アドラー心理学の歴史

 アドラーの死から8年経って第二次世界大戦が終わったときには、ほとんどの後継者たちも死に絶えていました。多くのユダヤ人アドレリアンがナチの迫害の犠牲になってしまったのです。

 しかし、主としてアメリカに亡命していたアドラーの弟子たち(第2世代)を中心に、アドラー心理学は復興され現代化されました。なかでもシカゴに本拠をかまえていた弟子のルドルフ・ドライカース(Rudolf Dreikurs)は、多くの治療技法の開発を通じてアドラー心理学の実践性をいっそう高めました。同じく弟子のハインツ・アンスバッハー(Heinz Ansbacher)は、当時まだ十分に整備されていなかったアドラー心理学の基礎理論を、今日見るような形にまとめあげました。このおかげで、いま我々はアドラーの思想と理論と技法を学ぶことができるのです。

 ドライカースは精力的に全米を駆け回ってアドラー心理学の普及に努めました。ドライカースの弟子(第3世代)にあたるのが、バーナード・シャルマン(Bernard Shulman)、オスカー・クリステンセン(Oscar Christensen)、ハロルド・モザック(Harold Mosak)等です。またドライカースの娘のエヴァ・ドライカース・ファーガソン(Eva Dreikurs Furgason)は、毎年2週間のICASSI(国際アドラー・ドライカース・サマーセミナー)を各地で開催し続け、ヨーロッパにおけるアドラー心理学の復興に尽力しました。

 第2世代のアンスバッハーは人間学派でしたし、第3世代のシャルマンは現象学の影響を強く受けています。臨床心理学の歴史を概観するなら、1910年から1950年頃までは意識/無意識がテーマであり、1950年から1990年頃までは人間の行動と認知が主なテーマでした。ですからアンスバッハーやドライカースのまとめたアドラー心理学の体系は、時代の影響、おもに認知主義の影響が色濃く見られます。それに対して1990年代以降の第4世代アドレリアンたちは、多かれ少なかれポストモダン思想の洗礼を受けているといわれます。野田俊作はさまざまな思索の末、最終的には構造主義的な立場を選びました。

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