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課題の分離について
社会問題は、それ(問題)を生み出した側、結末が波及している側、対処できる側が一致しない特徴を持つため、「個人の課題」と片付けて責任を押し付けるのは理不尽であり、むしろそう片付けられないという認識が共有されているからこそ、「社会問題」と呼ばれるのではないでしょうか。
世の中で一般にいう「それは個人の課題だ」とは、課題を負うべきなのはその課題に遭遇した本人だ、という考え方を指すと思います。他方、アドラー心理学では、課題とは必ずしもそれに遭遇した人が負うべきものではなく、誰が責任を負うべきかは個々のケースによって異なる、と考えます。「課題の分離」における「誰の課題か」という問いは、誰がその課題に遭遇したかではなく、その課題に対処すべきなのは誰なのか、ということへの実際的な問いなのです。
しかも、ことに社会問題においては、それを生み出した側、その結末が波及している側、それに充分な対処ができる側が、おおむね一致しないという特徴があります。にも関わらず、そこで「それは個人の課題だ」と片付けてしまうのは、往々にして、自分がその問題を生み出したわけではなく、また対処のための充分な力も持っていない側に責任を押し付けてしまう点で、理不尽がすぎるというものです。むしろ、到底そのようには片付けられないという認識が広く社会で共有されているからこそ、その課題は「社会問題」と呼ばれているのではないでしょうか。
