスから相対的プラスに向かう目標追求として捉えます。

しかし劣等感をずっと持ち続けると、上記のような目標も、どれだけ追いかけても決して到達できない地平線のように逃げていきます。そのため、常に不安を抱え、緊張し、努力し続けなければならない状態に陥ります。つまりいわゆる、対人関係や社会における劣等感というものは、後天的に意味づけられた「自分には価値がない」という幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へ駆り立てる原動力になるものと捉えることができます。

Category: 主要概念

「劣等コンプレックス」とは劣等感を言い訳にして人生の課題から逃げる状態を指し、「優越コンプレックス」とはその劣等感を隠すために自分が優れているかのように振る舞う、劣等感の裏返しである状態を指します。

アドラー心理学における「劣等コンプレックス」とは、人が持つ「劣等感」を、人生の課題から逃れるための口実として利用している状態を指します。これは、困難に対して建設的に取り組むことを避け、自分を正当化するための自己欺瞞に他なりません。その目的は、現状維持が失敗を招いたとしても、その責任を自分以外のものに転嫁することにあります。また「劣等コンプレックス」は、過度に心の傷や被害者意識などを訴えることで周囲の同情を引いたり、相手を感情的に支配する手段として使われることもあります。

では、人はどのようにして「劣等コンプレックス」を使うに至るのでしょうか。人間は誰しも、生まれながらにして「自分は劣っている」と感じているわけではありません。しかし、成長の過程で、社会や家庭、学校における様々な要因の影響により劣等感を持つようになると考えられます。

子どもは言葉を覚えるにつれて、物事の「違い」を「優劣」として区別し始めます。その際に、親や教師が「どうしてできないの?」「もっと頑張らないとダメ」といった否定的な言葉(アドラー心理学で言う「勇気くじき」)を投げかけると、子どもは「自分は(人として)劣っている」という思い込み、つまり劣等感を抱くようになります。

この「自分は劣っている」という感覚は、客観的な事実ではなく、作られた思い込み(フィクション)です。しかし、この劣等感から逃れるために、人は「優越」という架空の目標を立て、それに向かって努力を始めます。この「劣等から優越へ」という動きそのものが、ライフスタイルの基本構造となりますが、多くお場合、初めからピントがずれた努力に陥りがちです。

身体的な特徴(器官劣等性)、性別、生まれ育ち、経済状況、さらには家族や上司といった人間関係まで、本人と相手が納得しさえすれば、ありとあらゆるものが劣等コンプレックスの材料となり得ます。現代社会では、特に「老い」がネガティブなものと捉えられ、高齢者が大きな劣等感を抱えやすい状況にあります。

人が劣等コンプレックスを人生の主要な方針として用いるようになると、それは「神経症」と呼ばれます。神経症的な人は劣等コンプレックスを実践しており、自分が作り出した口実に完全に騙されている状態にあります。アドラーはこの状態を「犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている」と表現しました。この自己欺瞞のサイクルに囚われている限り、人生の問題の真の解決には至りません。

劣等コンプレックスから抜け出すためには、まず、その自己欺瞞の輪から一歩外へ出ることが必要です。

  • 共同体への貢献
    他者や社会に貢献すること(それらにプラスになることを始めること)は、内向きの関心を外に向け、サイクルを断ち切る鍵となります。
  • 「劣等」という幻想
    私たちが抱く「劣等感」は、実は社会全体が共有する壮大な誤解に過ぎず、客観的な事実ではないと理解しましょう。
  • 「勇気づけ」
    子どもへの「勇気づけ」は、子どもが劣等コンプレックスを使って生きる選択をしないようにするために重要です。たとえば、子どもが貢献してくれたことに感謝を感じたなら、「お手伝いありがとう」「あなたがいると助かる」といった言葉を伝えることができます。こうしたことよって子どもは、自分は他者の役に立つ存在であると感じることができ、そこから自分の力を他者のために使う勇気が生まれることでしょう。

つまり、人と人との優劣という幻想の物差しから降り、他者と対等な立場で協力関係を築いていくことが、劣等コンプレックスを克服する唯一の道と言えます。

一方、「優越コンプレックス」は、劣等感の裏返しとして、あたかも自分が優れているかのように振る舞うことで、劣等感を隠そうとする状態です。自慢話を繰り返したり、他者を見下したり、権威を誇示したりする行動がこれにあたります。こちらも劣等コンプレックスと同様に他者との調和を欠き、対人関係の摩擦を生じやすいあり方といえます。また「優越コンプレックス」は、対人関係において片方が相手への劣等感を過補償し、それに対して相手がさらに大きな劣等感を持ち、それを過補償し、といったように繰り返されていくことで、両者の争いが際限なく拡大する原因でもあります。

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アドラー心理学の「ライフスタイル」とは「性格」や「人格」にあたるもので、遺伝や環境に一方的に決定されるのではなく、子ども自身が家庭環境やきょうだい関係に影響を受けながら、試行錯誤や模倣などを通じて主体的に「選択」して形成するものです。

