アドラー心理学Q&A

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基本前提

Category: 基本前提

アドラー心理学の「対人関係論」とは、劣等感や人生の課題を含む人間のあらゆる問題や目標は、根本的に対人関係の中に存在すると捉える考え方です。

アドラー心理学では、人間のあらゆる問題は、対人関係の中に存在すると考えます。この考え方を「対人関係論(interpersonal theory)」と呼びます。個人の行動のきっかけとなる劣等感も他者との関わりから生じるものであり、個人が意識的・無意識的に目指している目標も、つきるところ対人関係上の文脈に位置しています。すなわちいかなる人生の課題であれ、個人にとっては対人関係(仕事、交友、愛)の問題に他なりません。したがって、個人の問題を理解し解決するには、その人が他者といったいどのような関係を築いているのか、その人の対人関係における目標は何か、といった観点から取り組むことが重要となります。

なお現在では「対人関係論」は、アドラー心理学の理論的枠組みをアドラー自身の言葉に立ち返り、より俯瞰的かつ現代的な視点から再構築しようとする動きの一環として、「社会統合論(social embeddedness)」と呼ばれるようになりました。

Category: 基本前提

「対人関係論」は二者間の分析に偏り、個人を「社会全体に組み込まれた」存在とするアドラー本来の視点を単純化する懸念があったため、その思想の深さと広がりをより適切に反映する「社会統合論」が使われるようになりました。

アドラーは人間を社会的な存在、すなわち社会の中に位置づけられてこそ、その行動に意味が得られるものであるとする、”Social Embeddedness” を強調しました。しかしながらアドラーの死後、この概念を示すものとして、特にアメリカの臨床心理学の文脈でルドルフ・ドライカースらにより導入・強調された「対人関係論」は、親子関係や教育場面など二者間の相互作用の分析には有効かつ実践的であったものの、アドラーが本来意図していた、個人をより広範な「社会全体に組み込まれている」存在とする視点や、社会という複雑なネットワークの中で個人が相互に多様な影響を与え合う側面が、過度に単純化される懸念がみられました。

「社会統合論」は、個人を直接の一対一の対人関係だけでなく、社会というより大きな全体に「組み込まれた」存在として捉え直します。個人の行動、思考、感情、ライフスタイルは孤立して存在するのではなく、社会的な文脈に応じて、動的に意味づけられて成り立つものと考えます。個人は、自らの行動や態度などが身近な共同体や社会の様々な場でどのような意味合いを持つかについて経験的に学び、そのようにして身につけた社会的文脈を踏まえて、自らの行動を意味づけます。すなわち個人は、社会における多様な文脈を主体的に用いて行動するのです。この視点は個人のあり方を一層的確に説明するとともに、家族など身近な共同体だけでなく、地域社会や文化など、より複雑な社会的ネットワークのなかで捉えることを可能とします。その意味において「社会統合論」は、アドラーの思想本来の深さと広がりを、より適切に反映したものということができるのです。

また「社会統合論」は、個人のあり方が社会との関係性の中でダイナミックに形成されると捉える点で、人間の認識や現実は社会的な相互作用や文脈の中で「構築される」と考える現代の「構築主義」とも親和性を持ちます。さらに、個人の社会(共同体)への所属のあり方を説明する点で「共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)」の理論的基盤にも深く関連するといえます。ただし後者に関しては、「社会統合論」が基本前提すなわちアドラー心理学理論に位置するのに対して、「共同体感覚」は「人はこう生きるべきだ」とするアドラーの哲学・思想に位置づけられる点には注意されねばなりません。

主要概念

Category: 主要概念

「劣等コンプレックス」とは劣等感を言い訳にして人生の課題から逃げる状態を指し、「優越コンプレックス」とはその劣等感を隠すために自分が優れているかのように振る舞う、劣等感の裏返しである状態を指します。

アドラー心理学における「劣等コンプレックス」とは、人が持つ「劣等感」を、人生の課題から逃れるための口実として利用している状態を指します。これは、困難に対して建設的に取り組むことを避け、自分を正当化するための自己欺瞞に他なりません。その目的は、現状維持が失敗を招いたとしても、その責任を自分以外のものに転嫁することにあります。また「劣等コンプレックス」は、過度に心の傷や被害者意識などを訴えることで周囲の同情を引いたり、相手を感情的に支配する手段として使われることもあります。

では、人はどのようにして「劣等コンプレックス」を使うに至るのでしょうか。人間は誰しも、生まれながらにして「自分は劣っている」と感じているわけではありません。しかし、成長の過程で、社会や家庭、学校における様々な要因の影響により劣等感を持つようになると考えられます。

