アドラー心理学とは

 野田俊作によれば、アドラー心理学は「理論思想技法」の3つの側面から考えることができます。ここでは、理論と思想の中核となる概念をアドラー心理学の全体像のなかで説明するとともに、アドラー以外の諸理論、諸思想との差異を明確にします。また、代表的な技法について紹介します。

理論 (Theory)

〜 基本前提 (Basic Assumptions) 〜

 「理論」とは、アルフレッド・アドラーが臨床経験から洞察した、人間の精神活動に関するアドラー心理学独自の考え方です。それは人間がどのようにものを思い、どのように行動しているのか、を説明するための仮説であり、この「理論」の中核をアドラー心理学では「基本前提」と呼びます。

 基本前提は、「個人の主体性目的論全体論社会統合論仮想論」から成り立っています。

アドラー心理学は、基本前提(basic assumptions)とよばれる公理系の上に構築された理論である。基本前提は、経験から帰納された法則でもないし、何らかの方法で正当性ができるような定理でもない。それらは、アドラー心理学の諸原理を統一的に説明するために要請された理論的な仮説なのである。

(野田 1998年)

 なお、理論は人間行動全般を価値中立的に説明するものですから、ある人間の思ったことや言ったこと、行ったことなどを基本前提から説明できたからといって、直ちにそれらが正しいことにはなりません。むしろ、おおよそどのような人間行動でも説明できるのが、ここでいう「理論」なのです。アドラー心理学において私たちの人生の指針となりえるのは、後述するアドラーの「思想」です。

個人の主体性 (Subjectivity = Creativity)

 アドラーのいう「個人」は、精神をも身体をも含めた、生体の全体です。生体はひとつのシステムであって、システム全体を統括し主催する部分は存在しません。各部分が有機的に関係しあって、全体としての動きを作り出しています。その全体を仮に「個人」といい、「部分が個人を動かす」のではなく「個人が部分を動かす」という立場を取ります。

 アドラー心理学では、「個人」は分割できないひとつの全体であり、主観的に意味づけた世界(対人関係、社会)の中で、自分が定めた目標に向かって動こうとする存在と考えます。そうした「個人」をいつでも主語の位置において、人間の行動を捉えます。例えば「怒りが私に子供を叱らせた」と考えるのではなく、「私が怒りを使って子供を叱った」と考えます。

 このような考え方をすると、自分の行動の責任を感情など他の何ものかに負わせることができなくなるため、この理論を受け入れるにはある程度の勇気が必要になります。ですが、一度この理論を受け入れる事を選択すると、人は、人生を自分の責任で生きていく事ができるようになり、自分の人生の主人公として生きることができるのです。

 野田は「個人の主体性」を、他の4つの基本前提の基礎をなすアドラー心理学のもっとも根本的な仮説として捉えていました。

 アドラーは、「人が何を所有しているかを確かめるよりも、所有しているものをどう使用できるかを引き出すほうに心理学は関心を寄せるべきだ」と考えていました。「剣を所有していても、それだけでは剣を正しく使えるとはいえない」のです。そして、何を所有しているかに関心を寄せる心理学を「所有の心理学」、所有しているものをどう使うかについて考える心理学を「使用の心理学」と呼びました。

 アドラー心理学は「使用の心理学」です。自らの持っているものをどう使うかを、個人が主体的に選択決定して暮らしていると考えます。

目的論 (Teleology)

 人間を、目標に向かって主体的に生きていく積極的な存在という観点でとらえ、人間の行動にはすべて目的があると考えます。

 およそ生物は、マイナスの状況からプラスの状況に到達することを目標に活動します。人もそうです。ただ、一般的に生物は、個体の保存と種族の保存を目標に活動しますが、アドラー心理学では、人は社会的動物であるが故に、社会に所属することがより重要な目標となる、と考えます。さらに、「社会に所属するためには自分はどのようであらねばならない」という、主観的で仮想的な目標を個人がそれぞれ持つのであって、個人の行動は、様々な状況の中でこの(仮想的な)目標を実現させるための方法として行われる、と考えます。

 こうしたことからアドラー心理学では、人の行動を理解するためにはその人の目標(目的)を考えることが重要、という立場をとるのです。この考え方は臨床の場面で大変有用です。

