基本前提
アドラー心理学とは、個人を「分割できない全体」として捉え、その行動は未来の「目的」によって決定されると考え、個人は仮想の世界に暮らしており、なおかつ社会に組み込まれた存在だとする心理学です。他者と協力し社会(共同体)に貢献することを善とする「共同体感覚」の育成を重視する点が特徴です。
アドラー心理学は、オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラー(Alfred Adler, 1870-1937)が創始した心理学です。
人間の行動や心理を理解するにあたり、個人を自ら主体的に動く、分割できない全体として捉え、フロイトの精神分析などが過去の原因を重視するのに対し、アドラー心理学は、未来の目的や目標に向かって個人が現在の行動を決定すると考えます。また個人は主観的に意味づけられた仮想の世界に暮らしており、なおかつ、対人関係や社会に組み込まれた存在であると捉えます。したがって個人の人生における課題も目標もそれぞれ仮想であって、それらは社会的な文脈のなかにあると考えます。
またアドラー心理学は心理学でありながら、他者と争うのではなく協力し合って社会(共同体)に貢献することを善とする「共同体感覚」の育成に向けて、自分自身と他者を勇気づける、哲学的・思想的実践としての側面を持っています。
主要概念
「共同体感覚」とは、「自分は社会(共同体)に所属しており、人々は仲間であり、自分は人々に貢献できる」という感覚のことで、他者と協力して幸福に生きるための最も重要な指標であり、アドラー心理学の究極的な目標であるため重視されます。
「共同体感覚」(独:Gemeinschaftsgefühl、英:Community Feeling/Social Interest)は、アドラー心理学における中心概念であり、個人の精神的な健康の最も重要な指標とされています。これは、「自分は社会(共同体)に所属しており、人々は仲間であり、自分は人々に貢献できる」という感覚を指します。人間は一人では生きていけず、他者と協力しながら社会の中で自分の負うべき役割を果たすことで生きる意味が見かってゆく、というアドラー心理学の考えに基づいています。野田俊作はこれをわかりやすく、「『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』と考えること」と表現しました。
後述の「勇気づけ」は、この「共同体感覚」の育成を目的とする働きかけです。共同体感覚が育まれると、困難な状況に直面した際も、共同体感覚に基づいて判断することで、より広い視点から物事を捉え、建設的な解決策を見出しやすくなります。アドラー心理学の究極的な目標は、より多くの人々のこの共同体感覚を育成し、人々がより幸福で調和のとれた人生を送れるように援助することにあります。
「私的感覚」とは、出来事に対して「良い(プラス)」「悪い(マイナス)」を瞬時に判断する個人独自の無意識的な価値判断であり、これが個々のエピソードにおける表層的な反応(私的論理)を生み出すのに対し、「ライフスタイル」は、複数のエピソードに共通するその人固有の「私的感覚(=私的意味づけ)」の背後にある、パーソナリティ全体を貫く根源的な思考・行動パターン(深層構造)を指します。
「私的感覚(Private Sense)」とは、個人が持つ独自の「こうあるべきだ」「こうなったら素晴らしい」という感覚に基づく、多くの場合無意識に行われる「価値判断」のことです。これは、ある出来事や状況に直面した際に、「何が良いこと(プラス)で、何が悪いこと(マイナス)か」を瞬時に判断する、個人の行動の背後にある「黒幕」のようなものです。
この感覚は、具体的な出来事の中で次のように機能します。
- ある出来事が起こると、人は無意識に自分の「私的感覚」に照らし合わせます。
- その出来事が理想から外れている(マイナス面)と判断されると、「劣等感」が生じます。これは「他人より劣っている」という意味ではなく、「自分の理想と現実とのギャップ」を指す感覚です。
- この劣等感は具体的には、不安、怒り、後悔などといった「陰性感情」として感じられます。
- そして、その理想と違う状況を解決し、理想の状態(プラス面)に近づけようとする「対処行動」が引き起こされます。
そのため、ある人の「私的感覚」を理解するためには、まず具体的な「エピソード(一回限りの出来事)」の分析から始めます。そのエピソードにおいて陰性感情が最も強いところや、あるいはエピソードの中で初めて陰性感情が出たところ、続いていた陰性感情が急に強まったところなど、「そのエピソードが一番ドラマティックに展開をみせたところ」を起点に、以下の3つの要素を分析します。
- ライフタスク (Lifetask / LT):
その「対処行動」を取らなければならなかった問題状況のこと。私的感覚のマイナス面に触れた出来事。この状況にある時、人は「劣等感」(理想と現実のギャップ)を感じます。具体的には陰性感情(不安、怒り、後悔など)として感じられます。 - 対処行動 (Coping Behavior / CB):
問題を解決するために、その人が具体的に取った行動のこと。 - 仮想的目標 (Fictional Goal / FG):
その「対処行動」の先に期待している理想的な解決イメージのこと。私的感覚のプラス面が現れたもの。その人が「こうなれば素晴らしい」と考える、キラキラした理想のイメージ。
これら3つの要素は、「私的感覚」という一つの価値判断から生まれ、「私的感覚」によってお互いに結びついています。つまり「私的感覚」とは、その個人固有の「およそ人たるもの(=自分も相手も)~であるべきだ」といった感覚に基づく、「【仮想的目標】はプラスであり、【ライフタスク】はマイナスであり、【対処行動】がマイナスからプラスに進むための手段である」という、プラスとマイナスの両側面を持つ価値判断の体系ということができます。
そして、私的感覚から生まれる「仮想的目標」は、以下の2種類に分けられます。
- 競合的な目標:
相手と自分を比べ、優劣や善悪などを決めようとする目標。これは相手を「劣っている」「間違っている」と裁くことになるため、対立を生みやすくなります。 - 協力的な目標:
相手と共通の目的に向かって協力しようとする目標。
人間関係のトラブルは、多くの場合「競合的な目標」を持つ私的感覚から生じます。その場合、解決のためには、目標をより「協力的なもの」へと作り直す必要があります。
次に「私的感覚」と「ライフスタイル」の関係ですが、「ライフスタイル」とは、個人のパーソナリティ全体を貫く、より根源的な思考・行動パターンのことです。アドラー心理学ではある個人が出来事に際して持つ、「ライフタスク→対処行動→仮想的目標」といったような考え方の流れを「私的論理」と呼んでいますが、これが個別のエピソードにおける表層的な反応パターンだとすれば、「ライフスタイル」はその背後にある深層構造といえます。また、ある個人の複数のエピソード(現在の複数の出来事や後述の早期回想)で共通して見出される、その個人に一貫するといえる「私的感覚」を「私的意味づけ」と呼びますが、そこに端を発して動いている根源的な思考パターンこそが「ライフスタイル」なのです。