「ライフスタイル」とは、一般的に使われる「性格」や「人格」に相当する、アドラー心理学の中心的な概念です。アドラーが「性格」や「人格」という言葉を使わなかったのは、「性格」という言葉が持つ遺伝決定論的なニュアンスと、「人格」が持つ、逆に遺伝的要因を軽視しすぎるニュアンスの両方を避けるためでした。また、アドラー心理学では、ライフスタイルは遺伝や環境に影響はされるものの、それらによって一方的に決定されるわけではないと考えます。この独自の立場を明確にするために、「ライフスタイル」という言葉が選ばれました。

次に、ライフスタイルの形成過程についてですが、ライフスタイル形成における最も重要な原則は、子ども自身が主体的な「選択」によってライフスタイルを選び取るという点です。子どもは以下の3つの方法を通じて世界を学び、自らの生き方(ライフスタイル)を能動的に構築していきます。

  • 試行錯誤:様々な行動を試し、その結果(親や兄弟に受け入れられたか、願いが叶ったかなど)から、うまくいく方法を法則として自ら発見します。
  • モデル(模倣):親や兄弟、物語の登場人物など、他者の行動を真似ることで学びます。
  • 言葉:親や教師から話を聞いたり、本を読んだりして、言語を通じて学びます。

いずれの方法においても、子どもは教えられたことをそのまま受け入れるのではなく、自分が学びたいことを選び取って、自身のライフスタイルを形作っていきます。子どもがライフスタイルを「選択」する上で、特に大きな影響を与えるのが「家庭環境」と「きょうだい関係」です。

「家庭環境」は人間が人間らしく育つための最も基礎的な共同体であり、家庭を破壊することは健全なライフスタイル形成を著しく阻害します。

「きょうだい関係」ですが、アドラーは、親よりもきょうだいの影響を重視しました。なぜなら、いってみれば親は獲得すべき「賞品」であるのに対し、きょうだいは同じ賞品を奪い合う「競争相手」に位置し、生き方の作戦(ライフスタイル)を立てる上でより決定的な影響を与えるからです。アドラーによると、誕生順位によって以下のような典型的な傾向が見られるとされます。

  • 第一子(長子):親の愛情を独占した後に王座を奪われる経験から、賢さや能力を誇示する、あるいは乱暴になるといった作戦をとる傾向があります。
  • 中間子:注目を独占した経験がなく、家の中より外に活路を見出したり、人間関係の中で自分の位置を確保するために工夫を凝らしたりします。
  • 末子:常に年長者に囲まれ、可愛がられる術を身につけますが、主体性に欠ける可能性があります。
  • 一人っ子:末子に似ていますが、競争相手がいないため、許される範囲の「限界」を知らない傾向があります。

なお、誕生順位によるこうしたライフスタイルの傾向は、単に一つの例であって可能性にすぎないものです。個人のライフスタイルはその人独特のものであるが故に、誕生順位以外の様々な情報を知ることによってはじめて個人のライフスタイルを理解することができるのだとアドラー自身が述べています。

たとえば、性別やきょうだい間の年齢差、個々の子どものリソースによってもまったく違ってきます。親の影響としては、親の持つ価値観すなわち「家族の価値」や、家族の価値を伝える方法としての「家族の雰囲気」があります。また、家庭以外でライフスタイルに影響を及ぼす要因としては、学校や、その他ライフスタイル形成期に子どもが所属する集団や、子どもが接する様々な情報(メデイア、出版物、インターネットなど)も、ライフスタイル形成に影響を与える要因となります。

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アドラー心理学の「課題の分離」とは、ある課題の結末が最終的に誰にふりかかるかという観点から、その課題が「本来誰の課題か」を判断する考え方であり、他者が本人の課題を勝手に肩代わりすることを防ぐとともに、必要に応じて「共同の課題」として協力し合うための準備段階として重要になります。

アドラー心理学では、共同体のメンバーが人生の課題に遭遇したときに、その課題に責任をもつ本人が対処するのに加えて、必要に応じてその課題を共同体における「共同の課題」としてとらえ、他のメンバーも協力してそれに対処しようと考えます。しかし、そうした分担を的確に行うためには、共同体のメンバーの間で、その課題が誰のどのような課題であるかについて、あらかじめ明らかでなくてはなりません。

実は、それを明らかにする作業こそが、いわゆる「課題の分離」なのです。「課題の分離」とは、共同の課題を作るための準備段階として、その課題に関する結末が最終的にふりかかるのは誰か、という観点から、その課題が本来誰の課題であるかを判断するものです。

例えば、「子どもが勉強するかどうか」という課題は、本来は子ども自身の課題であるはずです。なぜならば、子どもが勉強するにせよしないにせよ、それによって左右されるのは、他ならぬ子ども自身の将来だからです。だとすると、宿題をしないことで親自身が感じる不安を解消したいなどの理由で、子どもの考えを聞いたり話し合ったりせずに、ひたすら叱責して宿題をやらせようとしたり、勉強の仕方に一方的に口を出したりすることは、「育児」としては筋違いといえないでしょうか。つまりそれで成績は伸びたとしても、果たして子ども自身は成長するのでしょうか。

