アドラー心理学Q&A

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主要概念

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アドラー心理学の「課題の分離」とは、ある課題の結末が最終的に誰にふりかかるかという観点から、その課題が「本来誰の課題か」を判断する考え方であり、他者が本人の課題を勝手に肩代わりすることを防ぐとともに、必要に応じて「共同の課題」として協力し合うための準備段階として重要になります。

アドラー心理学では、共同体のメンバーが人生の課題に遭遇したときに、その課題に責任をもつ本人が対処するのに加えて、必要に応じてその課題を共同体における「共同の課題」としてとらえ、他のメンバーも協力してそれに対処しようと考えます。しかし、そうした分担を的確に行うためには、共同体のメンバーの間で、その課題が誰のどのような課題であるかについて、あらかじめ明らかでなくてはなりません。

実は、それを明らかにする作業こそが、いわゆる「課題の分離」なのです。「課題の分離」とは、共同の課題を作るための準備段階として、その課題に関する結末が最終的にふりかかるのは誰か、という観点から、その課題が本来誰の課題であるかを判断するものです。

例えば、「子どもが勉強するかどうか」という課題は、本来は子ども自身の課題であるはずです。なぜならば、子どもが勉強するにせよしないにせよ、それによって左右されるのは、他ならぬ子ども自身の将来だからです。だとすると、宿題をしないことで親自身が感じる不安を解消したいなどの理由で、子どもの考えを聞いたり話し合ったりせずに、ひたすら叱責して宿題をやらせようとしたり、勉強の仕方に一方的に口を出したりすることは、「育児」としては筋違いといえないでしょうか。つまりそれで成績は伸びたとしても、果たして子ども自身は成長するのでしょうか。

「課題の分離」をせずに、子どもの課題を勝手に肩代わりすることは、自分のなすべきことを自分でやりとげる、あるいは誰かと協力してやりとげるという貴重な機会を子どもから奪ってしまうことに他なりません。そのため、課題への対処を子ども自身に任せる場合も、あるいはすべて子どもだけに任せず、共同の課題にする場合にも、あらかじめそれらについて、子どもとよく話し合わなければなりません。子どもがその課題についてどのように考えているのか、なにか助力を必要としているか、などについて子どもの話をよく聴き、子どもがしてほしいことで親ができそうなことを具体的に親子で話し合って決めていくのです。

なお、こうして課題について話し合いをした後も、常に子どもを見守って、場合によっては共同の課題を作り直す、という作業が必要となります。一度課題を分離したらもうそれっきりで、「あなたの課題だから」と終わりにしてしまうのなら、それでは単なる無責任な放任育児であって、アドラー心理学とはいえません。

ちなみに課題の分離について、アドラー心理学でもっとも重要な技法だと紹介されることがあるようですが、それは誤りです。重要ですが、最重要ではありません。それよりも大事なのは、課題を分離した後の共同の課題をつくる過程であり、さらに大事なのは、そうして課題を分担し合い、協力しあってともに幸せに暮らすこと、そしてそのように育った人々が増えていくことで、次第にこの世の中が暮らしやすい世の中に変わっていくことです。大袈裟なようですが、それがアドラーの思い描いた人類の未来なのです。

カウンセリングと応用

家庭内でアドラー心理学を実践するコツは、子どもが「自然の結末」や話し合いで決めたルールから「社会的結末」を学ぶのを援助し、暴力など許されない行為には冷静に選択肢を示して、これらを実行できる対等で協力的な親子関係を築くことです。

アドラー心理学の育児は、単に「褒めない、叱らない」という放任育児ではありません。親が圧力をかける代わりに、子どもが自らの行動の結果を体験し、そこから学ぶことを援助するアプローチを取ります。そのための具体的なコツは以下の通りです。