| レベル | 価値判断の体系 | 考え方の流れ (LT → CB → FG) |
|---|---|---|
| 表層(個別のエピソード) | 私的感覚 (Private Sense) | 私的論理 (Private Logic) |
| 深層(パーソナリティ全体) | 私的意味づけ (Private meaning) | ライフスタイル (Lifestyle) |
「私的感覚」と「ライフスタイル」は以上のような関係にあります。
なお、ライフスタイルを分析する上で非常に有効なのが、「早期回想(小学校卒業くらいまでの、感情を伴う鮮明な子ども時代の記憶)」です。早期回想を分析する理由は以下の2つです。
- 現在のエピソードと、時間的に遠く離れた子ども時代の思い出に共通のパターン(私的感覚、私的論理)が見つかれば、それは一時的なものではなく、その人の生き方全体を貫く「ライフスタイル」である可能性が高まります。
- 人がわざわざ記憶し続けている数少ない子ども時代の思い出には、「この世とはこういうものだ」「自分はこういう人間だ」といった、自分自身、他者、世界に対するその人の根本的な意味づけ(「私的意味づけ」)がよりシンプルに表されていると考えられます。
早期回想の分析方法は、現在のエピソードの分析と全く同じ(LT→CB→FG)です。こうして複数のエピソードから「私的感覚」を分析し、その共通項を探ることで、個人の「ライフスタイル」が明らかになります。
このライフスタイルは固定的なものではなく、書き換えることが可能です。それには以下の3つのステップを繰り返すことが有効です。
- 理解 (Understand):
エピソード分析を通じて、自分の「私的感覚」や「私的論理」のパターン(例:「私はいつもこうやって失敗しているな」)を言葉にして理解する。 - 行動 (Act):
理解に基づいて、より協力的な目標や、より適切な対処行動を意識的に試してみる。 - 成功 (Succeed):
新しい行動によって、実際に関係がうまくいくという成功体験を積む。
この「理解→行動→成功」のサイクルが学習となって働き、個々の「私的感覚」がより協力的なものに修正され、最終的には根源的な「ライフスタイル」そのものが、より良い方向へと書き換えられていくのです。ただし上記の過程から明らかですが、これは自分ひとりで行えることではなく、周囲の協力と本人の努力があわさり、初めて可能となるものです。つまり、これは個人の成長過程であるとともに、個人が共同体に参加し、相互に貢献していく過程でもあるのです。
アドラー心理学の「課題の分離」とは、ある課題の結末が最終的に誰にふりかかるかという観点から、その課題が「本来誰の課題か」を判断する考え方であり、他者が本人の課題を勝手に肩代わりすることを防ぐとともに、必要に応じて「共同の課題」として協力し合うための準備段階として重要になります。
アドラー心理学では、共同体のメンバーが人生の課題に遭遇したときに、その課題に責任をもつ本人が対処するのに加えて、必要に応じてその課題を共同体における「共同の課題」としてとらえ、他のメンバーも協力してそれに対処しようと考えます。しかし、そうした分担を的確に行うためには、共同体のメンバーの間で、その課題が誰のどのような課題であるかについて、あらかじめ明らかでなくてはなりません。
実は、それを明らかにする作業こそが、いわゆる「課題の分離」なのです。「課題の分離」とは、共同の課題を作るための準備段階として、その課題に関する結末が最終的にふりかかるのは誰か、という観点から、その課題が本来誰の課題であるかを判断するものです。
例えば、「子どもが勉強するかどうか」という課題は、本来は子ども自身の課題であるはずです。なぜならば、子どもが勉強するにせよしないにせよ、それによって左右されるのは、他ならぬ子ども自身の将来だからです。だとすると、宿題をしないことで親自身が感じる不安を解消したいなどの理由で、子どもの考えを聞いたり話し合ったりせずに、ひたすら叱責して宿題をやらせようとしたり、勉強の仕方に一方的に口を出したりすることは、「育児」としては筋違いといえないでしょうか。つまりそれで成績は伸びたとしても、果たして子ども自身は成長するのでしょうか。
「課題の分離」をせずに、子どもの課題を勝手に肩代わりすることは、自分のなすべきことを自分でやりとげる、あるいは誰かと協力してやりとげるという貴重な機会を子どもから奪ってしまうことに他なりません。そのため、課題への対処を子ども自身に任せる場合も、あるいはすべて子どもだけに任せず、共同の課題にする場合にも、あらかじめそれらについて、子どもとよく話し合わなければなりません。子どもがその課題についてどのように考えているのか、なにか助力を必要としているか、などについて子どもの話をよく聴き、子どもがしてほしいことで親ができそうなことを具体的に親子で話し合って決めていくのです。
なお、こうして課題について話し合いをした後も、常に子どもを見守って、場合によっては共同の課題を作り直す、という作業が必要となります。一度課題を分離したらもうそれっきりで、「あなたの課題だから」と終わりにしてしまうのなら、それでは単なる無責任な放任育児であって、アドラー心理学とはいえません。
ちなみに課題の分離について、アドラー心理学でもっとも重要な技法だと紹介されることがあるようですが、それは誤りです。重要ですが、最重要ではありません。それよりも大事なのは、課題を分離した後の共同の課題をつくる過程であり、さらに大事なのは、そうして課題を分担し合い、協力しあってともに幸せに暮らすこと、そしてそのように育った人々が増えていくことで、次第にこの世の中が暮らしやすい世の中に変わっていくことです。大袈裟なようですが、それがアドラーの思い描いた人類の未来なのです。
アドラー心理学の「勇気づけ」とは、単なる「褒め言葉」のような小手先のテクニックではなく、尊敬に基づいた対等な「横の関係」から、相手が共同体感覚を持って協力的に生きられるよう働きかける、包括的な哲学であり生き方そのものです。
「勇気づけ」とは、相手がより共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。ある働きかけが実際に相手において、人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼ぶことができるのです。
「勇気づけ」は、まず働きかける側が自分から、人々との競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは「縦の関係」を抜けて「横の関係」で生きる決心をすることから始まります。なぜならば、一方的な働きかけでもなければ他人事でもない、ともに貢献し合う仲間同士としての働きかけであってこそ、相手を勇気づけることができるからです。