「課題の分離」をせずに、子どもの課題を勝手に肩代わりすることは、自分のなすべきことを自分でやりとげる、あるいは誰かと協力してやりとげるという貴重な機会を子どもから奪ってしまうことに他なりません。そのため、課題への対処を子ども自身に任せる場合も、あるいはすべて子どもだけに任せず、共同の課題にする場合にも、あらかじめそれらについて、子どもとよく話し合わなければなりません。子どもがその課題についてどのように考えているのか、なにか助力を必要としているか、などについて子どもの話をよく聴き、子どもがしてほしいことで親ができそうなことを具体的に親子で話し合って決めていくのです。

なお、こうして課題について話し合いをした後も、常に子どもを見守って、場合によっては共同の課題を作り直す、という作業が必要となります。一度課題を分離したらもうそれっきりで、「あなたの課題だから」と終わりにしてしまうのなら、それでは単なる無責任な放任育児であって、アドラー心理学とはいえません。

ちなみに課題の分離について、アドラー心理学でもっとも重要な技法だと紹介されることがあるようですが、それは誤りです。重要ですが、最重要ではありません。それよりも大事なのは、課題を分離した後の共同の課題をつくる過程であり、さらに大事なのは、そうして課題を分担し合い、協力しあってともに幸せに暮らすこと、そしてそのように育った人々が増えていくことで、次第にこの世の中が暮らしやすい世の中に変わっていくことです。大袈裟なようですが、それがアドラーの思い描いた人類の未来なのです。

こじれたコミュニケーションの5つの段階

アドラー心理学では、子どもの不適切な行動を単に罰するのではなく、その背景にある、「所属(居場所)」を得ようとする目的(賞賛・注目・権力争い等)を理解しようとし、それはしばしば大人との「こじれたコミュニケーション」の現れであると捉えます。

アドラー心理学では、子どもの不適切な行動(問題行動)に対して、その行動自体を罰したり禁止したりするのではなく、背景にある理由を理解しようと努めます(ただし他者に危害が及ぶなど緊急避難が必要な場合は、その限りではありません)。

子どもが不適切な行動をする理由はいくつも考えられますが、R.ドライカースは、子どもがこうした行動を人びとの間に居場所(所属)を得る目的で起こすことがあると考え、これらの行動とその目的を以下の4段階に分類しました。

  • 注目・関心を引く
  • 権力争い
  • 復讐する
  • 無能力を誇示する

その後、野田をはじめとする多くの現代の研究者は、上記の最初の段階として

  • 賞賛を求める

という項目を追加しています。

それぞれの段階における基本的な対応は、それらの行動とは別の建設的な方法で所属を得ることができると子どもに学んでもらえるよう、親や周囲の大人、あるいは専門家などから勇気づけを行うことです。

ただし注意しなくてはならないのは、ある子どもが上記の段階のうちのいずれかの振る舞いを見せたとしても、別の場所や異なる相手に対しては、全く違う振る舞いをすることが少なくないという点です。ドライカースは各段階での子どもの行動とその目的を「子どもの行動の誤った目標」と呼びました。しかし野田は、この呼び方では、親などの大人の「子どもの行動がこのように不適切(=私の判断は適切)」だという受け止め方を招き、子どもを一面的にかつ一方的に裁くことにつながりかねないと懸念したのです。

野田は、ある大人に対して子どもがそうした振る舞いをするのは、その大人と子どもの間に、そのようなコミュニケーションの構造があるからだと指摘します。この5つの段階についても、「こじれたコミュニケーションの5つの段階」として説明しました。つまり改善すべきなのは、親と子どもの競合的なコミュニケーションのあり方であって、その一環として、子どもにも建設的な所属の仕方を学んでもらうのです。したがって、そこで学ぶべきなのは子どもだけではありません。

なお、不適切な行動の理由は、ここで述べたコミュニケーションの問題以外にも考えられます。たとえば発達段階の途上で、何が不適切な行動かを知らない場合。不適切だと知っていても、どうすればよいか分からない場合。あるいは、障がいを原因とする様々な困難を抱えている場合などです。これらの要因を除外した上で、はじめてこの「こじれたコミュニケーションの5つの段階」を検討していくことになります。

「賞賛を求める」とは、こじれたコミュニケーションの第一段階で、子どもが「褒められない自分には価値がない」という考えから、賞賛されることによって集団内の居場所を得ようと「適切な行動」をとる状態であり、賞賛が得られなくなるとその行動をやめてしまうため、その行動自体ではなく他の貢献的な行動に注目して勇気づける必要があります。

