基本前提
アドラー心理学とは、個人を「分割できない全体」として捉え、その行動は未来の「目的」によって決定されると考え、個人は仮想の世界に暮らしており、なおかつ社会に組み込まれた存在だとする心理学です。他者と協力し社会(共同体)に貢献することを善とする「共同体感覚」の育成を重視する点が特徴です。
アドラー心理学は、オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラー(Alfred Adler, 1870-1937)が創始した心理学です。
人間の行動や心理を理解するにあたり、個人を自ら主体的に動く、分割できない全体として捉え、フロイトの精神分析などが過去の原因を重視するのに対し、アドラー心理学は、未来の目的や目標に向かって個人が現在の行動を決定すると考えます。また個人は主観的に意味づけられた仮想の世界に暮らしており、なおかつ、対人関係や社会に組み込まれた存在であると捉えます。したがって個人の人生における課題も目標もそれぞれ仮想であって、それらは社会的な文脈のなかにあると考えます。
またアドラー心理学は心理学でありながら、他者と争うのではなく協力し合って社会(共同体)に貢献することを善とする「共同体感覚」の育成に向けて、自分自身と他者を勇気づける、哲学的・思想的実践としての側面を持っています。
「個人心理学」とは、その語源(ラテン語の「individuum(分割できないもの)」)が示す通り、人間を心や身体などに分割せず、ある目標に向かって動く「個人」全体として理解しようとする考え方を意味します。
アドラーは自分が創始した心理学の大系を「個人心理学(Individual Psychology)」と呼びました。「individual」とは、ラテン語の「individuum(分割できないもの)」に由来します。これは、人間を心と身体、意識と無意識、理性と感情といったように部分に分けて分析するのではなく、「個人」という、それらが統一体として機能する全体として捉えるという意味です。個人は、自らが設定した目標に向かって、全体として調和を保ちながら自ら動くものであると考えます。このため、個人の行動や感情についてある一部分だけを取り出して評価するのではなく、その人のライフスタイル(目標とそれに向かう手段)や社会的文脈などと関連させ、その人全体として理解しようとします。
アドラーの「目的論」とは、現在の行動は未来の「目的」を達成するために起こすものだと考えるのに対し、フロイトの「原因論」は、現在の行動は「過去の原因」(トラウマなど)によって決定されるものだと考える点に違いがあります。
アドラー心理学の「目的論」とは、人間の行動や感情は基本的に、過去の原因や環境によって起きるのではなく、何らかの目的を達成しようとするために個人が起こすのだ、と考える立場です。例えば子どもが不適切な行動をする場合、目的論の立場では、過去の出来事や環境が子どもに不適切な行動を行わせると考えるのではなく、その行動には子どもにとって何らかの重要な目的があると考えます。
フロイトの精神分析に代表される「原因論」では、現在の問題など人間行動全般を、過去の経験、特に幼少期の経験をめぐる内面的な無意識の葛藤などを原因とするといったように、機械論的にとらえます。それに対してアドラー心理学では、「目的論」に基づいて、人間行動全般は有機体としての個人が、意識的あるいは無意識的に定めた仮想的目標を達成するための動きである、すなわち、相対的マイナスの位置から相対的プラスの位置に向かうための運動だと強調します。
なお、アドラー心理学では過去や環境の影響を完全に否定するわけではありません。たとえば成長過程における身近な人間との葛藤がライフスタイル形成に大きく影響するなど、過去の出来事の間接的な影響を認めています。また、強いストレスによる生理的反応としてPTSD等の急性または慢性的な症状が現れることや、発達障害による行動特性が子どもの行動に様々な傾向性を与えることなどを否定することもありません。これら先天的、後天的な事項や環境の影響にも充分注意が必要であるという立場です。
アドラー心理学の「全体論」とは、人間を心や身体、理性や感情といった部分の寄せ集めではなく、それらすべてが相互に関連し、ある目標に向かって機能する「分割できない統一体」として捉える考え方です。
アドラー心理学における「全体論」とは、人間を身体の諸組織やそれらの機能、あるいは理性と感情、意識と無意識といった様々な要素の、単なる寄せ集めだとして考えたり、あるいは特定の部分が残りの部分を一方的に統括していると捉えるのではなく、それらが相互に深く関連し合って、分けることのできない有機的な統一体として機能していると捉える考え方です。人間の行動や感情はもちろんのこと、時として身体症状でさえも、その人全体の持つ目標やライフスタイルと切り離して理解することはできないと考えます。
そのため、例えばある人が抱える不安という感情は、その人が無意識的に設定している目標(例:失敗してはいけない、嫌われてはいけない等)と関連して生じことがあると考え、また身体的な不調についても、心理的な問題の表現である可能性を考慮して捉えるのです。このようにして、個人を常に全体として捉えようとするのが、アドラー心理学の基本的な立場です。
なおこれは、身体や精神の不調が、身体に備わった諸器官や諸機構の不調から起こることを否定するものではありません。アドラー心理学は様々な医療分野の知見や、そこで標準治療とされているものを否定する立場にありません。特に身体の調子の異変を自覚した場合は、心の問題を考える前に、まずは早めにかかりつけ医あるいは専門医療機関で受診されることを強くお薦めします。
アドラー心理学の「対人関係論」とは、劣等感や人生の課題を含む人間のあらゆる問題や目標は、根本的に対人関係の中に存在すると捉える考え方です。
アドラー心理学では、人間のあらゆる問題は、対人関係の中に存在すると考えます。この考え方を「対人関係論(interpersonal theory)」と呼びます。個人の行動のきっかけとなる劣等感も他者との関わりから生じるものであり、個人が意識的・無意識的に目指している目標も、つきるところ対人関係上の文脈に位置しています。すなわちいかなる人生の課題であれ、個人にとっては対人関係(仕事、交友、愛)の問題に他なりません。したがって、個人の問題を理解し解決するには、その人が他者といったいどのような関係を築いているのか、その人の対人関係における目標は何か、といった観点から取り組むことが重要となります。
なお現在では「対人関係論」は、アドラー心理学の理論的枠組みをアドラー自身の言葉に立ち返り、より俯瞰的かつ現代的な視点から再構築しようとする動きの一環として、「社会統合論(social embeddedness)」と呼ばれるようになりました。
主要概念
アドラー心理学でいう「劣等感」とは、「自分は他者よりも価値がない」という思い込み・感覚だけを指しているのではなく、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。アドラー心理学では前者を後天的に意味づけられた幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へ駆り立てる原動力になるものと捉えます。
アドラー心理学における最も重要な概念は「共同体感覚」ですが、有名であるという点では「劣等感」が一番かも知れません。
アドラーは「劣等感」を、「不完全である成就していないという感覚」と述べました。すなわちアドラー心理学における「劣等感」とは、「自分は他者よりも価値が少ない」という思い込み・感覚だけを指しているのではなく、もう少し広く、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。ドイツ語の原語「Minderwertigkeit」は、文字通り「価値がより少ない感じ」を意味します。これは本来、理想通りでない自分には価値が少ない、という意味あいですが、現代のような競合的な社会において「劣等感」とは、もっぱら「人に比べて自分は○○の点で劣っている(から自分には価値がない)」という意味で使われています。
人間の赤ちゃんは、はじめは自分と他者の優劣を比較しない「平等」な世界のなかで、安心して生きているのでしょう。しかし、子どもは成長し言葉を覚え、社会生活を送る中で、まるで当たり前のように「劣等感」を持ち続けるようになります。これについてアドラー派の学者は、次のようなプロセスによるものとの指摘しています。
