アドラーの物語と野田俊作の物語

アルフレッド・アドラーの物語

アドラーは生涯を通じて多くの人たちと共に学び、多くの人たちを育てました。『アドラーの思い出』(創元社)を読むと、多くの人に愛される人格者だったことがわかります。ですが一方で、アドラーに批判的でアドラーから離れていく人々もいました。転機は大きく3回あったと思われます。

・1902年からアドラーはフロイトのサークルに所属し、精神分析学会の会長を務めたこともあります。しかし、しだいにフロイトとアドラーの基本的な学説が相容れないことが先鋭化し、1911年2月にアドラーは少数の仲間と共に精神分析学会を離脱し、新たに個人心理学会を立ち上げました。その後も現在に至るまで、アドラー心理学はフロイト派からは、まがいもののフロイト心理学であるという非難を受け続けています。

・その後、自身のクリニックで多くの患者の治療をしながら、自らの理論の再構成と学派の組織化や執筆活動など、精力的な活動を続けました。1912年ウィーン大学医学部の講師に応募したのですが、最終的にはリジェクトされました。審査報告を書いたヴァーグナー・ヤウレックは、「アドラーが書いたものは、はたして自然科学の領域に属していると言えるだろうか。彼の研究の主要な方法的な道具は直観であり、才気あふれるものだが、才気あふれるだけでは自然科学者にとっては危険である」と回答しています。この批判から、アドラーは当初から人間を全体論的に捉えていたこと、そしてそれは自然科学の領域を踏み越えるものと見なされたことがわかります。この批判は、アドラー心理学は科学的というよりも道徳的・哲学的であるという、今日も一部に残る批判と共通しているように思います。

・第一次世界大戦の終盤、1916年にアドラーは軍医として精神科の病棟で兵士たちの治療にあたりました。1918年に戦争が終結した後、敗戦後の混乱やロシアのボリシェヴィキ台頭の中で、アドラーは共同体感覚という概念を提唱しました。アドラーは社会を動かすのはひとりひとりの心を変えることからだと考え、社会運動としてアドラー心理学を位置づけたのです。科学の領域にこのような思想性を打ち出したことによって、それまで共に学んでいた多くの人々は驚き、ついていけないと離れていきました。

いまだに権力陶酔に屈服していない人は問うべきであります。すなわち、いったいこのような道のかなたに人類の統一だの共同体感覚の強化だのが待っているのだろうかと。

われわれは、誠実で道をわきまえた古くからのロシアの友人たちが、目のくらむような高みに上り詰めたのを見ています。権力衝動にそそのかされて、彼らは暴力への要求をあらゆる場所で目覚めさせてしまいました。権力が最終的な言葉として語られてしまうような場所では、暴力の縮小はありえず、これまでのようにたださらなる拡張があるだけです。手段さえあれば暴力が使われるとき、共同体感覚の奇跡はただの思い出でしかなくなってしまいます。権力の使用でもってはそれはけっして実現することはないのです。

『Borschewismus und Seelenkunde』Alfred Adler(1989) 2008年6月野田訳

野田俊作の物語

野田俊作も生涯を通じて多くの人たちと共に学び、多くの人たちを育てましたが、野田に批判的で野田から離れていく人々も多くいました。そして、やはり転機も3回あったように思われます。

・アメリカから帰国後、1983年に自主的なアドラー心理学の勉強会を始め、1984年に日本アドラー心理学会を創設しました。そのときに中心となっていた仲間は精神科医や心理職、福祉職などの専門家たちでした。この頃は、アドラー心理学の理論を主とした学びを提供していました。しかし1986年に、日本アドラー心理学会が非専門家と専門家が共に学ぶ学会という方針を打ち出したとき、これまで共に学んでいた多くの専門家たちが野田のもとを離れていきました。野田は、クライアントと共に学ぶ、治療共同体という考え方を徹底しようとしたのです。

私がアドラー心理学の思想的な側面を前面に打ち出し、アドラー心理学を学問としてよりも思想としてとらえなおし、さらには大衆運動として位置づけたとき、初期の有力な生徒の多くは失望して去って行きました。彼らは何よりも『素人』と一緒に学ぶことにたえられなかったのでしょう。(1993年4月)

アドラーの治療理論(たとえば横の関係)とメタ理論(たとえば目的論)は、アドラーのパーソナリティと問題児とその親たちという対象との間の、オープン・カウンセリングという開放的交友的状況という治療構造から生まれてきたものであることを忘れてはならないと思うのです。(1988年8月)

・その後、1996年から数年間、他の団体でアドラー心理学の治療技術について誤った教え方をしていると判明したことを発端に、学会内で大きな論争が起こりました。野田ははっきりと、治療者はアドラー心理学の実践者でなければならないと主張しました。ですが、治療者にアドラー心理学の実践は必要なく、アドラー心理学の理論に基づいた治療技術を提供してクライアントを援助すればそれでよいのだと考える人々は、日本アドラー心理学会から退会し、野田のもとを離れました。

アドラー心理学のカウンセリングでは、いわゆる横の関係の達成を援助するために、積極的に助言をおこなう。その際、カウンセラーがすでにみずからの実生活において横の関係を達成していないとすれば、助言という行為自体が偽善に陥ってしまう。横の関係は、単に頭で理解されるべきものではなく、行為として実現されるべきものである。それは、言うはやさしくて、行うは至難である。実際、残念なことに、若干のアドレリアンは、口では横の関係を唱えながら、その実、強烈な縦の関係を作り出している。(1990年8月)

・2011年、これまで日本アドラー心理学会の主要な存在であった講師陣を中心とした人々が、野田のもとを離れていきました。この転機については、野田自身が振り返って語ることなく亡くなってしまいましたので、いま私たちから確定的なことは申し上げられません。しかし、この少し前から当時に至るまでの野田の研究を紐解いてみるなら、アドラー心理学についての野田の思想的・理論的な深まり、さらに技法の高度化が関係していることは、確かであるように思われます。

野田の思想的な問題意識は一貫して、アドラーの共同体感覚という思想を突き詰め、治療者自らが生涯かけて実践し続けることにありました。野田はそうした立場から、私たちの属する近現代社会とそこにおける思想・哲学を俯瞰し、躊躇なく言及を重ねました。ポストモダン思想やニヒリズムへの批判は激烈でさえありました。また理論的な深まりから、治療技術についても大きく進展がありました。より強力なカウンセリング技術であるエビソード分析、絶対的全体論・仮想論に基づくスピリチュアル・セラピーがその代表といえます。こうした歩みは、野田が初期に教えた事柄にこだわる人々には受け入れることができなかったのでしょう。この時期に野田のもとを離れた人々は、それらについて野田と学びを共にすることはありませんでした。

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