こじれたコミュニケーションの5つの段階(子どもの不適切な行動の目的)、その第一段階が「賞賛を求める」です。子どもは大人(特に親や教師)に褒められることで集団の中に居場所を確保しようとして、「適切な行動」をとろうとします。つまり、「褒められない自分には価値がない」という考えに基づいているため、これはすでに勇気がくじかれた状態と捉えられます。ここで注意すべきは、子どもが適切な行動そのものではなく、それによって賞賛されることを重視しているという点です。

こうした子どもの行動は、表面上は不適切な行動に見えません。大人は当初、こうした行動に喜びなどの陽性感情を抱き、褒めてあげたいと感じるものです。しかし、子どもが繰り返し賞賛を求めてくると、次第にそれを煩わしく感じるようになっていきます。そして、子どもは賞賛が得られなくなると、ただちに適切な行動をやめてしまいます。子どもを褒めて育てる場合の弊害がここにあります。しかし、だからといってここで単純に褒めるのをやめてしまったり、あるいは子どもが競争に負けるなどして賞賛を得られなくなったりすると、次の段階の行動に移行してしまうおそれがあります。

ここでの対応として重要なのは、子どもが賞賛のために行っている行動を褒めるのではなく、その子が意識せずに行っている共同体への貢献的な行動に注目することです。その子自身が「(褒められなくとも)自分には価値があり、ここに居場所がある」と感じられるよう、援助していくことが求められます。

「注目・関心を引く」とは、不適切な行動の目的の第二段階で、良いことや普通のことでは注目されず価値がないと感じた子どもが、いたずらや騒ぐといった困った行動をわざと行うことで、たとえ怒られてでも「無視されるよりマシ」と大人の関心を引こうとする状態です。

子どもの不適切な行動の目的、その第二段階が「注目・関心を引く」です。これは、子どもが良いことで注目されない、あるいは普通にしていても注目されないと感じたときに、悪いことや困った行動をすることで、大人(特に親や教師)の関心を引こうとする行動です。例えば、わざといたずらをする、大声で騒ぐ、ふざけるといった、大人の側でうるさく感じられ、つい介入したくなるような行動がこれにあたります。注意をすると子どもはその行動をいったんやめますから、大人の方はイライラしますが本気で腹は立ちません。

ここで子どもは「自分には良いことができないし、普通にしていても誰にも見てもらえない。こんな自分には価値がない。」と感じているので、これもまた勇気がくじかれた状態といえます。このような状態にあっては、「無視されるよりは怒られる方がまだマシ」なのです。

ここまでの段階では、子どもはまだ比較的肯定的な注目を求めているため、大人からの適切な関心や承認、そして勇気づけを通じて、より建設的な方法で所属を得るように促すことができます。適切な行動に対して注目しつつ、不適切な行動に対して注目しないという関わり方が基本となります。ただし、単に無視したり罰したりするだけでは、注目によって居場所を得ようとする子どもの目標は達成されません。子どもは自分には価値があるとますます思えなくなって、さらに次の段階の行動に進んでしまう可能性があります。 

「権力争い」とは、不適切な行動の目的の第三段階であり、注目を得ても居場所がないと感じた子どもが、特に罰や強制を用いる大人に対して「勝たないと価値がない」と考え、反抗的な態度やルール破りによって自分の力を示そうとする状態を指します。

不適切な行動の目的、その第三段階が「権力争い」です。前の段階である「不適切な行動で注目・関心を得る」を試みても、所属が得られないと感じたり、自分には価値があると十分感じられなかった場合にこの段階に進みます。つまり、大人が子どもの行動をコントロールしようと罰を用いたり強制したりした場合に現れやすくなります。子どもは、大人に勝たないと自分には価値がなく、自分の居場所がないと感じます。そこで大人に対して反抗的な態度をとったり、指示に従わなかったり、わざとルールを破ったりすることで、自分の力を示そうとします。

この段階は、大人の側では腹立たしく感じられますが、だからといって正論や力で押さえつけようとすれば、子どもの抵抗はさらに強まり、いわゆるケンカに陥ってしまいます。重要なのは、コミュニケーションが権力争いの形になってしまったことに気づいたら、その争いから降りることです。もしどうしても感情的になる場合にはその場を離れ、冷静になってから改めて話し合うことが大切です。その際には、大人が自分の意見を言う前に、相手の話を裁かず十分に聞くこと。そして、子どもの行動の適切な側面を探したり、子どもはそもそも何を解決したかったのかを考え、そのために大人が協力できることはないか相談したりすること。これらが、こじれたコミュニケーションを改善するために重要となります。

「復讐する」とは、不適切な行動の目的の第四段階であり、それまでの段階(賞賛・注目・権力争い)で所属感を得られず大人に傷つけられたと感じた子どもが、自分を傷つけたと認識する相手に対し、物を壊したり嘘をついたりするなど意図的に相手が嫌がることをして仕返ししようとする状態を指します。