- 「区別」の学習:優れたものと劣ったものの「区別」を学ぶ。
- 「勇気くじき」:親や教師から「それじゃダメ」「なんでできないの?」といった言葉をかけられること(勇気くじき)で、「自分は他者より劣っている存在だ」と思い込む。
人は、「私はこういう点で劣っている」という劣等感(相対的マイナス)を抱くと、世界への所属感や安心感といった「平等」の感覚を失ってしまいます。そこで失った感覚を取り戻そうと、「私はこうでなければならない」(例:「人の上に立たなければならない」「人に好かれなければならない」)といった、その人にとっての理想の姿である「優越目標(相対的プラス)」を立てて、その目標を達成するための行動を起こします。アドラー心理学ではこのように、人間の行動を、相対的マイナスから相対的プラスに向かう目標追求として捉えます。
しかし劣等感をずっと持ち続けると、上記のような目標も、どれだけ追いかけても決して到達できない地平線のように逃げていきます。そのため、常に不安を抱え、緊張し、努力し続けなければならない状態に陥ります。つまりいわゆる、対人関係や社会における劣等感というものは、後天的に意味づけられた「自分には価値がない」という幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へ駆り立てる原動力になるものと捉えることができます。
「劣等コンプレックス」とは劣等感を言い訳にして人生の課題から逃げる状態を指し、「優越コンプレックス」とはその劣等感を隠すために自分が優れているかのように振る舞う、劣等感の裏返しである状態を指します。
アドラー心理学における「劣等コンプレックス」とは、人が持つ「劣等感」を、人生の課題から逃れるための口実として利用している状態を指します。これは、困難に対して建設的に取り組むことを避け、自分を正当化するための自己欺瞞に他なりません。その目的は、現状維持が失敗を招いたとしても、その責任を自分以外のものに転嫁することにあります。また「劣等コンプレックス」は、過度に心の傷や被害者意識などを訴えることで周囲の同情を引いたり、相手を感情的に支配する手段として使われることもあります。
では、人はどのようにして「劣等コンプレックス」を使うに至るのでしょうか。人間は誰しも、生まれながらにして「自分は劣っている」と感じているわけではありません。しかし、成長の過程で、社会や家庭、学校における様々な要因の影響により劣等感を持つようになると考えられます。
子どもは言葉を覚えるにつれて、物事の「違い」を「優劣」として区別し始めます。その際に、親や教師が「どうしてできないの?」「もっと頑張らないとダメ」といった否定的な言葉(アドラー心理学で言う「勇気くじき」)を投げかけると、子どもは「自分は(人として)劣っている」という思い込み、つまり劣等感を抱くようになります。
この「自分は劣っている」という感覚は、客観的な事実ではなく、作られた思い込み(フィクション)です。しかし、この劣等感から逃れるために、人は「優越」という架空の目標を立て、それに向かって努力を始めます。この「劣等から優越へ」という動きそのものが、ライフスタイルの基本構造となりますが、多くお場合、初めからピントがずれた努力に陥りがちです。
身体的な特徴(器官劣等性)、性別、生まれ育ち、経済状況、さらには家族や上司といった人間関係まで、本人と相手が納得しさえすれば、ありとあらゆるものが劣等コンプレックスの材料となり得ます。現代社会では、特に「老い」がネガティブなものと捉えられ、高齢者が大きな劣等感を抱えやすい状況にあります。
人が劣等コンプレックスを人生の主要な方針として用いるようになると、それは「神経症」と呼ばれます。神経症的な人は劣等コンプレックスを実践しており、自分が作り出した口実に完全に騙されている状態にあります。アドラーはこの状態を「犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている」と表現しました。この自己欺瞞のサイクルに囚われている限り、人生の問題の真の解決には至りません。
劣等コンプレックスから抜け出すためには、まず、その自己欺瞞の輪から一歩外へ出ることが必要です。
- 共同体への貢献
他者や社会に貢献すること(それらにプラスになることを始めること)は、内向きの関心を外に向け、サイクルを断ち切る鍵となります。 - 「劣等」という幻想
私たちが抱く「劣等感」は、実は社会全体が共有する壮大な誤解に過ぎず、客観的な事実ではないと理解しましょう。 - 「勇気づけ」
子どもへの「勇気づけ」は、子どもが劣等コンプレックスを使って生きる選択をしないようにするために重要です。たとえば、子どもが貢献してくれたことに感謝を感じたなら、「お手伝いありがとう」「あなたがいると助かる」といった言葉を伝えることができます。こうしたことよって子どもは、自分は他者の役に立つ存在であると感じることができ、そこから自分の力を他者のために使う勇気が生まれることでしょう。
つまり、人と人との優劣という幻想の物差しから降り、他者と対等な立場で協力関係を築いていくことが、劣等コンプレックスを克服する唯一の道と言えます。
一方、「優越コンプレックス」は、劣等感の裏返しとして、あたかも自分が優れているかのように振る舞うことで、劣等感を隠そうとする状態です。自慢話を繰り返したり、他者を見下したり、権威を誇示したりする行動がこれにあたります。こちらも劣等コンプレックスと同様に他者との調和を欠き、対人関係の摩擦を生じやすいあり方といえます。また「優越コンプレックス」は、対人関係において片方が相手への劣等感を過補償し、それに対して相手がさらに大きな劣等感を持ち、それを過補償し、といったように繰り返されていくことで、両者の争いが際限なく拡大する原因でもあります。
「私的感覚」とは、出来事に対して「良い(プラス)」「悪い(マイナス)」を瞬時に判断する個人独自の無意識的な価値判断であり、これが個々のエピソードにおける表層的な反応(私的論理)を生み出すのに対し、「ライフスタイル」は、複数のエピソードに共通するその人固有の「私的感覚(=私的意味づけ)」の背後にある、パーソナリティ全体を貫く根源的な思考・行動パターン(深層構造)を指します。
「私的感覚(Private Sense)」とは、個人が持つ独自の「こうあるべきだ」「こうなったら素晴らしい」という感覚に基づく、多くの場合無意識に行われる「価値判断」のことです。これは、ある出来事や状況に直面した際に、「何が良いこと(プラス)で、何が悪いこと(マイナス)か」を瞬時に判断する、個人の行動の背後にある「黒幕」のようなものです。
この感覚は、具体的な出来事の中で次のように機能します。
- ある出来事が起こると、人は無意識に自分の「私的感覚」に照らし合わせます。
- その出来事が理想から外れている(マイナス面)と判断されると、「劣等感」が生じます。これは「他人より劣っている」という意味ではなく、「自分の理想と現実とのギャップ」を指す感覚です。
- この劣等感は具体的には、不安、怒り、後悔などといった「陰性感情」として感じられます。
- そして、その理想と違う状況を解決し、理想の状態(プラス面)に近づけようとする「対処行動」が引き起こされます。
そのため、ある人の「私的感覚」を理解するためには、まず具体的な「エピソード(一回限りの出来事)」の分析から始めます。そのエピソードにおいて陰性感情が最も強いところや、あるいはエピソードの中で初めて陰性感情が出たところ、続いていた陰性感情が急に強まったところなど、「そのエピソードが一番ドラマティックに展開をみせたところ」を起点に、以下の3つの要素を分析します。
- ライフタスク (Lifetask / LT):
その「対処行動」を取らなければならなかった問題状況のこと。私的感覚のマイナス面に触れた出来事。この状況にある時、人は「劣等感」(理想と現実のギャップ)を感じます。具体的には陰性感情(不安、怒り、後悔など)として感じられます。 - 対処行動 (Coping Behavior / CB):
問題を解決するために、その人が具体的に取った行動のこと。 - 仮想的目標 (Fictional Goal / FG):
その「対処行動」の先に期待している理想的な解決イメージのこと。私的感覚のプラス面が現れたもの。その人が「こうなれば素晴らしい」と考える、キラキラした理想のイメージ。