 「人の行動にはすべて理由がある」というのが、20世紀の心理学に共通する考え方です。一見どんなに不合理に見える行動にも、筋の通った理由が見つけられると考えられています。一般的にはこの「理由」を「原因」としてとらえ、「人の行動にはすべて原因がある」と考える心理学が多いようです。このような考え方を「原因論」と呼びます。

 原因論を採用すると、視点が過去に向きます。過去は遡って変えることはできませんし、過去の何らかによって現在の行動が決められてしまうと考えるのは、「個人の主体性」と矛盾してしまいます。

 アドラー心理学は原因論でなく目的論を採用します。それにより、個人や社会が未来に実現したいイメージ(目標)を意識することができます。その目標を実現するための行動を個人は主体的に選ぶことができますし、また目標そのものを変えることも可能であると考えることができるのです。

全体論 (Holism)

 人間全体を統一体としてとらえ、個人を分割できないひとつの単位と考えます。さらに個人を、「社会」という、より大きな統一的な全体に組み込まれたものとみなします。

 アドラー心理学では、個人は身体も心も、理性も感情も、意識も無意識も、身体の諸器官もすべてを使って、ひとつの全体として目標を達成しようと行動している、と考えます。ですから、個人の中の内的な葛藤を考えません。個人を構成する要素は、一見対立しているように見えて実は、ある目標に向かって分業をしているのだ、と考えます。アドラーは「個人心理学の第一の責務は、この各個人の統一性を証明すること、すなわち、思考・感情・行動をつらぬく、あるいはいわゆる意識と無意識をつらぬく、さらにはその人格の全表現行動をつらぬく統一的不可分性を証明することである。この統一性を、我々はその個人のライフスタイルと呼んでいる」と言いました。

 そのような個人が所属する社会もまた、本来的には、個人が互いに協力しあい補い合い全体を構成している、有機的な人間の集まりであるとアドラー心理学では考えます。

 人間を全体として一つの単位とみなして研究しようとする立場を「全体論」といいますが、それに対して、人間を身体と心、理性と感情、意識と無意識、などといったように、部分に分けて、その各々の部分を研究しようという立場を「要素論」といいます。

 要素論は近代自然科学的な研究手法で、このおかげで我々は現在豊かで快適に暮らすという恩恵にあずかっています。しかしこの考え方は、使い方によっては人間を心のない機械と見なしてしまうことにつながりかねません。アドラーの提案した全体論的な人間や社会の見方は、行き過ぎた近代科学への歯止めとして、人間社会に希望をもたらすものと考えることができます。

社会統合論 (Social Embeddedness)

 個人を社会に組み込まれた存在であると考えます。そのため、個人の行動は社会的文脈の中でとらえてはじめて理解することができるという立場を取ります。

 アドラーは「ある個人に起こっていることがらを理解するためには、その人の他者に対する態度を考慮する必要がある。(中略)対人関係についての考察をぬきにしては、人間の精神生活を理解することはできない。」と述べています。個人は社会に組み込まれた「社会的動物」ですから、生きてゆくために、さまざまな場面で他者と協力することが必要になります。そこで、個人のあらゆる行動は対人関係上の問題の解決を目的としてデザインされ実行されるのだ、とアドラー心理学は考えます。

 それではその対人関係のありかたをどのように知るのか、というと、その人が実際に行っているコミュニケーションを観察することで知ることができる、と考えます。具体的には、日常生活で起きた対人関係的エピソードをもとに、ひとりひとり、ひとつひとつ、オーダーメイドの問題解決策を考えてゆきます。

 社会統合論の対になる概念は「精神内界論」です。これは、個人の行動を、その人をめぐる現在の対人関係の問題ではなく、その個人の精神内界の機能や構造の問題として捉えようとする立場です。これはともすると、個人を社会とのつながりから切り離された孤立した存在として捉える視点や、個人の中にのみ問題があるのだという視点につながります。

 実際には人を社会から切り離すことはできませんし、個人の精神内界を観察することはできません。社会統合論の立場で個人の行動の理由にアプローチすることで、その人が実生活で抱えている問題について実用的な代替案を考える事ができるのです。

仮想論 (Fictionalism)