不適切な行動の目的、その第四段階は「復讐する」です。これは、第一段階「賞賛を求める」、第二段階「注目を得る」、第三段階「権力争い」といったいずれの行動でも、所属感や自分には価値があるという感じが持てず、大人から傷つけられたり、不当な扱いを受けたと感じたりした場合に現れます。子どもは、直接的には相手に勝てないと悟ると、間接的な方法で相手を傷つけようと試みます。つまり、自分を傷つけたと認識している相手に対し、意図的に相手が嫌がることや困ることを仕掛け、仕返しをしようとするのです。例えば、物を壊す、嘘をつく、陰湿ないじめをするといった行動です。非行に走ったり、神経症的な症状を出す事もあります。

この段階の子どもは深い絶望感や憎しみを抱いていることがあり、その場合、罰や叱責はもちろん、普通に話しかけることさえ、かえって復讐心を煽るだけとなります。大人の側も深く傷つくことの多いこの段階は、もはや当事者どうしでは解決できません。そのため、こじれたコミュニケーションは、一つ前の「権力争い」の段階で止めておく事が極めて重要となります。この復讐の段階では、第三者であるカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入が必要になります。あるいは第三者でこの子どもと良好な関係を築いている大人がいれば、その方の援助を仰ぐ方法があります。

「無能力を誇示する」とは、不適切な行動の目的の第五段階であり、それまでの段階(賞賛・注目、権力争い、復讐)でも所属感が得られず自分に全く価値がないと深く絶望した子どもが、あらゆる建設的な努力を放棄し、「自分は無価値だから放っておいてくれ」という態度を示す状態を指します。

不適切な行動の目的、その第五段階は「無能力を誇示する」です。これは、それまでの段階(賞賛・注目、権力争い、復讐)を経ても所属している感じが得られず、自分には価値がまったくないと感じている状態を指します。何をしても無駄だと深く絶望し、あらゆる建設的な努力を放棄してしまい、「自分は無価値で役に立たないんだから、あきらめてほっといてくれ」という態度を示すのです。極端な場合には、犯罪を繰り返したり、深刻な精神的症状によって入退院を繰り返すといった状態に至ることもあり、親の側としてもそうした行動に絶望してしまうことは少なくありません。

この段階にある子どもへの対応は極めて難しく、家庭内での働きかけよりも、専門的なトレーニングを受けたカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入、あるいは医師による診断と治療、またはその両方が不可欠となります。

「不適切な行動に注目せず、適切な行動に注目する」とは、不適切な行動には怒りや不安といった感情で対応せずに冷静に話し合い、適切な行動には単に褒めるのではなく背景にある人としての望ましい成長の芽生えに注目し、それを心からともに喜ぶ「共同作業」としての関わり方を指します。

「不適切な行動に注目しない」

はじめに強調しておきますが、多くの人が誤解しがちなこの言葉の意味は、「子どもの不適切な行動に対して、怒りや不安といったネガティブな感情で対応しない」という点にあります。決して、子どもを無視したり、見て見ぬふりをすることではありません。

アドラー心理学では、感情は「思考」をもとに生じると考えます。たとえばある出来事に対して「これは大変だ」「許せない」と考えると、そこで、不安や怒りといった感情が湧き上がってくるのです。そして親(あるいは教師)がそのような陰性感情(ネガティブな感情)を持っていると、子どもを勇気づけることはできず、建設的な話し合いもできません。怒りに任せて叱っても、あるいは冷たく子どもを無視しても、問題はこじれるばかりです。なぜなら、そうした感情的な関わり方こそが、子どもの不適切な行動への「注目」に他ならないからです。

ここで、理性的に関わることが重要となるのです。まず普段から、親自身が子どものよいところやよい思いをさがすなどをして、子どもの行動を別の見方で捉えられるようになる必要があります。子どもについてそのように見、そのように考えることが出来てこそ、子どもの不適切な行動に際して感情的にならず、冷静に「その行動は適切ではないと思うよ」「どうしてそうしたのか話してくれる?」と問いかけ、対話することができるのです。もちろんそうした関わり方は、不適切な行動に注目することにはあたりません。

しかし、物事の捉え方(その物事への意見、意味づけ、考え方)を変えることは簡単ではありません。なぜなら、人が物事を捉える際には、その人独特の、凝り固まった価値観を基準としているからです。物事の捉え方を変えるためには、まず自分独特のものの見方を知ること、そして、そうした自分の物の見方以外にも、他の見方もできるかもしれない、と考えてみることが大切になります。そのようにできて初めて、実際の子どもとのコミュニケーションのなかで落ち着いて子どものよい意図を探し、よいところを見つけ、そこで子どもに何を学んでもらいたいかを考えて、冷静に対応できるようになるのです。

とはいえ、その場でどうしても感情的になってしまうこともあるでしょう。そのようなときには、陰性感情をぶつけて関わるより、文字通り「注目せず」に、距離を置く方が賢明です。つまり、その場を離れて冷静になる工夫をするのです。ただしこれは、あくまで一時的な経過措置にすぎません。離れたままになるのではなく、大切なのは、冷静になったあとで子どもの話に耳を傾け、必要であれば話し合うことにあります。