これら3つの要素は、「私的感覚」という一つの価値判断から生まれ、「私的感覚」によってお互いに結びついています。つまり「私的感覚」とは、その個人固有の「およそ人たるもの(=自分も相手も)~であるべきだ」といった感覚に基づく、「【仮想的目標】はプラスであり、【ライフタスク】はマイナスであり、【対処行動】がマイナスからプラスに進むための手段である」という、プラスとマイナスの両側面を持つ価値判断の体系ということができます。
そして、私的感覚から生まれる「仮想的目標」は、以下の2種類に分けられます。
- 競合的な目標:
相手と自分を比べ、優劣や善悪などを決めようとする目標。これは相手を「劣っている」「間違っている」と裁くことになるため、対立を生みやすくなります。 - 協力的な目標:
相手と共通の目的に向かって協力しようとする目標。
人間関係のトラブルは、多くの場合「競合的な目標」を持つ私的感覚から生じます。その場合、解決のためには、目標をより「協力的なもの」へと作り直す必要があります。
次に「私的感覚」と「ライフスタイル」の関係ですが、「ライフスタイル」とは、個人のパーソナリティ全体を貫く、より根源的な思考・行動パターンのことです。アドラー心理学ではある個人が出来事に際して持つ、「ライフタスク→対処行動→仮想的目標」といったような考え方の流れを「私的論理」と呼んでいますが、これが個別のエピソードにおける表層的な反応パターンだとすれば、「ライフスタイル」はその背後にある深層構造といえます。また、ある個人の複数のエピソード(現在の複数の出来事や後述の早期回想)で共通して見出される、その個人に一貫するといえる「私的感覚」を「私的意味づけ」と呼びますが、そこに端を発して動いている根源的な思考パターンこそが「ライフスタイル」なのです。
| レベル | 価値判断の体系 | 考え方の流れ (LT → CB → FG) |
|---|---|---|
| 表層(個別のエピソード) | 私的感覚 (Private Sense) | 私的論理 (Private Logic) |
| 深層(パーソナリティ全体) | 私的意味づけ (Private meaning) | ライフスタイル (Lifestyle) |
「私的感覚」と「ライフスタイル」は以上のような関係にあります。
なお、ライフスタイルを分析する上で非常に有効なのが、「早期回想(小学校卒業くらいまでの、感情を伴う鮮明な子ども時代の記憶)」です。早期回想を分析する理由は以下の2つです。
- 現在のエピソードと、時間的に遠く離れた子ども時代の思い出に共通のパターン(私的感覚、私的論理)が見つかれば、それは一時的なものではなく、その人の生き方全体を貫く「ライフスタイル」である可能性が高まります。
- 人がわざわざ記憶し続けている数少ない子ども時代の思い出には、「この世とはこういうものだ」「自分はこういう人間だ」といった、自分自身、他者、世界に対するその人の根本的な意味づけ(「私的意味づけ」)がよりシンプルに表されていると考えられます。
早期回想の分析方法は、現在のエピソードの分析と全く同じ(LT→CB→FG)です。こうして複数のエピソードから「私的感覚」を分析し、その共通項を探ることで、個人の「ライフスタイル」が明らかになります。
このライフスタイルは固定的なものではなく、書き換えることが可能です。それには以下の3つのステップを繰り返すことが有効です。
- 理解 (Understand):
エピソード分析を通じて、自分の「私的感覚」や「私的論理」のパターン(例:「私はいつもこうやって失敗しているな」)を言葉にして理解する。 - 行動 (Act):
理解に基づいて、より協力的な目標や、より適切な対処行動を意識的に試してみる。 - 成功 (Succeed):
新しい行動によって、実際に関係がうまくいくという成功体験を積む。
この「理解→行動→成功」のサイクルが学習となって働き、個々の「私的感覚」がより協力的なものに修正され、最終的には根源的な「ライフスタイル」そのものが、より良い方向へと書き換えられていくのです。ただし上記の過程から明らかですが、これは自分ひとりで行えることではなく、周囲の協力と本人の努力があわさり、初めて可能となるものです。つまり、これは個人の成長過程であるとともに、個人が共同体に参加し、相互に貢献していく過程でもあるのです。
「私的論理」が個人の独自の価値観(私的感覚)に基づく主観的な思考の 流れ であるのに対し、「共通感覚」は社会や共同体で共有される、いわゆる常識という 価値観(私的感覚と対応するもの)を指します。
「私的論理」とは、個人が独自の価値観、思い込みに基づいて、自分自身や世界、他者について考える際の、その考え方(論理)のことです。人は私的論理の大前提となっている、その個人特有の価値観つまり私的感覚から、「わるい」状況と判断されるライフタスクを劣等感をともないながら認識するとともに、それに対する「よい」状態といえる仮想的目標を導き出して、この目標へ進むための対処行動を結論づけます。以上の過程での思考の流れを、「私的論理」と呼びます。多くの場合、私的論理による結論は個人的には「正しい」判断だと思われていますが、必ずしも客観的・普遍的な妥当性を持つわけではありません。
一方、「共通感覚(コモン・センス)」とは、ある社会や共同体の中で広く共有されている考え方や価値観、つまり、いわゆる常識を指し、個人特有の価値観を指す「私的感覚」と対応関係にあります。私的感覚が共通感覚から大きく逸脱している場合、対人関係の困難や不適応が生じやすいと考えられますが、ただし共通感覚もまた、共同体内で多数説であるからといって、必ずしも正しいとは限りません。歴史にみられるように、共同体全体が誤った考えにとらわれていることもあるのです。そこでアドラー心理学では、人々の暮らしの中でたえず再検討されながら、より大きな共同体にも有益かどうかを問う「共同体感覚」を強調します。
アドラー心理学における「人生の課題(ライフタスク)」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で直面せざるを得ず、個人の精神的健康や生き方(ライフスタイル)と深く結びついている「仕事」「交友」「愛」という3つの対人関係の課題を指します。
アドラー心理学における「ライフタスク」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で、直面せざるを得ない「課題」を指します。タスクといっても、その人の抱えるいわゆる「やるべきことリスト」のことではなく、個人の精神的な健康や幸福、そしてその人の生き方そのもの(ライフスタイル)と深く結びついた、包括的な概念です。
アルフレッド・アドラー自身が明確に提唱したのは、以下の三つのライフタスクです。このどれもが対人関係であることは、とても重要な点といえます。この分類は、主として関係の継続性に基づいています。
- 仕事のタスク:生計を立てるための職業活動、学業、家事など、生産性に関わるあらゆる活動を指します。社会の一員として貢献し、自分の居場所を確保するための基本的な課題です。
- 交友のタスク:友人関係や地域社会との関わりなど、恋愛や家族関係以外のより広い対人関係を指します。他者と協力し、社会的なつながりを築く能力が問われます。
- 愛のタスク:パートナーシップや親子関係といった、最も親密な対人関係を指します。ライフタスクの中で最も困難なものとされ、深いレベルでの信頼と貢献が求められます。
これらのタスクは多くの場合、実生活において、現実と、本人が理想とする状態(仮想的目標)とのギャップとして現れます。そのため「課題」として認識される際には、「劣等感」、具体的には不安、怒り、後悔などといった陰性感情を伴うことが一般的です。
これらの課題にどのように取り組み、そこで他者とどのように協力していけるかは、その人の人生のあり方と不可分といえます。アドラー心理学のカウンセリングでは、個人がこれらの課題にどう向き合い、困難を乗り越えていくか、について話し合います。また、必要に応じてその人の「ライフスタイル」を分析し、より根源的な解決策を見出すことを目指します。
なお、これらに加えて、アドラー派の論者によっては「自己との課題」「スピリチュアルな課題」などを加えることもあります(ハロルド・モザックによる提唱)。
こじれたコミュニケーションの5つの段階
アドラー心理学では、子どもの不適切な行動を単に罰するのではなく、その背景にある、「所属(居場所)」を得ようとする目的(賞賛・注目・権力争い等)を理解しようとし、それはしばしば大人との「こじれたコミュニケーション」の現れであると捉えます。