子どもは言葉を覚えるにつれて、物事の「違い」を「優劣」として区別し始めます。その際に、親や教師が「どうしてできないの?」「もっと頑張らないとダメ」といった否定的な言葉(アドラー心理学で言う「勇気くじき」)を投げかけると、子どもは「自分は(人として)劣っている」という思い込み、つまり劣等感を抱くようになります。

この「自分は劣っている」という感覚は、客観的な事実ではなく、作られた思い込み(フィクション)です。しかし、この劣等感から逃れるために、人は「優越」という架空の目標を立て、それに向かって努力を始めます。この「劣等から優越へ」という動きそのものが、ライフスタイルの基本構造となりますが、多くお場合、初めからピントがずれた努力に陥りがちです。

身体的な特徴(器官劣等性)、性別、生まれ育ち、経済状況、さらには家族や上司といった人間関係まで、本人と相手が納得しさえすれば、ありとあらゆるものが劣等コンプレックスの材料となり得ます。現代社会では、特に「老い」がネガティブなものと捉えられ、高齢者が大きな劣等感を抱えやすい状況にあります。

人が劣等コンプレックスを人生の主要な方針として用いるようになると、それは「神経症」と呼ばれます。神経症的な人は劣等コンプレックスを実践しており、自分が作り出した口実に完全に騙されている状態にあります。アドラーはこの状態を「犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている」と表現しました。この自己欺瞞のサイクルに囚われている限り、人生の問題の真の解決には至りません。

劣等コンプレックスから抜け出すためには、まず、その自己欺瞞の輪から一歩外へ出ることが必要です。

  • 共同体への貢献
    他者や社会に貢献すること(それらにプラスになることを始めること)は、内向きの関心を外に向け、サイクルを断ち切る鍵となります。
  • 「劣等」という幻想
    私たちが抱く「劣等感」は、実は社会全体が共有する壮大な誤解に過ぎず、客観的な事実ではないと理解しましょう。
  • 「勇気づけ」
    子どもへの「勇気づけ」は、子どもが劣等コンプレックスを使って生きる選択をしないようにするために重要です。たとえば、子どもが貢献してくれたことに感謝を感じたなら、「お手伝いありがとう」「あなたがいると助かる」といった言葉を伝えることができます。こうしたことよって子どもは、自分は他者の役に立つ存在であると感じることができ、そこから自分の力を他者のために使う勇気が生まれることでしょう。

つまり、人と人との優劣という幻想の物差しから降り、他者と対等な立場で協力関係を築いていくことが、劣等コンプレックスを克服する唯一の道と言えます。

一方、「優越コンプレックス」は、劣等感の裏返しとして、あたかも自分が優れているかのように振る舞うことで、劣等感を隠そうとする状態です。自慢話を繰り返したり、他者を見下したり、権威を誇示したりする行動がこれにあたります。こちらも劣等コンプレックスと同様に他者との調和を欠き、対人関係の摩擦を生じやすいあり方といえます。また「優越コンプレックス」は、対人関係において片方が相手への劣等感を過補償し、それに対して相手がさらに大きな劣等感を持ち、それを過補償し、といったように繰り返されていくことで、両者の争いが際限なく拡大する原因でもあります。

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「私的論理」が個人の独自の価値観(私的感覚)に基づく主観的な思考の 流れ であるのに対し、「共通感覚」は社会や共同体で共有される、いわゆる常識という 価値観(私的感覚と対応するもの)を指します。

「私的論理」とは、個人が独自の価値観、思い込みに基づいて、自分自身や世界、他者について考える際の、その考え方(論理)のことです。人は私的論理の大前提となっている、その個人特有の価値観つまり私的感覚から、「わるい」状況と判断されるライフタスクを劣等感をともないながら認識するとともに、それに対する「よい」状態といえる仮想的目標を導き出して、この目標へ進むための対処行動を結論づけます。以上の過程での思考の流れを、「私的論理」と呼びます。多くの場合、私的論理による結論は個人的には「正しい」判断だと思われていますが、必ずしも客観的・普遍的な妥当性を持つわけではありません。

一方、「共通感覚(コモン・センス)」とは、ある社会や共同体の中で広く共有されている考え方や価値観、つまり、いわゆる常識を指し、個人特有の価値観を指す「私的感覚」と対応関係にあります。私的感覚が共通感覚から大きく逸脱している場合、対人関係の困難や不適応が生じやすいと考えられますが、ただし共通感覚もまた、共同体内で多数説であるからといって、必ずしも正しいとは限りません。歴史にみられるように、共同体全体が誤った考えにとらわれていることもあるのです。そこでアドラー心理学では、人々の暮らしの中でたえず再検討されながら、より大きな共同体にも有益かどうかを問う「共同体感覚」を強調します。

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アドラー心理学における「人生の課題(ライフタスク)」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で直面せざるを得ず、個人の精神的健康や生き方(ライフスタイル)と深く結びついている「仕事」「交友」「愛」という3つの対人関係の課題を指します。