 人間は主観的に意味づけられた世界に住んでおり、ありのままの環境を体験するのではなく、常に人間にとっての重要さに応じて環境を意味づけて体験すると考えます。

 人間は人生で課題に直面すると、自分自身の価値観(私的感覚private sense)に基づいて、その課題がどのようなものなのか、自分がどのような解決を目指すのか、そのためにどんな対処を適切とするかなどを、主観的に判断し行動します。私的感覚をもとにしているため個人の行動には独特のパターンがあるとアドラー心理学では考えており、そのパターンを「ライフスタイル」と呼んでいます。

 私的感覚そのものには本来、正誤、上下、優劣などはないのですが、個人が自分の私的感覚でもってものごとを判断しようとばかりすると、他者との摩擦を生み出しやすくなります。仮想論に従って、どの私的感覚もたくさんある価値観のひとつにすぎないのだという立場をとるなら、課題を解決するそのときどきに有用な価値観を採用することができるでしょう。

 人は客観世界を知りうるのか?という問いは、遠くギリシャ時代から現代まで、多くの哲学者・科学者の議論の的になってきました。アドラー心理学のとる仮想論は、人は客観世界を完全に知り得ない、とする立場です。この立場を「主観主義」と呼びます。主観主義に対立する立場は「客観主義」です。心理学の領域では、行動主義心理学や古典的なフロイトの精神分析学が客観主義に分類されています。

 アドラー心理学は、どのような価値も仮想であり相対的なものである、という立場をとりますが、しかしニヒリズム(虚無主義)とは異なります。アドラーは、個人が他者と共に社会に所属して暮らしていくために必要な価値観として、「共同体感覚」を提唱しました。これもまた仮想論からいえば唯一無二絶対的なものではない、と理解しながらもアドラー心理学は敢えて、心理療法やカウンセリングに欠かすことのできない価値的概念として「共同体感覚」を中核に据えます。

 多様な価値観を是とする現代の風潮にあってなお、人間が幸福に生命を営むためにはどう生きるべきかについて、アドラーは「共同体感覚」を通じて私達に問いかけ続けているのです。


思想 (Philosophy)
共同体感覚 (Gemeinschaftsgefühl)

今後とも新しいデザインの治療法が開発されるかもしれないが、アドラー心理学の枠組みの中で使われるかぎり、ライフスタイル論を含む基本前提という理論的要請と、共同体感覚の育成という思想的要請を満たすものでなければならない。(野田 2006年)

 共同体感覚はドイツ語で、Gemeinschaftsgefühl(ゲマインシャフツゲフュール)といいます。ゲマインシャフト(共同体)とは、社会学領域でF・テンニエスが規定した用語で、共同社会、血縁共同体と訳されることも多く、ゲゼルシャフト(利益社会、契約共同体)の対義語です。学問的な区分ですから、現実社会に100%純粋なゲマインシャフトやゲゼルシャフトが存在するわけではありません。ですが人間の集団は、基本的にはそのどちらかに区分できると考えられています。

 アドラーが想定するゲマインシャフトは、主として精神的な紐帯によって結びついた集団です。ゲマインシャフトはミクロに考えるなら私たちの目の前にいる人々、親子やきょうだい、親戚などです。マクロな視点からは伝統主義的な共同体全般を指し、さらにアドラーの高弟R・ドライカースは「より大きな共同体のことを考えなさい」と述べました。アドラーは、そうしたゲマインシャフトにとって善であるかどうかの判断、すなわち共同体感覚を、治療の根本に据えました。

 一般に心理学では、思想、すなわち人がどのように生きるべきか、ということを扱うものではないと考えられています。人がどのように生きているかを科学するのが心理学なのであって、生きる「べき」という価値判断を伴うものは科学でも心理学でもない、と広く考えられています。

 しかし、ことにアドラーの生きた19世紀終盤~20世紀初頭以降は、価値判断のないまま物質科学が劇的に発達した結果、大量殺戮のための兵器が作られ、また大衆の利害が、世の中がどうある「べき」かをないがしろにしたまま政治や経済を動かし、世界は多くの不幸に見舞われました。アドラーは、人を支配するための強力な道具となり得る心理学を、価値判断を伴わずに用いることは危険だと考えました。第一次世界大戦を軍医として目の当たりに体験し、さらにユダヤ人でもあった彼は、台頭する全体主義の暴力に危機を覚え、暴力のない世界を作るために、共同体感覚の育成が必要だという考えに至ったのです。ですから端的に言えば、アドラーの思想は社会への深い絶望から生まれた、近現代の思想潮流への強烈なアンチテーゼだといえます。