アドラー心理学では、子どもの不適切な行動(問題行動)に対して、その行動自体を罰したり禁止したりするのではなく、背景にある理由を理解しようと努めます(ただし他者に危害が及ぶなど緊急避難が必要な場合は、その限りではありません)。
子どもが不適切な行動をする理由はいくつも考えられますが、R.ドライカースは、子どもがこうした行動を人びとの間に居場所(所属)を得る目的で起こすことがあると考え、これらの行動とその目的を以下の4段階に分類しました。
- 注目・関心を引く
- 権力争い
- 復讐する
- 無能力を誇示する
その後、野田をはじめとする多くの現代の研究者は、上記の最初の段階として
- 賞賛を求める
という項目を追加しています。
それぞれの段階における基本的な対応は、それらの行動とは別の建設的な方法で所属を得ることができると子どもに学んでもらえるよう、親や周囲の大人、あるいは専門家などから勇気づけを行うことです。
ただし注意しなくてはならないのは、ある子どもが上記の段階のうちのいずれかの振る舞いを見せたとしても、別の場所や異なる相手に対しては、全く違う振る舞いをすることが少なくないという点です。ドライカースは各段階での子どもの行動とその目的を「子どもの行動の誤った目標」と呼びました。しかし野田は、この呼び方では、親などの大人の「子どもの行動がこのように不適切(=私の判断は適切)」だという受け止め方を招き、子どもを一面的にかつ一方的に裁くことにつながりかねないと懸念したのです。
野田は、ある大人に対して子どもがそうした振る舞いをするのは、その大人と子どもの間に、そのようなコミュニケーションの構造があるからだと指摘します。この5つの段階についても、「こじれたコミュニケーションの5つの段階」として説明しました。つまり改善すべきなのは、親と子どもの競合的なコミュニケーションのあり方であって、その一環として、子どもにも建設的な所属の仕方を学んでもらうのです。したがって、そこで学ぶべきなのは子どもだけではありません。
なお、不適切な行動の理由は、ここで述べたコミュニケーションの問題以外にも考えられます。たとえば発達段階の途上で、何が不適切な行動かを知らない場合。不適切だと知っていても、どうすればよいか分からない場合。あるいは、障がいを原因とする様々な困難を抱えている場合などです。これらの要因を除外した上で、はじめてこの「こじれたコミュニケーションの5つの段階」を検討していくことになります。
「賞賛を求める」とは、こじれたコミュニケーションの第一段階で、子どもが「褒められない自分には価値がない」という考えから、賞賛されることによって集団内の居場所を得ようと「適切な行動」をとる状態であり、賞賛が得られなくなるとその行動をやめてしまうため、その行動自体ではなく他の貢献的な行動に注目して勇気づける必要があります。
こじれたコミュニケーションの5つの段階(子どもの不適切な行動の目的)、その第一段階が「賞賛を求める」です。子どもは大人(特に親や教師)に褒められることで集団の中に居場所を確保しようとして、「適切な行動」をとろうとします。つまり、「褒められない自分には価値がない」という考えに基づいているため、これはすでに勇気がくじかれた状態と捉えられます。ここで注意すべきは、子どもが適切な行動そのものではなく、それによって賞賛されることを重視しているという点です。
こうした子どもの行動は、表面上は不適切な行動に見えません。大人は当初、こうした行動に喜びなどの陽性感情を抱き、褒めてあげたいと感じるものです。しかし、子どもが繰り返し賞賛を求めてくると、次第にそれを煩わしく感じるようになっていきます。そして、子どもは賞賛が得られなくなると、ただちに適切な行動をやめてしまいます。子どもを褒めて育てる場合の弊害がここにあります。しかし、だからといってここで単純に褒めるのをやめてしまったり、あるいは子どもが競争に負けるなどして賞賛を得られなくなったりすると、次の段階の行動に移行してしまうおそれがあります。
ここでの対応として重要なのは、子どもが賞賛のために行っている行動を褒めるのではなく、その子が意識せずに行っている共同体への貢献的な行動に注目することです。その子自身が「(褒められなくとも)自分には価値があり、ここに居場所がある」と感じられるよう、援助していくことが求められます。
「注目・関心を引く」とは、不適切な行動の目的の第二段階で、良いことや普通のことでは注目されず価値がないと感じた子どもが、いたずらや騒ぐといった困った行動をわざと行うことで、たとえ怒られてでも「無視されるよりマシ」と大人の関心を引こうとする状態です。
子どもの不適切な行動の目的、その第二段階が「注目・関心を引く」です。これは、子どもが良いことで注目されない、あるいは普通にしていても注目されないと感じたときに、悪いことや困った行動をすることで、大人(特に親や教師)の関心を引こうとする行動です。例えば、わざといたずらをする、大声で騒ぐ、ふざけるといった、大人の側でうるさく感じられ、つい介入したくなるような行動がこれにあたります。注意をすると子どもはその行動をいったんやめますから、大人の方はイライラしますが本気で腹は立ちません。
ここで子どもは「自分には良いことができないし、普通にしていても誰にも見てもらえない。こんな自分には価値がない。」と感じているので、これもまた勇気がくじかれた状態といえます。このような状態にあっては、「無視されるよりは怒られる方がまだマシ」なのです。
ここまでの段階では、子どもはまだ比較的肯定的な注目を求めているため、大人からの適切な関心や承認、そして勇気づけを通じて、より建設的な方法で所属を得るように促すことができます。適切な行動に対して注目しつつ、不適切な行動に対して注目しないという関わり方が基本となります。ただし、単に無視したり罰したりするだけでは、注目によって居場所を得ようとする子どもの目標は達成されません。子どもは自分には価値があるとますます思えなくなって、さらに次の段階の行動に進んでしまう可能性があります。
「権力争い」とは、不適切な行動の目的の第三段階であり、注目を得ても居場所がないと感じた子どもが、特に罰や強制を用いる大人に対して「勝たないと価値がない」と考え、反抗的な態度やルール破りによって自分の力を示そうとする状態を指します。
不適切な行動の目的、その第三段階が「権力争い」です。前の段階である「不適切な行動で注目・関心を得る」を試みても、所属が得られないと感じたり、自分には価値があると十分感じられなかった場合にこの段階に進みます。つまり、大人が子どもの行動をコントロールしようと罰を用いたり強制したりした場合に現れやすくなります。子どもは、大人に勝たないと自分には価値がなく、自分の居場所がないと感じます。そこで大人に対して反抗的な態度をとったり、指示に従わなかったり、わざとルールを破ったりすることで、自分の力を示そうとします。
この段階は、大人の側では腹立たしく感じられますが、だからといって正論や力で押さえつけようとすれば、子どもの抵抗はさらに強まり、いわゆるケンカに陥ってしまいます。重要なのは、コミュニケーションが権力争いの形になってしまったことに気づいたら、その争いから降りることです。もしどうしても感情的になる場合にはその場を離れ、冷静になってから改めて話し合うことが大切です。その際には、大人が自分の意見を言う前に、相手の話を裁かず十分に聞くこと。そして、子どもの行動の適切な側面を探したり、子どもはそもそも何を解決したかったのかを考え、そのために大人が協力できることはないか相談したりすること。これらが、こじれたコミュニケーションを改善するために重要となります。
「復讐する」とは、不適切な行動の目的の第四段階であり、それまでの段階(賞賛・注目・権力争い)で所属感を得られず大人に傷つけられたと感じた子どもが、自分を傷つけたと認識する相手に対し、物を壊したり嘘をついたりするなど意図的に相手が嫌がることをして仕返ししようとする状態を指します。
不適切な行動の目的、その第四段階は「復讐する」です。これは、第一段階「賞賛を求める」、第二段階「注目を得る」、第三段階「権力争い」といったいずれの行動でも、所属感や自分には価値があるという感じが持てず、大人から傷つけられたり、不当な扱いを受けたと感じたりした場合に現れます。子どもは、直接的には相手に勝てないと悟ると、間接的な方法で相手を傷つけようと試みます。つまり、自分を傷つけたと認識している相手に対し、意図的に相手が嫌がることや困ることを仕掛け、仕返しをしようとするのです。例えば、物を壊す、嘘をつく、陰湿ないじめをするといった行動です。非行に走ったり、神経症的な症状を出す事もあります。