「勇気づけ」の技法としては、「子ども(相手)の話を聴く」ことや「お願い口調」という話の仕方、「課題の分離」、あるいは貢献や協力に注目する、過程を重視する、すでに達成できている成果を指摘する、失敗をも受け入れる、個人の成長を重視する、相手に判断をゆだねる、肯定的な表現を使う、「私メッセージ」を使う、「意見言葉」を使う、感謝し共感する、といったように様々なものがありますが、このどれもが現実の対人関係の中での、心からの相手への働きかけであることをけっして忘れてはなりません。これらは、単に言葉をなぞっただけの形だけのものになってしまえば、なんの役にも立たないばかりか、逆効果になることも少なくないのです。
すなわち「勇気づけ」とは、いわゆる「声がけ」や褒め言葉といったような小手先のテクニックなどではなく、人間への深い尊敬に基づいた包括的な哲学であり、生き方そのものといっても過言ではありません。「勇気づけ」の実践は、言葉への感性を磨き、対話のプロセスを大切にし、自らの感情をコントロールし、相手の貢献を信じてその機会を作り出す、たゆまぬ日々の心がけと努力の中にあります。それは、相手と私たち自身の人生を豊かにする、生涯をかけた学びの道程なのです。
カウンセリングと応用
アドラー心理学のカウンセリングは、クライアントが不幸の原因である「競合」的な生き方から「協力」的な生き方へと移行するための「学び(再教育)」のプロセスであり、クライアントの仮想的目標が協力的か競合的かを吟味し、新たな行動計画を立てる点に特徴があります。
アドラー心理学のカウンセリングは、単なる悩みの相談や気休めではなく、クライアントがより良い人生を送るための「学び」のプロセスです。洞察を重視し、必要であれば助言も行います。
その原理、具体的なプロセスは明確に示されており、カウンセラーや心理療法士には、医療関係者と同等かつ、アドラー心理学のプロバイダー(供給者)としての倫理的責任が求められます。
アドラー心理学のカウンセリングや心理療法の最終目的は、クライアントが「協力」というあり方を学ぶことです。アドラー心理学では、人間関係における問題や不幸の唯一の原因は、物事を「競合」的に捉えることにあると考えます。競合とは、相手と自分とを比較し、善悪・良否・美醜といった基準で優劣を決めようとする心の持ち方です。「相手が間違っている、自分が正しい」と裁くこの態度は、人間関係を勝ち負けの闘争にしてしまいます。それに対して協力とは、優劣の比較をやめ、相手と対等な立場で、力を合わせて問題を解決しようとする心の持ち方です。アドラー心理学のカウンセリングや心理療法は、この「競合」的な生き方から「協力」的な生き方へと移行するための再教育の場ですが、カウンセリングでは主に「エピソード分析」を用いてライフタスクに関する問題を解決することを目標にし、心理療法では、「ライフスタイル分析」によってライフスタイルに関する問題を解決することを目標にします。セッションの始まりには「前回はどんなことを学ばれましたか?」最後には「今日はどんなことを学ばれましたか?」と問われ、この学びをクライエント自身が言語化する事によって再認識することを促します。
一般的にアドラー心理学のカウンセリングでは、ある日あるところで一度だけ起きた、陰性感情を伴う出来事の話(エピソード)を素材にします。エピソードの中でのクライエントの「思考」「感情」、「目標」を探し、分析します。そして、エピソードの中でクライエントがとった行動について、次に似たような場面があったら、エピソードでとった行動の代わりにそんなことができそうか、行動の代替案を考えます。この時出た代替案などが「宿題」となることがあります。
カウンセリングや心理療法で扱う人間の行動は、すべて「相対的マイナスから相対的プラスへの目標追求」という原理に基づいていると理解されます。人は、何か問題を感じる状況(相対的マイナス)に陥ると、それを解決し、より理想的な状態(相対的プラス)を目指して行動します。この「相対的プラス」の状態は、多くの場合、本人が無意識に抱いている非現実的で空想的な「仮想的目標」です。
この原理に基づき、カウンセリングは以下のステップで進められます。カウンセリングでは、この仮想的目標が「競合的」なのか「協力的」なのかを分析することがポイントになります。カウンセラーは、エピソードを聞き終えた時点で、このプロセス全体のシナリオを見通すこととができるよう、トレーニングが必要になります。
以下に示すのは、元来欧米の言語体系で構築されたアドラー心理学のカウンセリング手順を、日本語話者に理解しやすくやりやすく工夫した、『エピソード分析』の手順です。
- エピソードの聴取:
「ある日、ある所で、一回だけ起こった、陰性感情を伴う出来事」を、客観的な事実として正確に聞き取ります。これが分析の出発点となります。 - 対処行動の特定:
物語を最も大きく動かした、クライアント自身の具体的な行動や言葉を「対処行動」として特定します。 - ライフタスクの特定:
その対処行動のきっかけとなった、相手の言動を「ライフタスク」として特定します。 - 仮想的目標の言語化:
ライフタスクが理想的な形で解決された状態がどのようなものかを推量し、「仮想的目標」を言語化します。 - 協力的目標/競合的目標の判断:
明らかになった仮想的目標が、協力的目標(一緒に問題を解決する方向性の目標。相手も納得してくれそうな目標)または競合的目標(相手を裁いたり、上下関係を決めようとしたりする。実現すると自分にとってはうれしいが、相手は同じようにうれしいとは思ってくれなそうな目標)のどちらにあたるかを、クライアントと共に吟味します。 - 新しい行動計画の立案:
目標が協力的な場合は、その目標を達成するためにより有効と思えるような、対処行動の代替案(例:目標をそのまま相手に伝える)を考えます。
目標が競合的な場合は、その目標を無理に達成しようとすると相手との関係が悪くなります。この場合は相手も納得してくれそうな協力的な目標を探し、その目標を達成するための、対処行動の代替案を一緒に探します。
なお、すべてのセッションの全過程を通じて基本となるのが、R.ドライカースの提唱した「治療的人間関係」、つまり、「相互尊敬、相互信頼、協力、目標の一致」という良い人間関係を終始築き、カウンセラー(心理療法士)とクライエントの共同作業を続けることです。アドラー心理学のカウンセリングは、教育的ではありますが、教示的ではありません。
アドラー心理学のカウンセラー(心理療法士)であるためには、まず自分自身の私的感覚や競合性を知り、日常生活でアドラー心理学の理論と思想にもとづいて物事を考え行動できるようになること、自分の私的感覚や私的論理を脇に置いて相手の話を聞いたり物事を考えられるようになることが必要です。
アドラー心理学のカウンセラーは、単なる技術者である「ユーザー」とは一線を画す、「プロバイダー(供給者)」として、以下の三つの重い倫理的責任を負っています。
- 理論への忠実性:アドラー心理学の「基本前提」を正しく理解し、それを崩さずに伝える責任。もし同意できないなら「アドラー心理学」を名乗るべきではありません。
- 思想の実践:「共同体感覚」という思想を、自らの実生活の中で実践し続ける責任。日常生活で競合的に暮らしている人に、協力的なカウンセリングはできません。