1, 【自然の結末】を体験させる

これは、親が直接介入するのではなく、子どもの行動が自然にもたらす結果をそのまま体験させる方法です。

  • 親は手出し・口出ししない
    例: 夜更かしをして朝起きられない、冷たいものを飲みすぎてお腹を壊すなど。親が無理に起こしたり、先回りして注意しすぎたりすると、子どもは学ぶ機会を失います。
  • 事前の「仕掛け」が重要
    例: 小学校に入学したら「自分で起きる権利」を与え、目覚まし時計をプレゼントする。その代わり親は起こさない、というルールを事前に子どもと話し合っておきます。これにより、子どもは自分の責任として朝起きることを学びます。
  • 親は動揺せず、子どもを信じる
    子どもが失敗しても、怒ったり心配しすぎたりせず、「この経験を通じて成長する」と信じる姿勢が大切です。
  • 問いかけで学びを促す
    失敗した後に「だから言ったでしょ」と責めるのではなく、「どうしてこうなったんだろうね?」「次からどうしようか?」と問いかけ、子ども自身に原因と対策を考えさせます。「賢いことを学んだね」と締めくくることで、子どもの学びを肯定します。

2, 話し合いでルールを決めて親子で守り、【社会的結末】を学ぶ

暴力や他人に迷惑をかける行為など、自然な結果に任せておけない問題については、家族でルールを決めます。

  • 子どもの話を聞く
    子どもの考えを理解するために、陰性感情や善し悪しの判断を抜きにして、まず子どもの話を聞きましょう。ただそれまでの親子関係の結果、子どもの勇気がくじかれていれば、子どもは「親に自分の考えを言ってもいつも否定されるし、結局親の思うとおりにされるので、ここで話をしても仕方がない」と思って、自分の考えを言わないかも知れません。
  • 家族会議で民主的にルールを決める
    子どもの話(考え)を聞いた上で、もし必要なら親からも、一般的にどう考えるかとか、親自身はどう考えているかなどを伝え、それに子ども自身も納得してくれれば、子どもと話し合ってルールを作っていきます。この段階で子どもからアイデアが出なければ、親からも守れそうなルールを提案することになります。
    ただこの場合も、親がいつも正論をかかげて子どもの考えを聴かないとか、陰性感情を使って「話しあい(と称する説教)」などしていれば、子どもは話し合うことをめんどくさがって、ただ親の言うとおりにしてしまう可能性があります。結局、大切なのは、普段から親(大人)が終始ヨコの関係で子どもと接することなのです。
  • ルールは全員が守る
    このようにして決めたルールを、子どもだけでなく親も守ります。「親は例外」というルールでは、子どもは納得しません。ルールを守ったことで得られる結末も、守れなかったことで生じる結末も、親子がともに引き受けます。そうすることで子どもは、ルールを守るということがどういうことなのか、学ぶことができるのです。また、ひょっとしたら親にもそうした学びがあるかもしれません。
  • 実行可能なルールにする
    ルールを作ったら「お試し期間」を設けるなどして、守れるルールかどうかを確認し、必要に応じて見直します。守れないルールだと分かれば、その理由を親子で考えて代替案を工夫し、あらためて新しいルールを守る約束をします。
  • 家族会議を儀式として楽しむ
    「家族会議」と銘打って少し形式張って行うことで、ルールに権威が生まれます。深刻にならず、楽しんで行うことが長続きのコツです。

3, 【選択できない可能性】には親が介入し、【社会的結末】を体験させる

暴力や家族の生活に差し支える行為など、社会のルールや社会通念に反する行為(=選択できない可能性)に対しては、親が介入します。

  • その行為を制止する
    感情的にならず、きっぱりと実行します。
  • その行為の結末と、社会的に望ましい行為の結末を、選択肢として提示する
    たとえば兄弟喧嘩の場合、喧嘩を続けて手を出すなどがあれば、兄弟で仲良く遊べなくなります。あるいは、ゲームをしながら食事をすることは、(社会通念的に)家庭内でも許されないことでしょう。よって前者では「仲良く遊ぶか、一人で遊ぶか、どちらかを選んでください」、後者では「ゲームをやめて食事をするか、この食事は抜きにしてゲームをするか、どちらかを選んでください」と、子どもの行為の【社会的結末】と、望ましい行為の結末を選択肢として提示し、子どもに選んでもらいます。
  • 親子がともにルールを守る
    上の例で、子どもが「仲良く遊ぶ」、あるいは「ゲームをやめて食事をする」を選んだにもかかわらず、再び暴力を振るったり、食事が終わっていないのにゲームを始めた場合は、「一人で遊ぶことを選んだ」あるいは「食事は抜きにしてゲームをすることを選んだ」とみなし、前者ならその場から引き離し、後者なら食事は下げてしまいます。
    子どもが泣いても言い訳をしても、毅然とした態度を貫くことが重要です。約束したルールは親子がともに守らなくてはなりません。またそうすることで、子どもは【社会的結末】を体験し、学ぶことができるからです。