この段階の子どもは深い絶望感や憎しみを抱いていることがあり、その場合、罰や叱責はもちろん、普通に話しかけることさえ、かえって復讐心を煽るだけとなります。大人の側も深く傷つくことの多いこの段階は、もはや当事者どうしでは解決できません。そのため、こじれたコミュニケーションは、一つ前の「権力争い」の段階で止めておく事が極めて重要となります。この復讐の段階では、第三者であるカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入が必要になります。あるいは第三者でこの子どもと良好な関係を築いている大人がいれば、その方の援助を仰ぐ方法があります。
「無能力を誇示する」とは、不適切な行動の目的の第五段階であり、それまでの段階(賞賛・注目、権力争い、復讐)でも所属感が得られず自分に全く価値がないと深く絶望した子どもが、あらゆる建設的な努力を放棄し、「自分は無価値だから放っておいてくれ」という態度を示す状態を指します。
不適切な行動の目的、その第五段階は「無能力を誇示する」です。これは、それまでの段階(賞賛・注目、権力争い、復讐)を経ても所属している感じが得られず、自分には価値がまったくないと感じている状態を指します。何をしても無駄だと深く絶望し、あらゆる建設的な努力を放棄してしまい、「自分は無価値で役に立たないんだから、あきらめてほっといてくれ」という態度を示すのです。極端な場合には、犯罪を繰り返したり、深刻な精神的症状によって入退院を繰り返すといった状態に至ることもあり、親の側としてもそうした行動に絶望してしまうことは少なくありません。
この段階にある子どもへの対応は極めて難しく、家庭内での働きかけよりも、専門的なトレーニングを受けたカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入、あるいは医師による診断と治療、またはその両方が不可欠となります。
カウンセリングと応用
アドラー心理学のカウンセリングは、クライアントが不幸の原因である「競合」的な生き方から「協力」的な生き方へと移行するための「学び(再教育)」のプロセスであり、クライアントの仮想的目標が協力的か競合的かを吟味し、新たな行動計画を立てる点に特徴があります。
アドラー心理学のカウンセリングは、単なる悩みの相談や気休めではなく、クライアントがより良い人生を送るための「学び」のプロセスです。洞察を重視し、必要であれば助言も行います。
その原理、具体的なプロセスは明確に示されており、カウンセラーや心理療法士には、医療関係者と同等かつ、アドラー心理学のプロバイダー(供給者)としての倫理的責任が求められます。
アドラー心理学のカウンセリングや心理療法の最終目的は、クライアントが「協力」というあり方を学ぶことです。アドラー心理学では、人間関係における問題や不幸の唯一の原因は、物事を「競合」的に捉えることにあると考えます。競合とは、相手と自分とを比較し、善悪・良否・美醜といった基準で優劣を決めようとする心の持ち方です。「相手が間違っている、自分が正しい」と裁くこの態度は、人間関係を勝ち負けの闘争にしてしまいます。それに対して協力とは、優劣の比較をやめ、相手と対等な立場で、力を合わせて問題を解決しようとする心の持ち方です。アドラー心理学のカウンセリングや心理療法は、この「競合」的な生き方から「協力」的な生き方へと移行するための再教育の場ですが、カウンセリングでは主に「エピソード分析」を用いてライフタスクに関する問題を解決することを目標にし、心理療法では、「ライフスタイル分析」によってライフスタイルに関する問題を解決することを目標にします。セッションの始まりには「前回はどんなことを学ばれましたか?」最後には「今日はどんなことを学ばれましたか?」と問われ、この学びをクライエント自身が言語化する事によって再認識することを促します。
一般的にアドラー心理学のカウンセリングでは、ある日あるところで一度だけ起きた、陰性感情を伴う出来事の話(エピソード)を素材にします。エピソードの中でのクライエントの「思考」「感情」、「目標」を探し、分析します。そして、エピソードの中でクライエントがとった行動について、次に似たような場面があったら、エピソードでとった行動の代わりにそんなことができそうか、行動の代替案を考えます。この時出た代替案などが「宿題」となることがあります。
カウンセリングや心理療法で扱う人間の行動は、すべて「相対的マイナスから相対的プラスへの目標追求」という原理に基づいていると理解されます。人は、何か問題を感じる状況(相対的マイナス)に陥ると、それを解決し、より理想的な状態(相対的プラス)を目指して行動します。この「相対的プラス」の状態は、多くの場合、本人が無意識に抱いている非現実的で空想的な「仮想的目標」です。
この原理に基づき、カウンセリングは以下のステップで進められます。カウンセリングでは、この仮想的目標が「競合的」なのか「協力的」なのかを分析することがポイントになります。カウンセラーは、エピソードを聞き終えた時点で、このプロセス全体のシナリオを見通すこととができるよう、トレーニングが必要になります。
以下に示すのは、元来欧米の言語体系で構築されたアドラー心理学のカウンセリング手順を、日本語話者に理解しやすくやりやすく工夫した、『エピソード分析』の手順です。
- エピソードの聴取:
「ある日、ある所で、一回だけ起こった、陰性感情を伴う出来事」を、客観的な事実として正確に聞き取ります。これが分析の出発点となります。 - 対処行動の特定:
物語を最も大きく動かした、クライアント自身の具体的な行動や言葉を「対処行動」として特定します。 - ライフタスクの特定:
その対処行動のきっかけとなった、相手の言動を「ライフタスク」として特定します。 - 仮想的目標の言語化:
ライフタスクが理想的な形で解決された状態がどのようなものかを推量し、「仮想的目標」を言語化します。 - 協力的目標/競合的目標の判断:
明らかになった仮想的目標が、協力的目標(一緒に問題を解決する方向性の目標。相手も納得してくれそうな目標)または競合的目標(相手を裁いたり、上下関係を決めようとしたりする。実現すると自分にとってはうれしいが、相手は同じようにうれしいとは思ってくれなそうな目標)のどちらにあたるかを、クライアントと共に吟味します。 - 新しい行動計画の立案:
目標が協力的な場合は、その目標を達成するためにより有効と思えるような、対処行動の代替案(例:目標をそのまま相手に伝える)を考えます。
目標が競合的な場合は、その目標を無理に達成しようとすると相手との関係が悪くなります。この場合は相手も納得してくれそうな協力的な目標を探し、その目標を達成するための、対処行動の代替案を一緒に探します。
なお、すべてのセッションの全過程を通じて基本となるのが、R.ドライカースの提唱した「治療的人間関係」、つまり、「相互尊敬、相互信頼、協力、目標の一致」という良い人間関係を終始築き、カウンセラー(心理療法士)とクライエントの共同作業を続けることです。アドラー心理学のカウンセリングは、教育的ではありますが、教示的ではありません。
アドラー心理学のカウンセラー(心理療法士)であるためには、まず自分自身の私的感覚や競合性を知り、日常生活でアドラー心理学の理論と思想にもとづいて物事を考え行動できるようになること、自分の私的感覚や私的論理を脇に置いて相手の話を聞いたり物事を考えられるようになることが必要です。
アドラー心理学のカウンセラーは、単なる技術者である「ユーザー」とは一線を画す、「プロバイダー(供給者)」として、以下の三つの重い倫理的責任を負っています。
- 理論への忠実性:アドラー心理学の「基本前提」を正しく理解し、それを崩さずに伝える責任。もし同意できないなら「アドラー心理学」を名乗るべきではありません。
- 思想の実践:「共同体感覚」という思想を、自らの実生活の中で実践し続ける責任。日常生活で競合的に暮らしている人に、協力的なカウンセリングはできません。
- ムーブメントへの貢献:アドラー心理学を、より良い世界を実現するための社会運動(ムーブメント)と捉え、それに貢献する責任。これは、過去から未来にわたる世界中のアドレリアンに対する連帯責任を意味します。
この責任を果たすためには、海外の技法を文化的な風土を無視して輸入するのではなく、日本の文化に根差した実践(例:日本における「課題の分離」の重視など)が求められます。また、アドラーや他の先達の著作を「聖典」のように深く読み込み、その思想だけが人類を救済するというほどの確信と、自らの人生を懸けるほどの「覚悟」がプロバイダーには不可欠であるといえます。