- ムーブメントへの貢献:アドラー心理学を、より良い世界を実現するための社会運動(ムーブメント)と捉え、それに貢献する責任。これは、過去から未来にわたる世界中のアドレリアンに対する連帯責任を意味します。
この責任を果たすためには、海外の技法を文化的な風土を無視して輸入するのではなく、日本の文化に根差した実践(例:日本における「課題の分離」の重視など)が求められます。また、アドラーや他の先達の著作を「聖典」のように深く読み込み、その思想だけが人類を救済するというほどの確信と、自らの人生を懸けるほどの「覚悟」がプロバイダーには不可欠であるといえます。
「治療的人間関係」とは、アドラー心理学カウンセリングの基本となるルドルフ・ドライカースが提唱した「良い相談関係」を指し、カウンセラーが能動的に関わる「相互尊敬」「相互信頼」「協力」「目標の一致」という四つの条件を満たすものです。
「治療的人間関係」とは、カウンセリングにおける「良い相談関係」を指し、その構築のためにルドルフ・ドライカースが提唱した「四つの条件」がその核心となります。これは、カール・ロジャーズが提唱した「受容」や「共感」といった姿勢とは異なり、セラピスト側がより能動的に関わっていく点を特徴としています。カウンセリングが上手くいかない場合、その99%はこの四つの条件のいずれかが満たされていないからであり、したがってこれらは、セッション後に常に自己点検すべき極めて重要な実践項目となります。この「治療的人間関係」を構成する四つの条件は以下の通りです。
- 相互尊敬
これは単に敬うことではなく、相手を「一回性(Einmaligkeit)」を持つ、かけがえのない「歴史的存在」として捉える、深く能動的な姿勢を指します。相互尊敬とは、語源である「re-spect(再び見る)」が示すように、相手を一人の人間として改めて見つめ直し、その人生の歴史全体を丸ごと掴もうとすることです。この姿勢を通じて、相手の現在の言動が、その人が生きてきた歴史の中で形成されたライフスタイルに根差していることを理解し、深いレベルで相手を尊敬します。 - 相互信頼
これは、クライアントがどのような状態にあっても、その人の最も根本にある「健常で健康な適応努力をする力」を絶対的に信じることです。現在見られる不適切な行動(神経症的策動)は、その人の健康な努力が過去の関係性(例:親子関係)の中で破綻した結果であり、本質的にその力自体が失われたわけではないと理解します。これは精神科医療のような困難な現場で特に不可欠な姿勢ともいえます。 - 協力
これは、セラピストとクライアントが「共に働く(ドイツ語: Mit-arbeit)」という対等な共同作業を行う関係性を意味します。セラピストがクライアントを一方的に「癒す(ヒーリングする)」という縦の関係ではなく、「人生の一時期を共に歩む」という横の関係を築くことです。共に作業し、共に時間を過ごすことを通じて、クライアントのその後の人生に良い影響が残ることを願う、温かい関わり方を指します。 - 目標の一致
これは、関係者間で「目標についての同盟」を結ぶという、意識的かつ契約的な関係を指します。日本文化に見られがちな「仲間だから」といった曖昧な関係ではなく、達成すべき目標、互いの役割、協力する範囲としない範囲を明確に言葉にして合意します。人間は一人では不完全で協力が必要ですが、その協力関係は明確な合意に基づかなければ、誤解やトラブルの原因になると考えます。カウンセリングの冒頭で「何を目標とするか」を合意することで、その後のプロセスが不当な介入や単なるお説教になることを防ぎ、生産的な協力関係を築きます。
「横の関係」とは、人間関係において能力や役割の違いや責任の大小を認めつつ、人間としての価値には優劣をつけず互いに尊敬し、対等な個人として関わっていく心のあり方であり、成熟した協力関係の基盤となるものです。
「横の関係」とは、アドラー心理学における人間関係の理想的なあり方を示す重要な概念です。これはアドラー自身ではなく、彼の弟子であるリディア・ジッシャーによって提唱されました。この概念を深く理解するには、その対極に位置づけられる「縦の関係」との比較、そして、よく似た日常語である「平等」や「同等」との正確な区別が不可欠です。
まず「縦の関係」とは、例えていえば、心の中に価値観という「はしご」を立てて、そこへ他者と自分とを位置づけて、人としての優劣を決めようとする心のあり方です。そこでの比較の基準は、善悪、良否、美醜など様々です。この関係性では、同じ地位の者の席は一つしかなく、人は常に他者との競争状態にあります。そこでは自分が上に立つために他者を蹴落としたり、自分が下にいると感じれば相手を罰しようとしたりします。
一方「横の関係」とは、「縦の関係」とは対照的に、他者と自分とを捉える際に心の中に価値観の「はしご」を立てず、人間としての価値には優劣をつけない関係です。人々がそれぞれ協力したり、あるいは協力しなかったりしながらも(目標が違う場合など)、それぞれは対等な立場で自分自身の人生を生きていると捉えます。英語ではそれぞれ、Vertical Plane(縦の関係)、Horizonal Plane(横の関係)と呼びます。
ここで注意が必要なのは、「横の関係」はしばしば日常語の他の言葉のイメージと混同されて、誤解されがちな点です。たとえば「横の関係」は、社会や組織の構造がフラットであるべきだ、ということではありません。会社における上司と部下のように、能力や適性に応じて権限と責任が異なる縦の「構造」は、組織が円滑に機能するため必要な役割分担であって、それ自体は問題ではありません。問題なのは、そうした構造上の役割の違いを、人間の価値の優劣と結びつけてしまう、心の中の「縦の関係」です。「上司は人間として偉い、部下である私は人間として劣っている」あるいは「上司である私は人間として偉い、部下たちは人間として劣っている」と考えるのが「縦の関係」であり、「横の関係」では、役割は違えど人間としては対等だと捉えます。
また「横の関係」は、すべての人が「同等(同じ)」であることを意味するものではありません。これは最も重要な区別です。個性や能力の違い、男と女、若者と高齢者、親と子といった立場の違いを無視して、人が全く「同等」に扱われると、ひとりひとりにとってはむしろ不公平で過酷となり、社会秩序はかえって乱れます。それぞれの役割と責任の違いを認め、尊重し合った上で、皆に発言権があり、意見が汲み上げられる状態が真の「平等」であるとアドラー心理学では考えます。
「横の関係」とは、社会的な、あるいは組織上の役割の違いや責任の大小を認めつつ、互いを尊敬し、人間としての価値に優劣をつけず、対等な個人として関わっていく心のあり方です。それは、無責任に全員が「同じ」であると主張する「同等」の関係ではなく、それぞれの違いと役割を尊重した上で成り立つ、成熟した協力関係の基盤となるものです。
家庭内でアドラー心理学を実践するコツは、子どもが「自然の結末」や話し合いで決めたルールから「社会的結末」を学ぶのを援助し、暴力など許されない行為には冷静に選択肢を示して、これらを実行できる対等で協力的な親子関係を築くことです。