4, 冷静に話し合える親子関係が不可欠

上記のコツを実践する大前提として、親子が対等な立場で、冷静に協力して話し合える関係を築くことが不可欠です。

  • 関係が未熟なうちは「課題の分離」に徹する
    冷静な話し合いが難しい間は、無理に共同の課題にしようとせず、「それはあなたの課題だから、あなたに任せます」と伝え、手を出さずに(課題の分離)、優しく注意深くこどもの行動を見守ります。
  • 関係が成熟すれば「共同の課題」に取り組める
    親子が信頼しあえる対等な仲間になれば、たとえ不登校などの難しい問題であっても、「ちゃんとした大人になる、という目的のために、一緒に何ができるか考えよう」と、協力して解決策を探ることができます。

課題の分離について

親の責任とは、課題を肩代わりするのではなく、「課題の分離」を協力への準備段階と位置づけ、子どもが自ら課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。

「課題の分離」は放置や責任放棄ではありません。課題の分離とは、親子あるいは仲間同士が支え合い、協力し合って暮らすための、その準備段階にあたる技法です。文化的な傾向として、課題が誰のものなのか混乱しがちな日本でも、安全にアドラー心理学が使えるようにと、かつてのドライカースのアイデアを元に、野田俊作が考案しました。

ときどき世の中で、「課題の分離」をアドラーの思想の核心のように説明していることがあるようですが、それは全くの誤りです。課題の分離はアドラー自身の主張には含まれていませんし、またこれは「技法」であって、目指すべき理想や哲学ではありません。親子それぞれが自分の責任を果たしながら、協力しあって暮らしていくことが、アドラー心理学に基づく家族の暮らし方です。そうした分担と協力の準備のためにこそ、いったん課題を「分離」するのです。したがって、課題を機械的に切り離すことが課題の分離なのではありません。横の関係に立って親子で心から話し合い、どの課題が誰の負うべき課題なのかを明らかにすることが「課題の分離」なのです。

親としての責任は、子どもの責任を肩代わりすることではなく、子どもが自分の課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。具体的には、子どもの話をよく聞いたうえで、子どもの力を信じ、見守り、励まし、努力を見届ける、必要ならば子どもと話し合って勉強の環境を整える、子どもの様子に応じて困っているか声をかける、問われれば質問に答える(答えを教えず考え方を導く)などの援助が考えられます。

「課題の分離」は無関心や放置を推奨するものではなく、相手の課題に土足で踏み込まない範囲で協力的な姿勢を示し、必要とされる場合に仲間として支援するものです。

「課題の分離」は他者への無関心を推奨するものではありません。対等な立場の仲間にたいして、困ったときは支援が可能と申し出ておくなど協力的な姿勢を示すことは、むしろ推奨されます。なお、本人が状況的、立場的、精神的、身体的に、助けを求めることができない場合があることにも注意が必要です。

しかし、だからといって相手の課題に土足で踏み込んだり、無断で相手の責任を肩代わりしたりすることは、相手を対等な立場で尊重しているとはいえません。チームの一員として信頼してお互いに仕事を分担しながら、相手の努力によく注意を払い、必要とされる場合は仲間として可能な支援を行う、こうしたあり方こそが、むしろ良好なチームワークとはいえないでしょうか

社会問題はそれ(問題)を生み出した側、結末に直面している側、解決に向けて対処できる側が少なからず一致しない特徴を持つため、「個人の課題」だと片付けて、結末が波及している側だけに責任を押し付けるのは、課題の分離とは相容れない姿勢と考えられます。

世の中で一般に言われている「それは個人の課題だ」とは、その課題を解決すべきなのは、その課題に直面している本人に限られる、といったような考え方を指すと思います。他方アドラー心理学では、課題への責任とは応答責任(Responcibility)であって、本来その課題に対処すべきなのは誰なのか、といったことを意味します。課題に直面した本人だけでその課題を解決しなくてはならない、とは考えません。