世間一般の相談に乗る際のアドラー心理学からのアドバイスは、まずどのような相談なのか、この相談で何を目指すのかをお互いに明確にし、相手の能力を信じ「相互信頼」と「相互尊敬」に基づく対等な関係のなかで相談に応じ、具体的な「エピソード」から「原因」ではなく「目的(競合的か協力的か)」を分析し、答えを与えるのではなく複数の「選択肢」を提示して相手自身に解決策を選んでもらうことです。
以下は専門的なカウンセリングの話ではありません。いわゆる世間一般でいう、「ちょっと相談に乗る」といった話です。これらは単なる聞き方のテクニックではなく、アドラー心理学に基づいた、相談相手が自らの力で問題を解決できるようになるための心構えと具体的な手法です。
相談に乗る前の大前提と心構え
まず、具体的な技術に入る前に、相談に乗る上で最も重要となる3つの前提があります。
- 相談は「契約」である
最も基本的なルールは、相手からの明確な要請なしにアドバイスを始めないことです。「相談に乗ってほしい」「意見が欲しい」という双方の合意(契約)があって初めて、相談は成り立ちます。いきなり「こうした方がいい」と助言するのは、相手の領域に踏み込むルール違反です。
また、これは相談を受ける側にも言えることで、自分の専門外であったり、対応が難しいと感じたりした場合は、無理に引き受けず断る権利があります。 - 相手を信じ、解決を「委ねる」姿勢を持つ
相談に乗る側が陥りがちな間違いは、「自分が相手を助けてあげなければ」「正しい道に導いてあげなければ」という支配的な考え方です。
重要なのは、「相手は自分の力で問題を解決できる能力がある」と心から信じること、です。相談に乗る者は、あくまで選手本人ではなく「コーチ」です。試合に出るのは相手自身であり、私たちはその人が力を最大限発揮できるよう手伝うだけで、代わりに問題を解決することはできません。この信頼関係がなければ、本当の意味での援助は不可能です。 - 相性がすべてであると知る
医者選びと同じように、相談においても相談する側とされる側の「相性」が非常に重要です。どんなに優れた専門家でも、相性が合わなければ良い結果にはつながりません。もし相手が自分に合わないと感じているようであれば、無理に関係を続ける必要はありません。お互いに「この人とならやっていける」という感覚が大切です。
すべての土台となる「良い人間関係」の築き方
良い相談は、良い人間関係という土台の上にしか成り立ちません。テクニック以前に、以下の4つの条件を満たす関係を築くことが不可欠です。
- 相互尊敬
相手を「間違っている」「劣っている」と裁くのではなく、一人の対等な人間として敬意を払うことです。たとえその行動が問題に見えても、「その人なりに、自分の理想に向かって一生懸命生きている」という善意を認めます。
重要なのは、「人格」とその人の「行為」を分けて考えることです。ある「行為」が問題であっても、その人の「人格」を否定してはいけません。 - 相互信頼
前述の「相手を信じる姿勢」と同じです。相手の能力を信頼し、課題を乗り越える力を信じ、最終的な決定を本人に委ねます。 - 協力
上下関係で「指導する」のではなく、対等な立場で「役割分担」をしながら、共通の目標を目指すことです。相談に乗る側と乗られる側では役割が違いますが、人間としての価値は全く同じ「平等」な関係です。 - 目標の一致
「この相談がどうなったら成功(終了)なのか」というゴールを最初に共有することです。「夫婦関係を修復したいのか、それとも円満に離婚したいのか」など、目指す方向性を最初に明確にすることで、建設的な話し合いが可能になります。
問題を深く理解するための具体的な分析手法
良い関係を築いた上で、以下の手法を用いて問題を分析していきます。
- 「エピソード」に焦点を当てる
「いつも夫が冷たい」といった漠然とした話(レポート)ではなく、「昨日の夜、こんな出来事があった」という具体的な一度きりの出来事(エピソード)を詳しく聞きます。具体的な状況の中にこそ、問題の本質が隠されています。 - すべての行動を「目的」から理解する(目的論)
人の行動を「何が原因か(原因論)」で見るのではなく、「その行動によって、どんな目的を達成しようとしているのか(目的論)」という視点で見ます。
すべての行動は、本人が無意識に「今より少しでも良い状態になりたい」という目的(仮想的目標)のために行われています。不登校も、いじめも、夫婦喧嘩も、その行動を取ることで本人が得ている「良いこと」が必ずあります。 - 目標の種類を「競合的」か「協力的」か見極める
相手の「仮想的目標」を分析する際、それがどちらのタイプかを見極めることが重要です。
競合的な目標:
「どちらが正しいか/間違っているか」「どちらが善か/悪か」を決め、相手を打ち負かし、裁こうとする目標です。これは人間関係を破壊するだけで、何の解決にもなりません。この場合、「そのやり方では、あなたの本当の望みは叶わないのではないか?」と問いかけ、相手を裁くことの不毛さに気づいてもらう必要があります。
協力的な目標:
相手を裁く意図はなく、純粋に関係を良くしたいと願っているが、うまくいっていない場合です。この場合、目標自体は素晴らしいものとして肯定します。問題なのは、その目標を達成するための「手段(対処行動)」が間違っていることです。(例:夫に早く帰ってきてほしいのに、不機嫌な態度で責めてしまう妻)
解決へ導くための最終ステップ
分析を通じて問題の構造が明らかになったら、最後は相手が自ら一歩を踏み出せるように援助します。
- 複数の「選択肢」を提示し、相手に選んでもらう
「Aというやり方とBというやり方がありますが、どちらを試してみたいですか?」というように、具体的な選択肢を提示し、最終的な決定を相手に委ねます。
(例:「ご主人が帰りたくなるような家作りを工夫してみますか?それとも、今まで通り不満を伝え続けますか?」)
相談に乗る側が「こうしなさい」と答えを与えるのではなく、相手が自分の意志で道を選ぶ手助けをすることが、その人の自立と成長につながります。たとえその選択が最適に見えなくても、その決定を尊重し、信頼し続けることが大切です。
アドラー心理学を教育現場で活かすには、教師が「所属感」の育成と「未来の民主的社会を担う人間を育てる」という大きな視座を持ち、原因論から目的論へ転換して賞罰教育を避け、子ども自身の力を信じて「引き出す」関わり方を実践する点に注意が必要です。
アドラー心理学を学校教育の現場で活かすためには、単なるテクニックの導入ではなく、教師自身の根本的な心構えの変革と、子どもたちへの深い理解に基づいたアプローチが求められます。
その注意点は、大きく「持つべき視点」と「具体的なアプローチ」に分けられます。
教師が持つべき基本的な心構えと視点
- 究極目標を理解する:「所属感」の育成
教育の究極目標は、子どもたちが将来、共同体の一員として貢献しながら所属できるようにすることです。そのために、子どもたちが「人々は仲間だ」そして「私は能力がある」という二つの基本的な信念を持てるよう支援することが、あらゆる指導の根幹となります。 - 原因論から目的論への転換
子どもの問題行動を見たとき、「なぜこんなことをするのか?」と過去の原因を探るのではなく、「この子は何を求めているのか?」と未来の目的を考えることが不可欠です。そして、その究極の目的は常にクラスへの「所属」である、という視点を持ちます。 - 感情的な即時反応をしない:「ストップ・シンク・アクト」
問題に直面した際、すぐに叱るなどの感情的な反応をしてはいけません。まず「①ストップ(止まる)、②落ち着く、③考える、④それから行動する」という原則を徹底します。冷静な対応が、建設的な関わりのための絶対的な前提条件です。 - 二者関係ではなくクラス全体の力学で捉える
学校教育は家庭とは異なり、常に「教師-生徒」と「生徒-クラス全体」という二重の力学が働いています。問題行動は、表面的には教師に向けられていても、その真の目的はクラス内での所属感を確保するためであることが多いと理解すべきです。そのため、安易に教師と生徒の一対一の関係(例:職員室での説教)だけで問題を解決しようとすると、かえって問題を強化しかねません。 - 教師の限界を認め、子どもたちの力を信じる