アドラー心理学の育児は、単に「褒めない、叱らない」という放任育児ではありません。親が圧力をかける代わりに、子どもが自らの行動の結果を体験し、そこから学ぶことを援助するアプローチを取ります。そのための具体的なコツは以下の通りです。
1, 【自然の結末】を体験させる
これは、親が直接介入するのではなく、子どもの行動が自然にもたらす結果をそのまま体験させる方法です。
- 親は手出し・口出ししない
例: 夜更かしをして朝起きられない、冷たいものを飲みすぎてお腹を壊すなど。親が無理に起こしたり、先回りして注意しすぎたりすると、子どもは学ぶ機会を失います。 - 事前の「仕掛け」が重要
例: 小学校に入学したら「自分で起きる権利」を与え、目覚まし時計をプレゼントする。その代わり親は起こさない、というルールを事前に子どもと話し合っておきます。これにより、子どもは自分の責任として朝起きることを学びます。 - 親は動揺せず、子どもを信じる
子どもが失敗しても、怒ったり心配しすぎたりせず、「この経験を通じて成長する」と信じる姿勢が大切です。 - 問いかけで学びを促す
失敗した後に「だから言ったでしょ」と責めるのではなく、「どうしてこうなったんだろうね?」「次からどうしようか?」と問いかけ、子ども自身に原因と対策を考えさせます。「賢いことを学んだね」と締めくくることで、子どもの学びを肯定します。
2, 話し合いでルールを決めて親子で守り、【社会的結末】を学ぶ
暴力や他人に迷惑をかける行為など、自然な結果に任せておけない問題については、家族でルールを決めます。
- 子どもの話を聞く
子どもの考えを理解するために、陰性感情や善し悪しの判断を抜きにして、まず子どもの話を聞きましょう。ただそれまでの親子関係の結果、子どもの勇気がくじかれていれば、子どもは「親に自分の考えを言ってもいつも否定されるし、結局親の思うとおりにされるので、ここで話をしても仕方がない」と思って、自分の考えを言わないかも知れません。 - 家族会議で民主的にルールを決める
子どもの話(考え)を聞いた上で、もし必要なら親からも、一般的にどう考えるかとか、親自身はどう考えているかなどを伝え、それに子ども自身も納得してくれれば、子どもと話し合ってルールを作っていきます。この段階で子どもからアイデアが出なければ、親からも守れそうなルールを提案することになります。
ただこの場合も、親がいつも正論をかかげて子どもの考えを聴かないとか、陰性感情を使って「話しあい(と称する説教)」などしていれば、子どもは話し合うことをめんどくさがって、ただ親の言うとおりにしてしまう可能性があります。結局、大切なのは、普段から親(大人)が終始ヨコの関係で子どもと接することなのです。 - ルールは全員が守る
このようにして決めたルールを、子どもだけでなく親も守ります。「親は例外」というルールでは、子どもは納得しません。ルールを守ったことで得られる結末も、守れなかったことで生じる結末も、親子がともに引き受けます。そうすることで子どもは、ルールを守るということがどういうことなのか、学ぶことができるのです。また、ひょっとしたら親にもそうした学びがあるかもしれません。 - 実行可能なルールにする
ルールを作ったら「お試し期間」を設けるなどして、守れるルールかどうかを確認し、必要に応じて見直します。守れないルールだと分かれば、その理由を親子で考えて代替案を工夫し、あらためて新しいルールを守る約束をします。 - 家族会議を儀式として楽しむ
「家族会議」と銘打って少し形式張って行うことで、ルールに権威が生まれます。深刻にならず、楽しんで行うことが長続きのコツです。
3, 【選択できない可能性】には親が介入し、【社会的結末】を体験させる
暴力や家族の生活に差し支える行為など、社会のルールや社会通念に反する行為(=選択できない可能性)に対しては、親が介入します。
- その行為を制止する
感情的にならず、きっぱりと実行します。 - その行為の結末と、社会的に望ましい行為の結末を、選択肢として提示する
たとえば兄弟喧嘩の場合、喧嘩を続けて手を出すなどがあれば、兄弟で仲良く遊べなくなります。あるいは、ゲームをしながら食事をすることは、(社会通念的に)家庭内でも許されないことでしょう。よって前者では「仲良く遊ぶか、一人で遊ぶか、どちらかを選んでください」、後者では「ゲームをやめて食事をするか、この食事は抜きにしてゲームをするか、どちらかを選んでください」と、子どもの行為の【社会的結末】と、望ましい行為の結末を選択肢として提示し、子どもに選んでもらいます。 - 親子がともにルールを守る
上の例で、子どもが「仲良く遊ぶ」、あるいは「ゲームをやめて食事をする」を選んだにもかかわらず、再び暴力を振るったり、食事が終わっていないのにゲームを始めた場合は、「一人で遊ぶことを選んだ」あるいは「食事は抜きにしてゲームをすることを選んだ」とみなし、前者ならその場から引き離し、後者なら食事は下げてしまいます。
子どもが泣いても言い訳をしても、毅然とした態度を貫くことが重要です。約束したルールは親子がともに守らなくてはなりません。またそうすることで、子どもは【社会的結末】を体験し、学ぶことができるからです。
4, 冷静に話し合える親子関係が不可欠
上記のコツを実践する大前提として、親子が対等な立場で、冷静に協力して話し合える関係を築くことが不可欠です。
- 関係が未熟なうちは「課題の分離」に徹する
冷静な話し合いが難しい間は、無理に共同の課題にしようとせず、「それはあなたの課題だから、あなたに任せます」と伝え、手を出さずに(課題の分離)、優しく注意深くこどもの行動を見守ります。
- 関係が成熟すれば「共同の課題」に取り組める
親子が信頼しあえる対等な仲間になれば、たとえ不登校などの難しい問題であっても、「ちゃんとした大人になる、という目的のために、一緒に何ができるか考えよう」と、協力して解決策を探ることができます。
世間一般の相談に乗る際のアドラー心理学からのアドバイスは、まずどのような相談なのか、この相談で何を目指すのかをお互いに明確にし、相手の能力を信じ「相互信頼」と「相互尊敬」に基づく対等な関係のなかで相談に応じ、具体的な「エピソード」から「原因」ではなく「目的(競合的か協力的か)」を分析し、答えを与えるのではなく複数の「選択肢」を提示して相手自身に解決策を選んでもらうことです。
以下は専門的なカウンセリングの話ではありません。いわゆる世間一般でいう、「ちょっと相談に乗る」といった話です。これらは単なる聞き方のテクニックではなく、アドラー心理学に基づいた、相談相手が自らの力で問題を解決できるようになるための心構えと具体的な手法です。
相談に乗る前の大前提と心構え
まず、具体的な技術に入る前に、相談に乗る上で最も重要となる3つの前提があります。
- 相談は「契約」である
最も基本的なルールは、相手からの明確な要請なしにアドバイスを始めないことです。「相談に乗ってほしい」「意見が欲しい」という双方の合意(契約)があって初めて、相談は成り立ちます。いきなり「こうした方がいい」と助言するのは、相手の領域に踏み込むルール違反です。