「適切な行動に注目する」

こちらも同様に、単に「良い行い」を見つけて褒めることとは異なります。そのような対応は、いくつもの危険性をはらんでいます。例えば、普段勉強しない子がたまたま勉強した時に「偉いね」と褒め続ければ、子どもにとって「褒められること(ご褒美)」が目的になってしまうかもしれません。それでは親が褒めなくなればその行動をやめてしまい、子どもは、勉強をする本来の意味を理解する機会を失ってしまいます。

では、何に注目するべきなのでしょうか。注目すべきは、子どもの個々の行動の良し悪しではなく、子どもの成長、すなわち「人として望ましいあり方」の芽生えなのです。

アドラー心理学が考える育児の最終目標は、《共通感覚》と《共同体感覚》を持った人間に育てることにあります。

《共通感覚》
現在暮らしているその社会(例えば日本)で、良しとされる常識や価値観のこと。例えば「正直」「勤勉」「親切」といった徳目や、伝統的に受け継がれている様々な作法や美意識などは共通感覚にあたります。
《共同体感覚》
社会(共同体)にとってよいことを善とする考え方。自分とは様々な点で違っている他者と、どちらが上/下、優れている/劣っているなどを争うのではなく、お互いに協力しあって「自分も相手も幸福になるにはどうすればよいか」を考える視点です。

この二つの目標をしっかりと持ち、子どもの日々の行動の中に、これらに結びつく成長を見つけた時に心から喜び、その喜びを子どもと分かち合うこと。それが「子どもの適切な行動に注目する」ことなのです。例えば「勉強した」という行動そのものに注目するのではなく、その背景にある「何かを知ろうとする姿勢」や、「将来、社会の役に立ちたいという子どもの思い」に気づき、それを喜ぶのです。そうした意味で、日常の中で「いまどんな本を読んでいるの?」「どんなことに関心があるの?」「どんな勉強してるの?」といったように、子どもが関心を持っていることに親が自ら関心を持つことも、適切な行動への注目へと結びついていくのです。

アドラー心理学の育児は、「子どもをコントロールする技術」ではありません。親自身がまず、子どもにどのように育ってほしいか、といった明確で建設的な目標を持たなくてはなりません。その上で、子どもとともに成長を喜び、子どもが何かしら困難を抱えたときには、どうしたらよいかをともに考え、将来子どもが社会に出たときに、周りの人びとと力を合わせて問題を解決していけるように少しずつ工夫を重ねていきます。このように、親子が共に成長していく「共同作業」こそが、「不適切な行動に注目せず、適切な行動に注目する」という言葉に込められた、アドラー心理学の深いメッセージなのです。

カウンセリングと応用

家庭内でアドラー心理学を実践するコツは、子どもが「自然の結末」や話し合いで決めたルールから「社会的結末」を学ぶのを援助し、暴力など許されない行為には冷静に選択肢を示して、これらを実行できる対等で協力的な親子関係を築くことです。

アドラー心理学の育児は、単に「褒めない、叱らない」という放任育児ではありません。親が圧力をかける代わりに、子どもが自らの行動の結果を体験し、そこから学ぶことを援助するアプローチを取ります。そのための具体的なコツは以下の通りです。

1, 【自然の結末】を体験させる

これは、親が直接介入するのではなく、子どもの行動が自然にもたらす結果をそのまま体験させる方法です。

  • 親は手出し・口出ししない
    例: 夜更かしをして朝起きられない、冷たいものを飲みすぎてお腹を壊すなど。親が無理に起こしたり、先回りして注意しすぎたりすると、子どもは学ぶ機会を失います。
  • 事前の「仕掛け」が重要
    例: 小学校に入学したら「自分で起きる権利」を与え、目覚まし時計をプレゼントする。その代わり親は起こさない、というルールを事前に子どもと話し合っておきます。これにより、子どもは自分の責任として朝起きることを学びます。
  • 親は動揺せず、子どもを信じる
    子どもが失敗しても、怒ったり心配しすぎたりせず、「この経験を通じて成長する」と信じる姿勢が大切です。
  • 問いかけで学びを促す
    失敗した後に「だから言ったでしょ」と責めるのではなく、「どうしてこうなったんだろうね?」「次からどうしようか?」と問いかけ、子ども自身に原因と対策を考えさせます。「賢いことを学んだね」と締めくくることで、子どもの学びを肯定します。