アドラー心理学における「ライフタスク」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で、直面せざるを得ない「課題」を指します。タスクといっても、その人の抱えるいわゆる「やるべきことリスト」のことではなく、個人の精神的な健康や幸福、そしてその人の生き方そのもの(ライフスタイル)と深く結びついた、包括的な概念です。

アルフレッド・アドラー自身が明確に提唱したのは、以下の三つのライフタスクです。このどれもが対人関係であることは、とても重要な点といえます。この分類は、主として関係の継続性に基づいています。

  • 仕事のタスク:生計を立てるための職業活動、学業、家事など、生産性に関わるあらゆる活動を指します。社会の一員として貢献し、自分の居場所を確保するための基本的な課題です。
  • 交友のタスク:友人関係や地域社会との関わりなど、恋愛や家族関係以外のより広い対人関係を指します。他者と協力し、社会的なつながりを築く能力が問われます。
  • 愛のタスク:パートナーシップや親子関係といった、最も親密な対人関係を指します。ライフタスクの中で最も困難なものとされ、深いレベルでの信頼と貢献が求められます。

これらのタスクは多くの場合、実生活において、現実と、本人が理想とする状態(仮想的目標)とのギャップとして現れます。そのため「課題」として認識される際には、「劣等感」、具体的には不安、怒り、後悔などといった陰性感情を伴うことが一般的です。

これらの課題にどのように取り組み、そこで他者とどのように協力していけるかは、その人の人生のあり方と不可分といえます。アドラー心理学のカウンセリングでは、個人がこれらの課題にどう向き合い、困難を乗り越えていくか、について話し合います。また、必要に応じてその人の「ライフスタイル」を分析し、より根源的な解決策を見出すことを目指します。

なお、これらに加えて、アドラー派の論者によっては「自己との課題」「スピリチュアルな課題」などを加えることもあります(ハロルド・モザックによる提唱)。

Category: 主要概念

アドラー心理学の「勇気づけ」とは、単なる「褒め言葉」のような小手先のテクニックではなく、尊敬に基づいた対等な「横の関係」から、相手が共同体感覚を持って協力的に生きられるよう働きかける、包括的な哲学であり生き方そのものです。

「勇気づけ」とは、相手がより共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。ある働きかけが実際に相手において、人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼ぶことができるのです。

「勇気づけ」は、まず働きかける側が自分から、人々との競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは「縦の関係」を抜けて「横の関係」で生きる決心をすることから始まります。なぜならば、一方的な働きかけでもなければ他人事でもない、ともに貢献し合う仲間同士としての働きかけであってこそ、相手を勇気づけることができるからです。

「勇気づけ」の技法としては、「子ども(相手)の話を聴く」ことや「お願い口調」という話の仕方、「課題の分離」、あるいは貢献や協力に注目する、過程を重視する、すでに達成できている成果を指摘する、失敗をも受け入れる、個人の成長を重視する、相手に判断をゆだねる、肯定的な表現を使う、「私メッセージ」を使う、「意見言葉」を使う、感謝し共感する、といったように様々なものがありますが、このどれもが現実の対人関係の中での、心からの相手への働きかけであることをけっして忘れてはなりません。これらは、単に言葉をなぞっただけの形だけのものになってしまえば、なんの役にも立たないばかりか、逆効果になることも少なくないのです。

すなわち「勇気づけ」とは、いわゆる「声がけ」や褒め言葉といったような小手先のテクニックなどではなく、人間への深い尊敬に基づいた包括的な哲学であり、生き方そのものといっても過言ではありません。「勇気づけ」の実践は、言葉への感性を磨き、対話のプロセスを大切にし、自らの感情をコントロールし、相手の貢献を信じてその機会を作り出す、たゆまぬ日々の心がけと努力の中にあります。それは、相手と私たち自身の人生を豊かにする、生涯をかけた学びの道程なのです。

現代社会とアドラー心理学

アドラー心理学を学ぶことで、自己理解が深まり、対人関係の葛藤解決法や「勇気づけ」を学ぶことを通じて、自分の人生を主体的に切り開いてより調和のとれた充実した生き方を実現するための知恵と勇気が得られます。

アドラー心理学を学ぶことで期待できる個人の変化は多岐にわたりますが、まず、自己理解が深まり、自分の行動や感情の背後にある目的やライフスタイルに気づくことができるようになります。これにより、不適切なパターンを変え、より建設的な生き方を選び取る力が養われます。また対人関係においては、葛藤の解決方法を学ぶことで、不必要な摩擦や悩みが軽減されるでしょう。さらに、共同体感覚を学び「勇気づけ」を実践することで、自分自身や周囲の人間の人間的成長が得られるかもしれません。総じて、自分の人生を主体的に切り開き、より調和のとれた充実した生き方を実現するための知恵と勇気が得られるでしょう。