また、これは相談を受ける側にも言えることで、自分の専門外であったり、対応が難しいと感じたりした場合は、無理に引き受けず断る権利があります。 - 相手を信じ、解決を「委ねる」姿勢を持つ
相談に乗る側が陥りがちな間違いは、「自分が相手を助けてあげなければ」「正しい道に導いてあげなければ」という支配的な考え方です。
重要なのは、「相手は自分の力で問題を解決できる能力がある」と心から信じること、です。相談に乗る者は、あくまで選手本人ではなく「コーチ」です。試合に出るのは相手自身であり、私たちはその人が力を最大限発揮できるよう手伝うだけで、代わりに問題を解決することはできません。この信頼関係がなければ、本当の意味での援助は不可能です。 - 相性がすべてであると知る
医者選びと同じように、相談においても相談する側とされる側の「相性」が非常に重要です。どんなに優れた専門家でも、相性が合わなければ良い結果にはつながりません。もし相手が自分に合わないと感じているようであれば、無理に関係を続ける必要はありません。お互いに「この人とならやっていける」という感覚が大切です。
すべての土台となる「良い人間関係」の築き方
良い相談は、良い人間関係という土台の上にしか成り立ちません。テクニック以前に、以下の4つの条件を満たす関係を築くことが不可欠です。
- 相互尊敬
相手を「間違っている」「劣っている」と裁くのではなく、一人の対等な人間として敬意を払うことです。たとえその行動が問題に見えても、「その人なりに、自分の理想に向かって一生懸命生きている」という善意を認めます。
重要なのは、「人格」とその人の「行為」を分けて考えることです。ある「行為」が問題であっても、その人の「人格」を否定してはいけません。 - 相互信頼
前述の「相手を信じる姿勢」と同じです。相手の能力を信頼し、課題を乗り越える力を信じ、最終的な決定を本人に委ねます。 - 協力
上下関係で「指導する」のではなく、対等な立場で「役割分担」をしながら、共通の目標を目指すことです。相談に乗る側と乗られる側では役割が違いますが、人間としての価値は全く同じ「平等」な関係です。 - 目標の一致
「この相談がどうなったら成功(終了)なのか」というゴールを最初に共有することです。「夫婦関係を修復したいのか、それとも円満に離婚したいのか」など、目指す方向性を最初に明確にすることで、建設的な話し合いが可能になります。
問題を深く理解するための具体的な分析手法
良い関係を築いた上で、以下の手法を用いて問題を分析していきます。
- 「エピソード」に焦点を当てる
「いつも夫が冷たい」といった漠然とした話(レポート)ではなく、「昨日の夜、こんな出来事があった」という具体的な一度きりの出来事(エピソード)を詳しく聞きます。具体的な状況の中にこそ、問題の本質が隠されています。 - すべての行動を「目的」から理解する(目的論)
人の行動を「何が原因か(原因論)」で見るのではなく、「その行動によって、どんな目的を達成しようとしているのか(目的論)」という視点で見ます。
すべての行動は、本人が無意識に「今より少しでも良い状態になりたい」という目的(仮想的目標)のために行われています。不登校も、いじめも、夫婦喧嘩も、その行動を取ることで本人が得ている「良いこと」が必ずあります。 - 目標の種類を「競合的」か「協力的」か見極める
相手の「仮想的目標」を分析する際、それがどちらのタイプかを見極めることが重要です。
競合的な目標:
「どちらが正しいか/間違っているか」「どちらが善か/悪か」を決め、相手を打ち負かし、裁こうとする目標です。これは人間関係を破壊するだけで、何の解決にもなりません。この場合、「そのやり方では、あなたの本当の望みは叶わないのではないか?」と問いかけ、相手を裁くことの不毛さに気づいてもらう必要があります。
協力的な目標:
相手を裁く意図はなく、純粋に関係を良くしたいと願っているが、うまくいっていない場合です。この場合、目標自体は素晴らしいものとして肯定します。問題なのは、その目標を達成するための「手段(対処行動)」が間違っていることです。(例:夫に早く帰ってきてほしいのに、不機嫌な態度で責めてしまう妻)
解決へ導くための最終ステップ
分析を通じて問題の構造が明らかになったら、最後は相手が自ら一歩を踏み出せるように援助します。
- 複数の「選択肢」を提示し、相手に選んでもらう
「Aというやり方とBというやり方がありますが、どちらを試してみたいですか?」というように、具体的な選択肢を提示し、最終的な決定を相手に委ねます。
(例:「ご主人が帰りたくなるような家作りを工夫してみますか?それとも、今まで通り不満を伝え続けますか?」)
相談に乗る側が「こうしなさい」と答えを与えるのではなく、相手が自分の意志で道を選ぶ手助けをすることが、その人の自立と成長につながります。たとえその選択が最適に見えなくても、その決定を尊重し、信頼し続けることが大切です。
アドラー心理学を教育現場で活かすには、教師が「所属感」の育成と「未来の民主的社会を担う人間を育てる」という大きな視座を持ち、原因論から目的論へ転換して賞罰教育を避け、子ども自身の力を信じて「引き出す」関わり方を実践する点に注意が必要です。
アドラー心理学を学校教育の現場で活かすためには、単なるテクニックの導入ではなく、教師自身の根本的な心構えの変革と、子どもたちへの深い理解に基づいたアプローチが求められます。
その注意点は、大きく「持つべき視点」と「具体的なアプローチ」に分けられます。
教師が持つべき基本的な心構えと視点
- 究極目標を理解する:「所属感」の育成
教育の究極目標は、子どもたちが将来、共同体の一員として貢献しながら所属できるようにすることです。そのために、子どもたちが「人々は仲間だ」そして「私は能力がある」という二つの基本的な信念を持てるよう支援することが、あらゆる指導の根幹となります。 - 原因論から目的論への転換
子どもの問題行動を見たとき、「なぜこんなことをするのか?」と過去の原因を探るのではなく、「この子は何を求めているのか?」と未来の目的を考えることが不可欠です。そして、その究極の目的は常にクラスへの「所属」である、という視点を持ちます。 - 感情的な即時反応をしない:「ストップ・シンク・アクト」
問題に直面した際、すぐに叱るなどの感情的な反応をしてはいけません。まず「①ストップ(止まる)、②落ち着く、③考える、④それから行動する」という原則を徹底します。冷静な対応が、建設的な関わりのための絶対的な前提条件です。 - 二者関係ではなくクラス全体の力学で捉える
学校教育は家庭とは異なり、常に「教師-生徒」と「生徒-クラス全体」という二重の力学が働いています。問題行動は、表面的には教師に向けられていても、その真の目的はクラス内での所属感を確保するためであることが多いと理解すべきです。そのため、安易に教師と生徒の一対一の関係(例:職員室での説教)だけで問題を解決しようとすると、かえって問題を強化しかねません。 - 教師の限界を認め、子どもたちの力を信じる