2, 話し合いでルールを決めて親子で守り、【社会的結末】を学ぶ

暴力や他人に迷惑をかける行為など、自然な結果に任せておけない問題については、家族でルールを決めます。

  • 子どもの話を聞く
    子どもの考えを理解するために、陰性感情や善し悪しの判断を抜きにして、まず子どもの話を聞きましょう。ただそれまでの親子関係の結果、子どもの勇気がくじかれていれば、子どもは「親に自分の考えを言ってもいつも否定されるし、結局親の思うとおりにされるので、ここで話をしても仕方がない」と思って、自分の考えを言わないかも知れません。
  • 家族会議で民主的にルールを決める
    子どもの話(考え)を聞いた上で、もし必要なら親からも、一般的にどう考えるかとか、親自身はどう考えているかなどを伝え、それに子ども自身も納得してくれれば、子どもと話し合ってルールを作っていきます。この段階で子どもからアイデアが出なければ、親からも守れそうなルールを提案することになります。
    ただこの場合も、親がいつも正論をかかげて子どもの考えを聴かないとか、陰性感情を使って「話しあい(と称する説教)」などしていれば、子どもは話し合うことをめんどくさがって、ただ親の言うとおりにしてしまう可能性があります。結局、大切なのは、普段から親(大人)が終始ヨコの関係で子どもと接することなのです。
  • ルールは全員が守る
    このようにして決めたルールを、子どもだけでなく親も守ります。「親は例外」というルールでは、子どもは納得しません。ルールを守ったことで得られる結末も、守れなかったことで生じる結末も、親子がともに引き受けます。そうすることで子どもは、ルールを守るということがどういうことなのか、学ぶことができるのです。また、ひょっとしたら親にもそうした学びがあるかもしれません。
  • 実行可能なルールにする
    ルールを作ったら「お試し期間」を設けるなどして、守れるルールかどうかを確認し、必要に応じて見直します。守れないルールだと分かれば、その理由を親子で考えて代替案を工夫し、あらためて新しいルールを守る約束をします。
  • 家族会議を儀式として楽しむ
    「家族会議」と銘打って少し形式張って行うことで、ルールに権威が生まれます。深刻にならず、楽しんで行うことが長続きのコツです。

3, 【選択できない可能性】には親が介入し、【社会的結末】を体験させる

暴力や家族の生活に差し支える行為など、社会のルールや社会通念に反する行為(=選択できない可能性)に対しては、親が介入します。

  • その行為を制止する
    感情的にならず、きっぱりと実行します。
  • その行為の結末と、社会的に望ましい行為の結末を、選択肢として提示する
    たとえば兄弟喧嘩の場合、喧嘩を続けて手を出すなどがあれば、兄弟で仲良く遊べなくなります。あるいは、ゲームをしながら食事をすることは、(社会通念的に)家庭内でも許されないことでしょう。よって前者では「仲良く遊ぶか、一人で遊ぶか、どちらかを選んでください」、後者では「ゲームをやめて食事をするか、この食事は抜きにしてゲームをするか、どちらかを選んでください」と、子どもの行為の【社会的結末】と、望ましい行為の結末を選択肢として提示し、子どもに選んでもらいます。
  • 親子がともにルールを守る
    上の例で、子どもが「仲良く遊ぶ」、あるいは「ゲームをやめて食事をする」を選んだにもかかわらず、再び暴力を振るったり、食事が終わっていないのにゲームを始めた場合は、「一人で遊ぶことを選んだ」あるいは「食事は抜きにしてゲームをすることを選んだ」とみなし、前者ならその場から引き離し、後者なら食事は下げてしまいます。
    子どもが泣いても言い訳をしても、毅然とした態度を貫くことが重要です。約束したルールは親子がともに守らなくてはなりません。またそうすることで、子どもは【社会的結末】を体験し、学ぶことができるからです。

4, 冷静に話し合える親子関係が不可欠

上記のコツを実践する大前提として、親子が対等な立場で、冷静に協力して話し合える関係を築くことが不可欠です。

  • 関係が未熟なうちは「課題の分離」に徹する
    冷静な話し合いが難しい間は、無理に共同の課題にしようとせず、「それはあなたの課題だから、あなたに任せます」と伝え、手を出さずに(課題の分離)、優しく注意深くこどもの行動を見守ります。
  • 関係が成熟すれば「共同の課題」に取り組める
    親子が信頼しあえる対等な仲間になれば、たとえ不登校などの難しい問題であっても、「ちゃんとした大人になる、という目的のために、一緒に何ができるか考えよう」と、協力して解決策を探ることができます。

アドラー心理学を教育現場で活かすには、教師が「所属感」の育成と「未来の民主的社会を担う人間を育てる」という大きな視座を持ち、原因論から目的論へ転換して賞罰教育を避け、子ども自身の力を信じて「引き出す」関わり方を実践する点に注意が必要です。

アドラー心理学を学校教育の現場で活かすためには、単なるテクニックの導入ではなく、教師自身の根本的な心構えの変革と、子どもたちへの深い理解に基づいたアプローチが求められます。
その注意点は、大きく「持つべき視点」と「具体的なアプローチ」に分けられます。