教師一人がすべてを解決できるわけではありません。教師の役割は、クラスを支配する「扇の要」ではなく、子どもたちのネットワークを支援する「コンサルタント」です。子どもたち自身が持つ問題解決能力や、子どもたち同士の助け合いの力(総合援助の力)を信頼し、それを引き出す関わり方が求められます。
具体的なアプローチにおける注意点
- 賞罰教育を避ける
賞や罰を用いる教育は、子どもを「競合」的な関係(勝ち負けや優劣の世界)に引き込み、協力的な学びを阻害するため、原則として用いるべきではありません。 - 「教え込み」から「引き出す」へ:循環的話法の実践
「~しなさい」という一方的な指示・命令(直線的話法)ではなく、「どうすればできると思う?」といった、子ども自身に考えさせる「循環的な問いかけ」を多用します。これは、教師が答えを教え込む(インストラクト)のではなく、子どもが本来持っている答えやアイデアを、対話を通じて引き出す(エデュケート)ためのアプローチです。 - 貢献の機会を与え、クラス全体に働きかける
不適切な行動に注目する代わりに、その子の長所や得意なこと(パーソナル・ストレンクス)を見つけ、クラスのために貢献する機会を与えます(特に小学生に有効)。また、個人の問題として抱え込ませず、「〇〇君がクラスに所属できるよう、みんなで何ができるだろう?」とクラス全体に問いかけ、協力して解決する文化を育みます。 - 「解決」に焦点を当て、具体的なステップを示す
原因追及に時間を使うのではなく、実現可能な解決像を子どもと共に描き、そこに向かうための具体的な方法を考えます。その際、大きな目標を達成可能な小さなステップ(階段)に分け、スモールステップで進めるよう支援することが重要です。
これらの実践は、単なるクラスルームマネジメントの技法に留まりません。それは、子どもたちに「共同体感覚」と「常識」を教え、他人の問題を「自分には関係ない」と切り捨てるのではなく、「私にできることは何か」と考える、成熟した市民としての態度を育むプロセスです。最終的に、アドラー心理学を教育現場で活かす上での最も重要な注意点とは、学校教育の役割が、未来の民主的な社会を担う、協力的で責任感のある人間を育てることにある、という大きな視座を持つことだと言えるでしょう。
現代社会とアドラー心理学
アドラー心理学を学ぶことで、自己理解が深まり、対人関係の葛藤解決法や「勇気づけ」を学ぶことを通じて、自分の人生を主体的に切り開いてより調和のとれた充実した生き方を実現するための知恵と勇気が得られます。
アドラー心理学を学ぶことで期待できる個人の変化は多岐にわたりますが、まず、自己理解が深まり、自分の行動や感情の背後にある目的やライフスタイルに気づくことができるようになります。これにより、不適切なパターンを変え、より建設的な生き方を選び取る力が養われます。また対人関係においては、葛藤の解決方法を学ぶことで、不必要な摩擦や悩みが軽減されるでしょう。さらに、共同体感覚を学び「勇気づけ」を実践することで、自分自身や周囲の人間の人間的成長が得られるかもしれません。総じて、自分の人生を主体的に切り開き、より調和のとれた充実した生き方を実現するための知恵と勇気が得られるでしょう。
トラウマ・原因論の否定について
アドラー心理学は、トラウマが現在を決定するという決定論の立場をとらず、むしろその経験に本人がどのような「私的意味づけ」を与え、それを現在の「目的」のためにどう用いているかを重視し、その意味づけは見直し可能であると考えます。
トラウマに関しては、フロイトの精神分析が主張するように、現在の行動や感情のすべてが過去の心的外傷(トラウマ)によって直接的に決定されるという考え方と、現代の精神医療分野の知見が示す、トラウマの生理的影響からPTSD等の症状を招いたり発達過程に広範な影響を与えうる点が広く知られています。アドラー心理学は後者の重要性を踏まえつつ、前者については以下のように異なる立場をとります。
アドラー心理学では、個人が経験する出来事は、基本的には個人によって主観的に意味付けられたものとして体験され、そのもとで個人の行動が主体的に決断されて、そうした積み重ねで個人のライフスタイルが形成されていくと考えます。そのためアドラー心理学の臨床では、個人のライフスタイルを理解しようとする際に、経験に対して本人がどのような「私的意味づけ」をし、それらが現在の人生の目的にどのように用いられているかという点を重視します。なぜならば、ライフスタイルは経験への「私的意味づけ」から大きく影響されると考えられ、しかも「私的意味づけ」は理論的にはカウンセリング等により改めることが可能なので、そこからライフスタイルの見直しを通じた困難の軽減や、より建設的な生き方を見出す可能性が開かれます。そのため、アドラー心理学はトラウマに関してフロイト的な決定論の立場には立ちません。
ただし、深刻なトラウマ体験による影響から回復するには、専門的な治療や長期的な心理療法的支援が不可欠となる場合があります。また、ある出来事がトラウマ事態として緊急的ないし慢性的な心理的危機を引き起こしている場合は、アドラー心理学からの治療の適応範囲にはありません。その場合『危機介入』の専門職など心理専門職の方の介入が優先されます(アドラー心理学の適応範囲についてはAIJアドラー心理学カウンセラーにお問い合わせください)。
アドラー心理学は、深刻な虐待や災害による苦しみを「利用しているだけ」といった軽々しいものとは考えず、むしろその苦しみや不安を、直面した脅威から「自分の身を守る」という切迫した目的のため個人全体が用いていると捉え、その体験への「意味づけ」と「現在の生き方」に焦点を当てて、建設的な方向性を探ります。
目的論に関するお尋ねかと思います。アドラー心理学では、感情もまた、何らかの目的を実現するために用いられていると考えます。つまり個人は、自分にとって重大な意味があるからこそ他ならぬその感情を用いるのであって、「利用しているだけ」などといった軽々しいものではないのです。アドラー心理学は、深刻な虐待や恐ろしい災害に合われた方の、苦しみの現実やその深さを否定するものではありません。その後も続く気持ちの動転や強い不安まで含めて、それらは人間に本来的に備わっている、自分の身を守るための重要な仕組みであると考えます。つまり全体としての個人が、直面した脅威に対応するために、様々な苦しみを用いている、と考えるのです。
そのように踏まえた上で、アドラー心理学の治療では、その方がご自分の体験にどのような意味づけをし、それに基づいて、現在どう生きておられるのかについて焦点を当てます。そこから、これからどうすればより建設的な方向へ進めるかを、ご本人に寄り添って考えていくのです。
なお先述の通り、あるひとつの出来事がトラウマ事態として緊急的ないし慢性的な心理的危機を引き起こしている場合は、一般的にアドラー心理学によるカウンセリングの適応範囲にはありません。その場合『危機介入』の専門職など心理専門職の方の介入が優先されます。
アドラー心理学は、過去の原因探しに終始するのではなく、「これからどうしたいか」という未来の「目的」を明確にし、その目的達成のために現在の対処行動が適切かを検討した上で、「今ここで何ができるか」を具体的に話し合い、その実行を「勇気づける」ことで行動変化を促し、問題解決を目指します。
過去の原因が分かっても、それだけでは解決しないことが多いという実践的な立場から、アドラー心理学では原因探しに終始するのではなく、「これからどうしたいのか(目的)」を明確にし、その目的達成のために「今ここで何ができるか」に焦点を当てます。そのためアドラー心理学の臨床では、人生の課題に際しての対処行動が、どのような目的のもとでどのように行われているかを確認し、それらが目的や対処行動の仕方として適切であるかを検討したうえで、適切な目的に向かって実際に何ができるかを話し合い、そうした行動へと本人を勇気づけます。そこでは原因の代わりに、目的と未来に焦点を当てることで、具体的な行動変化を促し、問題解決を目指すのです。
アドラー心理学では、自覚がなくても行動には必ず「目的」があると考え、カウンセリングやエピソード分析を通じて具体的なエピソードにおける感情や行動パターンを分析し、その背景にある無意識的な信念や仮想的目標(=目的)への「気づき」を促すとともに、必要であればより建設的な新しい目的を見つけてそちらへ進むよう「勇気づけ」を行います。