教師一人がすべてを解決できるわけではありません。教師の役割は、クラスを支配する「扇の要」ではなく、子どもたちのネットワークを支援する「コンサルタント」です。子どもたち自身が持つ問題解決能力や、子どもたち同士の助け合いの力(総合援助の力)を信頼し、それを引き出す関わり方が求められます。
具体的なアプローチにおける注意点
- 賞罰教育を避ける
賞や罰を用いる教育は、子どもを「競合」的な関係(勝ち負けや優劣の世界)に引き込み、協力的な学びを阻害するため、原則として用いるべきではありません。 - 「教え込み」から「引き出す」へ:循環的話法の実践
「~しなさい」という一方的な指示・命令(直線的話法)ではなく、「どうすればできると思う?」といった、子ども自身に考えさせる「循環的な問いかけ」を多用します。これは、教師が答えを教え込む(インストラクト)のではなく、子どもが本来持っている答えやアイデアを、対話を通じて引き出す(エデュケート)ためのアプローチです。 - 貢献の機会を与え、クラス全体に働きかける
不適切な行動に注目する代わりに、その子の長所や得意なこと(パーソナル・ストレンクス)を見つけ、クラスのために貢献する機会を与えます(特に小学生に有効)。また、個人の問題として抱え込ませず、「〇〇君がクラスに所属できるよう、みんなで何ができるだろう?」とクラス全体に問いかけ、協力して解決する文化を育みます。 - 「解決」に焦点を当て、具体的なステップを示す
原因追及に時間を使うのではなく、実現可能な解決像を子どもと共に描き、そこに向かうための具体的な方法を考えます。その際、大きな目標を達成可能な小さなステップ(階段)に分け、スモールステップで進めるよう支援することが重要です。
これらの実践は、単なるクラスルームマネジメントの技法に留まりません。それは、子どもたちに「共同体感覚」と「常識」を教え、他人の問題を「自分には関係ない」と切り捨てるのではなく、「私にできることは何か」と考える、成熟した市民としての態度を育むプロセスです。最終的に、アドラー心理学を教育現場で活かす上での最も重要な注意点とは、学校教育の役割が、未来の民主的な社会を担う、協力的で責任感のある人間を育てることにある、という大きな視座を持つことだと言えるでしょう。
課題の分離について
親の責任とは、課題を肩代わりするのではなく、「課題の分離」を協力への準備段階と位置づけ、子どもが自ら課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。
「課題の分離」は放置や責任放棄ではありません。課題の分離とは、親子あるいは仲間同士が支え合い、協力し合って暮らすための、その準備段階にあたる技法です。文化的な傾向として、課題が誰のものなのか混乱しがちな日本でも、安全にアドラー心理学が使えるようにと、かつてのドライカースのアイデアを元に、野田俊作が考案しました。
ときどき世の中で、「課題の分離」をアドラーの思想の核心のように説明していることがあるようですが、それは全くの誤りです。課題の分離はアドラー自身の主張には含まれていませんし、またこれは「技法」であって、目指すべき理想や哲学ではありません。親子それぞれが自分の責任を果たしながら、協力しあって暮らしていくことが、アドラー心理学に基づく家族の暮らし方です。そうした分担と協力の準備のためにこそ、いったん課題を「分離」するのです。したがって、課題を機械的に切り離すことが課題の分離なのではありません。横の関係に立って親子で心から話し合い、どの課題が誰の負うべき課題なのかを明らかにすることが「課題の分離」なのです。
親としての責任は、子どもの責任を肩代わりすることではなく、子どもが自分の課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。具体的には、子どもの話をよく聞いたうえで、子どもの力を信じ、見守り、励まし、努力を見届ける、必要ならば子どもと話し合って勉強の環境を整える、子どもの様子に応じて困っているか声をかける、問われれば質問に答える(答えを教えず考え方を導く)などの援助が考えられます。
「課題の分離」は無関心や放置を推奨するものではなく、相手の課題に土足で踏み込まない範囲で協力的な姿勢を示し、必要とされる場合に仲間として支援するものです。
「課題の分離」は他者への無関心を推奨するものではありません。対等な立場の仲間にたいして、困ったときは支援が可能と申し出ておくなど協力的な姿勢を示すことは、むしろ推奨されます。なお、本人が状況的、立場的、精神的、身体的に、助けを求めることができない場合があることにも注意が必要です。
しかし、だからといって相手の課題に土足で踏み込んだり、無断で相手の責任を肩代わりしたりすることは、相手を対等な立場で尊重しているとはいえません。チームの一員として信頼してお互いに仕事を分担しながら、相手の努力によく注意を払い、必要とされる場合は仲間として可能な支援を行う、こうしたあり方こそが、むしろ良好なチームワークとはいえないでしょうか
その通りで、課題の分離は協力的な関係のための準備作業ですから、一方的に主張するのではなく、まず対話を通じてその課題が誰のものかを互いに確認することが求められます。
その通りです。もちろん、こちらの側での課題の分離への理解が不充分である場合にも同様の結果となります。そもそも課題の分離とは、様々な課題を本来負うべき人が負うことで適切に分担し、また必要ならば皆の『共同の課題』として力を合わせて対処していくための、その準備作業にあたります。一方的に、ある日いきなり課題を分離しようと言い出して話し合いもせず、またその後を見守りもしないようでは、アドラー心理学が目指す協力的な関係とはいえません。まずはじめに対話を通じて、その課題がそもそも誰にとってのどのような課題であるのかを、お互いにしっかりと確認することが求められます。
対人関係について
実際には全く純粋な競争社会は存在せず、協力関係と競争関係が混在しているため、一面的な「競争社会」という前提のもとで、意識だけを変えようとする努力は矛盾しており現実的ではありません。
ご質問は、アドラー心理学の「競争より協力」という主張が非現実的ではないか、というご指摘かと思います。この点を考えるには、まず「競争社会」という前提自体を検討する必要があるでしょう。というのも、そもそも純粋な競争社会などというものは存在せず、現実の社会は、競争と協力が様々な程度で混在するものだからです。
例えば、競争の激しいビジネスの領域においても然りです。自由競争は、公正なルールなしには成立しません。ルールの破壊や一方的な変更は自由競争の破壊に繋がります。そして法整備や条約の締結を含むルールの整備・維持には、人々の安定した協力が不可欠であり、そのような協力のもとでこそ自由競争は可能となります。さもなくば、いかなる勝者も存在しない、いわゆる「万人の万人に対する闘争」状態となってしまうでしょう。
ご質問が、社会のなかで「他者との比較や競争意識を完全に無くすことは現実的か」といったものであれば、私たちは「今すぐには困難ですが、将来的には可能だと考え、前に進むことはできます」とお答えします。しかし、世の中を「競争社会」と一面的にとらえた上でのご質問ならば、それは競争のみを肯定し協力しあうことを否定しながら、なおかつ意識だけ協力的に変えることは可能か、と聞いておられるのに等しく、私たちからは、そのような矛盾した努力は現実的ではなく、また、私たちの主張はそのようなものではありません、とお答えすることになります。