対人関係について

病気や災害などの直接的な苦痛は生理的なものですが、そこから生じる主観的な「悩み」は、他者との別離の辛さや悲しさといった対人関係の文脈で意味づけられ体験されます。

病気や事故、災害等に遭遇した際の直接の痛みや苦しみは、いわゆる人間心理上の「悩み」以前の、生理的なものです。アドラー心理学が対人関係上の問題だと指摘するのは、それら個別の苦痛に対して個人が覚える主観的な諸症状、つまり「悩み」についてです(ただし主観的といっても、脳機能の不調から直接生ずる抑うつ気分や、幻覚・せん妄・妄想等の症状に伴う恐怖感などについては生理的苦痛に属すると考えられます)。

人間は対人関係に深く組み込まれた存在であり、いかなる出来事も、最終的には対人関係上ないし社会的な文脈から意味づけられた形で体験されます。たとえば、いずれ誰しもに訪れる自分自身の死にしても、それに先立つ病苦等の生理的な痛みや苦しみとしてだけではなく、対人関係上の悲痛な出来事として、つまり死に伴って避けられない、本人と他者との別離の辛さや悲しみとして体験されるのです。

はじめからアドラー心理学が第一選択だと決めつけずに、幅広い可能性を考慮すべきであり、カウンセリングが適応とされる場合は治療的人間関係を確立しつつ、その人に応じた個別の対応を行います。

まず大事なことは、ひとりひとりの状況に応じた、適切な対応をとることです。対人関係が極端に苦手であったり、社会的に孤立しているとしても、どうしてそうなのかは様々な事情が考えられます。周囲の環境が過酷で、そうするのがやむをえない状況なのかも知れません。ご本人が暴力的な状況のなかで身動きがとれないのなら、警察や法の専門家への相談がまず大切です。また福祉的な支援には、精神保健福祉士やソーシャルワーカー、地域の相談支援事業所などへの相談が重要となります。あるいは、ご本人は生得的あるいは後天的な障害、または精神疾患による困難を抱えておられるのかも知れません。その場合は、専門医療機関(心療内科、精神科、発達専門医など)を受診し、正確な診断と適切な治療・支援を受けることを強く推奨します。したがって、はじめからアドラー心理学カウンセリングだけを第一選択とせず、あるいは単独で行うのではなく、幅広い可能性を考慮した対応が望まれます。

アドラー心理学カウンセリングの適応がある場合は、治療的人間関係のなかで、その方からよくお話を伺います。どのように助言するかなどはそうした上で定められるべきで、事前の決めつけはもっとも避けるべきものと考えます。

いいえ、被害者の苦痛を無視したり「受け止め方次第」として暴力を容認したりすることはあってはならず、まず被害者の安全確保を最優先とし、必要に応じ医療・法・警察等の専門的支援へとつなぎ、その上で要請があれば心理的対応を行います。

アドラー心理学はそこで、「相手の課題」だとして、被害者の苦痛を無かったことにするものではありませんし、もちろん「自分の受け止め方次第」などと、結果として暴力に与する不法な姿勢を伝えるものでもありません。加害者の行動の責任は加害者の課題として別途充分に問われねばなりませんが、まずは喫緊の課題として、被害者が現在までの状況から抜け出してふたたび安心して人々との関わりに参加できるようになるために、被害者自身の安全を関係者や(必要に応じ)法の専門家、警察等との調整により万全に確保しつつ、医療的な対応を含む専門的な支援へと速やかにつないでいくことが何よりも重要と考えます。そうした上で、あるいはそうした中で要請があれば、アドラー心理学の心理療法士やカウンセラーからも可能な対応を行います。

実践の難しさ・現実との乖離について

目的論は感情を「割り切る」ものではなく、アドラー心理学の実践では、その感情が対人関係で持つ「目的」を理解し、抑圧や発散とは異なる建設的な表現方法を学ぶことを目指します。

目的論は、「割り切る」ものではありません。それらの感情を含む実際の対人関係における行動が、いったい何を「目的」としているかを深く理解して、より建設的な表現方法や対処方法を学ぶことを目指します。アドラー心理学の学習では、グループワークやカウンセリングなどを通じて自分が対人関係のなかで「目的」としていることに気づき、そしてそれを感情的ではない方法で、落ち着いて相手に伝えるにはどうすれば良いかを学びます。感情を抑圧するのでもなく、かといってやみくもに発散するのでもなく、感情を用いることで自分が伝えようとしているメッセージが何であるかを理解して、これからの相手への行動の選択に役立てるのです。

もちろんそうした実践はたやすいものではなく、くりかえしの練習が必要ですし、自分ひとりで取り組むのは難しくもあります。そのため専門的な講座、あるいは学ぶ仲間が沢山いるアドラー心理学の自助会などが有用となるのです。