また、ことに社会問題においては、それを生み出した側と、その結末に直面している側、解決に向けて充分な対処ができる側が、少なからず、あるいは概ね一致しないという特徴があります。そのように事態が個人で完結せず、社会的な広がりがある問題だからこそ、社会問題と呼ばれるのではないでしょうか。にも関わらず、そこで「それは個人の課題だ」と片付けてしまうのは、往々にして本来その課題に対処すべき側以外に責任を押し付けてしまう点で、「課題の分離」とは相容れない姿勢と考えられます。

その通りで、課題の分離は協力的な関係のための準備作業ですから、一方的に主張するのではなく、まず対話を通じてその課題が誰のものかを互いに確認することが求められます。

その通りです。もちろん、こちらの側での課題の分離への理解が不充分である場合にも同様の結果となります。そもそも課題の分離とは、様々な課題を本来負うべき人が負うことで適切に分担し、また必要ならば皆の『共同の課題』として力を合わせて対処していくための、その準備作業にあたります。一方的に、ある日いきなり課題を分離しようと言い出して話し合いもせず、またその後を見守りもしないようでは、アドラー心理学が目指す協力的な関係とはいえません。まずはじめに対話を通じて、その課題がそもそも誰にとってのどのような課題であるのかを、お互いにしっかりと確認することが求められます。

実践の難しさ・現実との乖離について

「主張」するのではなく、まず自分から相手への関心と尊敬の念を持ち、自己の課題に責任を持って正しくアドラー心理学を「実践」することが基本であり、その姿勢は一般的な倫理観にも通じるため、健全な環境であれば信頼につながっていく可能性もあります。

主張するというより、まずは、自分自身が正しく「横の関係」や「課題の分離」を実践することが基本です。そうすれば、たとえ力関係がある場合にも、あなたの姿勢や行動を理解くださる方がいらっしゃるかもしれません。なぜならばアドラーの哲学は、伝統的な社会常識や、古くからの道徳哲学が教えるところに通ずる面を持っているからです。たとえば、他者に深い関心と尊敬の念を持つ、自分の課題に責任を持ち、他者を信頼して、その人自身の課題に勝手に踏み込まない、陰性感情をぶつけずに理性的に話し合うなどの姿勢は、アドラー心理学に限らず、広く世の中で共有されている倫理観とも重なります。したがって、職場のあり方やそこでの取引先との関係もまた倫理的であるかぎり、アドラー心理学の実践は、あなた自身の信頼へとつながっていく可能性があります。

ただし、アドラー心理学をきわめて独善的な形に誤解して、「課題の分離」を他者との関わりを拒絶することと捉えたり、「目的論」を常に自分の目標ばかり優先させることだと考えたり、「仮想論(認知論)」を他者と対話をしない理由にしたり、「貢献」や「協力」をひたすら一方的に他者に求めたり、「横の関係」が大事だと言って社会的な役割分担を否定したりすれば、それはたしかに社会での行動として適切とはいえないでしょう。

アドラー心理学にも他の学問同様に誤用や悪用の危険が伴うため、その実践が他者にとって迷惑であれば、嫌われて距離を取られることとなります。また他者を追い詰め苦しめるなど有害な結末が生じれば、当然ながら相応の責任は免れません。

その可能性はあります。まず原則的な話として、いかなる学問であれ、誤用や悪用には危険が伴うものです。それが毒にも薬にもならないものでない限り、人間に対して誤った仕方で用いられれば、当然ながら何らかの危害が生じます。アドラー心理学の実践においても同様です。そして、他者になにか迷惑や危害が生じた場合、もちろん相応の責任は免れません。

アドラー心理学に即していえば、たとえば入門書等からの表面的な知識だけで他人の意図を無遠慮に決めつける、『課題の分離』を口実にして他人に一切協力せず責任ばかりを求める、臨床理論を恣意的に振りかざして自分の行動は正当化しつつ他人の行動を批判する、日本の環境では扱いにくい心理技法を誤用して他人を心理的に追い詰めたり虐待したりする、などといった非常識で横暴な行為があれば、当然ですがその相手や周囲からは「冷たい人」、「理屈っぽい人」、あるいは「わがまなな人」などと思われて、距離を取られることになるでしょう。それらの行為の結果、他者を苦しめその人の日々の暮らしに支障をきたすなどの深刻な結末が生じれば、もはや嫌われるどころでは済まず、ハラスメントやネグレクトとしてその責任を厳しく問われるはずです。