教師が持つべき基本的な心構えと視点

  1. 究極目標を理解する:「所属感」の育成
    教育の究極目標は、子どもたちが将来、共同体の一員として貢献しながら所属できるようにすることです。そのために、子どもたちが「人々は仲間だ」そして「私は能力がある」という二つの基本的な信念を持てるよう支援することが、あらゆる指導の根幹となります。
  2. 原因論から目的論への転換
    子どもの問題行動を見たとき、「なぜこんなことをするのか?」と過去の原因を探るのではなく、「この子は何を求めているのか?」と未来の目的を考えることが不可欠です。そして、その究極の目的は常にクラスへの「所属」である、という視点を持ちます。
  3. 感情的な即時反応をしない:「ストップ・シンク・アクト」
    問題に直面した際、すぐに叱るなどの感情的な反応をしてはいけません。まず「①ストップ(止まる)、②落ち着く、③考える、④それから行動する」という原則を徹底します。冷静な対応が、建設的な関わりのための絶対的な前提条件です。
  4. 二者関係ではなくクラス全体の力学で捉える
    学校教育は家庭とは異なり、常に「教師-生徒」と「生徒-クラス全体」という二重の力学が働いています。問題行動は、表面的には教師に向けられていても、その真の目的はクラス内での所属感を確保するためであることが多いと理解すべきです。そのため、安易に教師と生徒の一対一の関係(例:職員室での説教)だけで問題を解決しようとすると、かえって問題を強化しかねません。
  5. 教師の限界を認め、子どもたちの力を信じる
    教師一人がすべてを解決できるわけではありません。教師の役割は、クラスを支配する「扇の要」ではなく、子どもたちのネットワークを支援する「コンサルタント」です。子どもたち自身が持つ問題解決能力や、子どもたち同士の助け合いの力(総合援助の力)を信頼し、それを引き出す関わり方が求められます。

具体的なアプローチにおける注意点

  1. 賞罰教育を避ける
    賞や罰を用いる教育は、子どもを「競合」的な関係(勝ち負けや優劣の世界)に引き込み、協力的な学びを阻害するため、原則として用いるべきではありません。
  2. 「教え込み」から「引き出す」へ:循環的話法の実践
    「~しなさい」という一方的な指示・命令(直線的話法)ではなく、「どうすればできると思う?」といった、子ども自身に考えさせる「循環的な問いかけ」を多用します。これは、教師が答えを教え込む(インストラクト)のではなく、子どもが本来持っている答えやアイデアを、対話を通じて引き出す(エデュケート)ためのアプローチです。
  3. 貢献の機会を与え、クラス全体に働きかける
    不適切な行動に注目する代わりに、その子の長所や得意なこと(パーソナル・ストレンクス)を見つけ、クラスのために貢献する機会を与えます(特に小学生に有効)。また、個人の問題として抱え込ませず、「〇〇君がクラスに所属できるよう、みんなで何ができるだろう?」とクラス全体に問いかけ、協力して解決する文化を育みます。
  4. 「解決」に焦点を当て、具体的なステップを示す
    原因追及に時間を使うのではなく、実現可能な解決像を子どもと共に描き、そこに向かうための具体的な方法を考えます。その際、大きな目標を達成可能な小さなステップ(階段)に分け、スモールステップで進めるよう支援することが重要です。

これらの実践は、単なるクラスルームマネジメントの技法に留まりません。それは、子どもたちに「共同体感覚」と「常識」を教え、他人の問題を「自分には関係ない」と切り捨てるのではなく、「私にできることは何か」と考える、成熟した市民としての態度を育むプロセスです。最終的に、アドラー心理学を教育現場で活かす上での最も重要な注意点とは、学校教育の役割が、未来の民主的な社会を担う、協力的で責任感のある人間を育てることにある、という大きな視座を持つことだと言えるでしょう。

課題の分離について

親の責任とは、課題を肩代わりするのではなく、「課題の分離」を協力への準備段階と位置づけ、子どもが自ら課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。

「課題の分離」は放置や責任放棄ではありません。課題の分離とは、親子あるいは仲間同士が支え合い、協力し合って暮らすための、その準備段階にあたる技法です。文化的な傾向として、課題が誰のものなのか混乱しがちな日本でも、安全にアドラー心理学が使えるようにと、かつてのドライカースのアイデアを元に、野田俊作が考案しました。

ときどき世の中で、「課題の分離」をアドラーの思想の核心のように説明していることがあるようですが、それは全くの誤りです。課題の分離はアドラー自身の主張には含まれていませんし、またこれは「技法」であって、目指すべき理想や哲学ではありません。親子それぞれが自分の責任を果たしながら、協力しあって暮らしていくことが、アドラー心理学に基づく家族の暮らし方です。そうした分担と協力の準備のためにこそ、いったん課題を「分離」するのです。したがって、課題を機械的に切り離すことが課題の分離なのではありません。横の関係に立って親子で心から話し合い、どの課題が誰の負うべき課題なのかを明らかにすることが「課題の分離」なのです。

親としての責任は、子どもの責任を肩代わりすることではなく、子どもが自分の課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。具体的には、子どもの話をよく聞いたうえで、子どもの力を信じ、見守り、励まし、努力を見届ける、必要ならば子どもと話し合って勉強の環境を整える、子どもの様子に応じて困っているか声をかける、問われれば質問に答える(答えを教えず考え方を導く)などの援助が考えられます。