アドラー心理学では、たとえ本人に自覚がなくても、すべての行動には何らかの「目的」があると考えます。ライフスタイル(ものの見方や行動パターンの全体)は、人生の早期に形成されますが、それは与えられた環境に「どのような意味を与え」、どのように「使用するか」という本人の無意識的な選択の結果です。アドラー心理学のカウンセリングやエピソード分析を学ぶグループワークでは、クライアントの実際のエピソードをもとに、そこでの本人の感情の動きや行動のパターンを分析し、背景にあるその人固有の信念や仮想的目標をクライアントとともに探求し、気づきを促します。そして必要に応じて、周囲にとっても本人にとってもより建設的といえる新しい目的(目標)を見つけ出し、その方向へと勇気づけを行うのです。
アドラー心理学では、後悔自体は自然な感情と認めますが、もし「あの時こうしていれば」といつまでもその気持ちに浸り続けている場合、それは「現在の困難から目をそらして何もしないこと」を正当化したり、周囲の「同情や援助」を求め続けたりするという、未来に向けた何らかの「目的」のためにその感情を用いている可能性があると考えます。
後悔という感情自体は自然なものとして認められます。しかし、後悔している出来事からすでに歳月が過ぎているにもかかわらず、いつまでも「あの時こうしていれば」とその気持ちに浸り続けているのなら、そこには何か別の「目的」が隠れている可能性をアドラー心理学は指摘します。つまり、「あの時違う選択をしていれば、今の苦労はなかったのに」と思い詰め、現在の困難をすべて過去のせいにして、今後も何もしないことを正当化していたり、周囲に「あの時の選択のせいで、こんなに私は不幸だ」と強調することで同情や援助を求め続けていたりする可能性があるのです。もしそうであれば、アドラー心理学のカウンセリングでは、その感情を未来への建設的な学びに変え、「これからどうするか」に目を向けるよう促すでしょう。
承認欲求の否定について
アドラー心理学は承認を得ること自体を否定するのではなく、承認を「行動の唯一の目的」とすることを問題視しており、真の貢献とは社会(共同体)に有益な行動を選択することだと考えます。
アドラー心理学の立場は、他者から承認されようとすることを、何もかも否定するわけではありません。人々を仲間だと思い、自分には人々の役に立つ能力があると思うなら、有益な行動を人々に申し出るのは道義的な行為とさえいえます。そして貢献の成果があり、それにより他者から承認・称賛を得られたとしても、何も問題はありません。成果を皆で喜べばいいと思います。
問題なのは、そのような称賛が自分の行動の目標のすべてになってしまった場合です。称賛という見返りのために誰かの役に立とうとするのなら、アドラー心理学でいうところの共同体への貢献とはいえません。そうではなく、共同体の一員として、これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろうと考えて、そこで共同体に有益な行動を選択することこそを、私たちは貢献と呼んでいます。
承認が行動の唯一の目標であれば、それが得られない時に自己肯定感が低下したり無気力になったりする可能性は高いと考えられますが、アドラー心理学は自己肯定感そのものを最上の価値だとみなしません。
人々から承認されないことで自己肯定感が下がったり、無気力になったりするケースもありえます。人々にたいする行動の唯一の目標が「他者からの称賛」であった場合には、称賛が得られなければ、ご指摘の通り自己肯定感が低下したり、無気力になったりする可能性は非常に高まります。なぜなら陰性感情とは、自分の期待を満たさない事態に遭遇した際に感じられる感情に他ならないからです。
アドラー心理学は他者からの承認を求めること自体を否定するわけではありません。共同体の一員として役立ちたいという自然な気持ちから行動し、その結果として感謝や承認を得ることは、何ら問題ありません。しかし、見返りとして称賛を受けることだけを目的に行動することは、アドラー心理学では健全な生き方とは考えません。それでは称賛を受けたときだけ行動し、称賛がなければ何も行動しないことになるからです。
なお、時々誤解がみられるため付け加えますが、アドラー心理学は自己肯定感を何よりの価値とするものではありません。自己肯定感だけを目指す生き方は、アドラーのいう自己執着のひとつとして、共同体感覚とは矛盾します。
褒められることを主目的にすると、褒めてくれる人の存在や褒められる物事に依存してしまい、個人の成長からは遠ざかると考えます。
褒められることを目標とするのではなく、人々に貢献する活動による成果や、そうした活動そのものに意味を見出すことが望ましいと考えます。活動の結果を褒められれば嬉しく感じるのは自然な感情といえますが、褒められることが主目的になると、褒めてくれる人が常に身近にいないと努力ができないか、あるいは、誰かに成果を褒めてもらえる物事しか行わなくなるでしょう。それでは個人としての成長からは、ほど遠いのではないでしょうか。
実践の難しさ・現実との乖離について
目的論は感情を「割り切る」ものではなく、アドラー心理学の実践では、その感情が対人関係で持つ「目的」を理解し、抑圧や発散とは異なる建設的な表現方法を学ぶことを目指します。
目的論は、「割り切る」ものではありません。それらの感情を含む実際の対人関係における行動が、いったい何を「目的」としているかを深く理解して、より建設的な表現方法や対処方法を学ぶことを目指します。アドラー心理学の学習では、グループワークやカウンセリングなどを通じて自分が対人関係のなかで「目的」としていることに気づき、そしてそれを感情的ではない方法で、落ち着いて相手に伝えるにはどうすれば良いかを学びます。感情を抑圧するのでもなく、かといってやみくもに発散するのでもなく、感情を用いることで自分が伝えようとしているメッセージが何であるかを理解して、これからの相手への行動の選択に役立てるのです。
もちろんそうした実践はたやすいものではなく、くりかえしの練習が必要ですし、自分ひとりで取り組むのは難しくもあります。そのため専門的な講座、あるいは学ぶ仲間が沢山いるアドラー心理学の自助会などが有用となるのです。
その他の疑問
自己受容は確かに厳しさを伴いますが、しかし自己受容を避けると達成不可能な目標を追い求めてしまったり何もかも自分で抱え込んだりなど、さらに厳しい道が待ち受けています。
完全ではない現実の自分を受け入れなければ、自分の能力の実際を見誤り、とうてい達成不可能な目標を追い求めてしまうかもしれません。そのような目標に向かって進もうとする日々は、かえって過酷なものとなるでしょう。また、自分の得意な面と不得意な面を正しく理解していなければ、困難な課題にみんなで協力して対処しなければならない場面で、自分からどのような協力ができるのか、あるいは自分に関してどのような配慮をお願いすればよいのかが分からなくなります。それでは適切な課題分担ができず、結果として、お互いが何もかもを自分で抱え込む結果となってしまいます。自分の「できていない」面を認めることは、たしかに大きなハードルに感じられるかもしれません。しかし、そのハードルを避けて通ろうとすると、さらに厳しい道が待ち受けているのです。
ちなみに自己受容の困難さの克服には、多くの場合、アドラー心理学でのカウンセリングやグループワークによる支援が有効です。ただし、その困難さがうつ病や不安障害などの精神疾患に根ざしてい場合は、医療機関への相談が必要となります。
劣等感などの陰性感情は、人間にとって普遍的かつ自然な感情ですが、劣等感をバネにすることが破壊的でなく有益な成長につながるかは、劣等感を契機とする行動とその目標が共同体にとって適切かどうかによります。
劣等感などの陰性感情は、本来、人間にとって普遍的かつ自然な感情といえます。怒りであれ悲しみであれ、それらは人が遭遇した課題つまり主観的に相対的マイナスである状況から、相対的プラスである目標へ向かうために生み出す、前向きな感情に他なりません。その意味では、人間は誰であれ「劣等感をバネに」動いている、ということができます。しかし、そこで向かおうとする目標が必ずしも適切なものとは限りませんし、それらの陰性感情をそのまま他者に向けることも概ね適切とは言えません。したがって「劣等感をバネに」進むことは、必ずしも人生に有益とはいえず、時として破壊的な結末を招くこともあります。行動の原因ではなく、そこで目標とするものや、状況への対処方法が適切であるかどうかが問われねばならないのです。
アドラー心理学では、目標や対処方法が共同体にとって有益かどうかという観点から、行動の適切さを判断します。劣等感を抱えながらやみくもに進むのではなく、劣等感を契機にしつつも、そこで共同体にとって適切な目標と対処行動を選択することで、はじめて人は共同体の一員として成長できる、と考えるのです。