幸福・共同体感覚・貢献感について
私たちが直接所属できる共同体は、家族などの身近な場から地域社会程度のスケールに限られますが、そこから繋がり広がっていく多様な共同体によって世界が網羅されていくという視点に立てば、共同体感覚を持つべき「共同体」は全人類へと拡がります。
アドラー心理学でいう共同体(ゲマインシャフト)とは、個人が所属し、たがいに協力しあって暮らすことのできる自然発生的な場のことを指します。したがって非常に広範な概念であり、具体的には家族や職場あるいは学校などの仲間といった身近なところから、普段暮らしている地域社会などを指しますが、可能性としては国家や人類規模の共同体も想定でき、時には生命全体や無生物、宇宙にまで広がるとされることもあります。対義語としてはゲゼルシャフトがあり、こちらは契約によって人工的に作られた社会組織を指します。現代の国家は通常ゲゼルシャフトとして営まれていますし、一定以上の規模の企業も同様といえます。そのため、私たちが直接所属できる共同体(ゲマインシャフト)は、スケールとしては地域社会どまりとなります。しかし、そうした多種多様な共同体によって世界が網羅されている、という視点に立つならば、共同体感覚を持つべき「共同体」は人類全体へと拡がります。
その他の疑問
単なる精神的な強さではなく、自分の課題に取り組み、他者と協力し、共同体感覚をもって共同体に貢献しようとする建設的な態度や行動を指します。
アドラー心理学でいう「勇気」とは、自らの責任を引き受けて、自分の負うべき課題に取り組み、他者と協力し合って共同体に貢献しようとする建設的な態度や行動を指します。つまりこれは単なる精神的な強さというよりも、そうした「姿勢」や「構え」に近いものです。
したがって、アドラー心理学では「勇気」という言葉を、一般とは異なる独特の意味合いで用いています。単に恐れ知らずで乱暴であることや、何もかも勝ち負けととらえて相手に譲らない姿勢などのことを、アドラー心理学では「勇気」と呼びません。「共同体感覚」を伴って行動する姿勢、あるいは共同体感覚を行為に移す力こそを、私たちは「勇気」と呼ぶのです。たとえば人々のために自分にできることを行うこと、人々にたいして対等な仲間として敬意を払うこと、人々と誠実かつ謙虚に話し合って物事にあたること、独善的とならず公正に行動すること、心をこめて人々への配慮を重ねていくことなど、行動にあたって共同体に有益な行為を選択することを、アドラー心理学では「勇気」と考えます。
いいえ、アドラー心理学では強さだけでなく「弱さを受け容れる」こと自体も勇気だと考えます。社会(共同体)はそうした様々な美徳(たとえば謙虚さ、誠実さ、慈愛など)によっても支えられており、したがっていわゆる「強い人間」でなくとも、誰もが互いに各様に貢献し助け合うことができます。
アドラー心理学では勇気という概念に関して、「強くなる」ことだけではなく、まず自分自身の弱さや不完全さを受け容れることを説いています。弱さを受け容れることも、共同体の一員としての勇気なのです。
またそもそも、「強さ」だけが共同体を支えているわけではありません。誠実さ、謙虚さ、感謝、正義、節制、熟慮、慈愛、友情などの他の様々な美徳もまた、共同体には欠かすことができないのです。強さばかりが重視されて、他の倫理的・道徳的側面に欠いた「共同体」に、私たちは安心して所属できるでしょうか。
私たちは、老いや病気など様々な障害のために、あるいは若さや幼さゆえに、「強さ」を発揮することが出来ないことがあります。しかしそうした場合にも、身につけている他の美徳を発揮することにより、各人各様の仕方で共同体に貢献することができます。アドラー心理学の実践とは、お互いに内在する多様な貢献の可能性を見出しながら、仲間同士として助け合い協力し合って、ともに共同体を支えていこうとする道なのです。
他者の期待に応えること自体は否定しませんが、「他者の期待を満たすためだけ」に生きることは、他者の課題を担う不健康な生き方であり、またそもそも、全ての人に常に好かれることは不可能ともいえます。
ご質問は、アドラー心理学では他者の期待に応えてはいけないとしているように聞いたが、それはおかしいのではないか、というご指摘でしょうか。お考えはごもっともなことと思います。アドラー心理学では、個人が他者の期待に応えることを、一切否定しているわけではありません。自分の行為の結果として、他者の期待が満たされること自体には、もちろん何も問題はありません。たまたまそのようになることもあるでしょうし、特にお互いによく話し合って協力しあいながら物事にあたった場合には、そのようになる可能性が当然高まります。
ただし、人が他者の期待を満たすためだけに生きようとしているのなら、それはおかしな話であると考えます。他者の期待とは他者自身の課題ですから、それを「満たす」生き方、つまり「自分は常に他者の期待どおりの人間でなければならない」という生き方は、とても不健康な生き方であるとアドラー心理学では考えます。なぜなら、他者の課題をまず担うべきはその他者本人であり、またそもそも、他者の期待を常に満たすことなど人間には不可能だからです。
野田俊作はかつて、ある講演会の質疑応答で「私は付き合う相手の期待を満たすために生まれてきたのではないのに、相手は私に自分の希望や要求を満たすような行動を期待し、それに沿わないと不機嫌になります。上手く立ち回るにはどうしたらいいでしょうか」と聞かれ、次のように答えています。
「世の中の人は皆そうですから、それは仕方がありません。私は、人の期待を満たさないことにしております。ということは、嫌われる覚悟をしているということです。10人の人と付き合うと、2人は私が何をしても好きでいてくれ、1人は私がどんなことをしても絶対に憎み続ける、そして残りの7人はその時々で態度を変える、と思っています。
ですから、絶対に孤独にはなりません。確実に仲間になってくれる人がいる、ということさえ信じられれば、人に嫌われることは平気です。大事なことは、その信じられる仲間を作ることです。そこができないと、周りの評価にふらふらと左右されてしまいます。
どうやってその一番近い環境を作るかというと、今日お話ししたように、協力的な関係を築こうとすることです。それはおそらく、家族やごく近い親友といった人々でしょう。そこを中心にして考えていけば、残りの人たちが自分のことを好きになったり嫌いになったりするのは、そんなものだと受け入れられます。みんなに好かれて暮らすことなど、絶対に不可能なのですから」。
ここで言っていることが、誰の期待にも応える必要はない、あるいは一切応えてはならないとか、誰にも彼にも嫌われて構わない、嫌われるべきだ、などといった話とは、むしろ真逆であるとお分かりいただけることと思います。アドラー心理学は他者の期待に応えることが悪である、という立場には立っておりません。