 中世は宗教が価値の基準でした。近代は理性の時代となり、デカルトは、人間は理性の力によって真理に到達できると信じました。さらに時代が下ってアドラーの生まれた19世紀半ばは、価値を決める基準が失われたニヒリズムの時代でした。そんな中でアドラーは、宗教を介さないところで、人類が共通の価値観を持つことができないかを考えたのです。ただし共通の価値観といっても、中世の神学のように、共同体感覚が絶対的な宇宙の真理だなどと考えていたわけではありません。むしろ、絶対普遍の真理は少なくとも直ちに知り得ない、と人間の理性の限界を認めた上で、できるだけ多くの人たちが賛同できるような価値基準として共同体感覚を提唱したのです。すなわち人々の暮らす共同体に対して建設的なことが善、共同体に対して破壊的なことが悪であるとする価値の基準です。野田はそれをわかりやすく「『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』と考えること」と表現しました。

 アドラーの提唱した共同体感覚という思想は、H・ファイヒンガーの唱える「かのように哲学」(仮想論)にも基づいていると考えられ、特定の理想を奉じるユートピア主義ではありません。ユートピア主義は、容易に他の価値観の人々を支配するディストピアを生み出します。共同体感覚を価値の基準とする以上、他人を支配せずに生きることを考えなければなりません。なぜなら、他人を支配することは共同体感覚とは逆の、「これは私にとってどういうことだろう。私がしあわせになるために私はなにをすればいいだろう」といった自己執着(アドラーの言うIch-gebundenheit)につながるからです。アドレリアンは、自分たちの価値観だけが正しいという考えを退け、善だと信じるある価値観が本当に広く共同体の役に立つのか、常に自らに問い直します。「不寛容に対して寛容であってはならない」とする共同体感覚は、非常に厳しい思想でもある、ともいえるでしょう。


技法 (Psychological Technique)

 アドラー心理学による治療や問題解決のためには、アドラー心理学の理論に沿った事例の分析が必要です。しかし理論だけを踏襲するのでは、アドラー心理学治療やカウンセリングとはいえません。「アドラー心理学は第一義的には思想であると確信している」と、アメリカのアドレリアン、R.コーシーニは言いました。アドラー心理学カウンセリングや心理療法の目標は、共同体感覚の育成です。そのために、何が問題として起きているのかを理論に沿って分析し、思想を指針に治療を進めます。

 思想と理論をひとまとめにしてAdlerian Theory(アドラー心理学の理論)と呼ぶ学者もいるように、アドラー心理学においては理論と思想とは切り離せないものです。一方で、技法は言ってみればツールの役割にあたります。そこでアドラー派の中には、他派の技法を取り入れて用いる治療者たちもいます。たとえ治療にどのような技法を採用したとしても、アドラー心理学の理論に沿って、共同体感覚の育成を目標に行われるなら、それはアドラー心理学のカウンセリングや心理療法といえる、というのが、古今東西のアドレリアンの共通認識です。

 とはいえ、アドラー心理学に特有の技法もあります。以下に、代表的なものを紹介します。

ライフスタイル分析 (Lifestyle Analysis)

 ライフスタイル分析は、アドラー心理学の心理療法です。アドラーはライフスタイルのことを「人生の運動の線」「人生目標とそれに向かう方法」などと述べました。ライフスタイル分析は主に神経症などの治療の領域で使われます。子どもの頃の家族布置やエピソード(早期回想)などをもとに、クライエントの私的意味づけ(劣等の位置と優越目標)や目標に向かう方法などを探していきます。

エピソード分析 (Episode Analysis)

 アドラー心理学のカウンセリングでは、日常生活で実際に起きたエピソードを素材として、そのエピソードを分析し、よりよい対処のしかた(代替案)を考えて行きます。ところが、エピソードの分析はもともと海外でドイツ語や英語で行われていたものですので、そのままのかたちでは日本語話者にとって扱いにくいところがありました。そこで、日本語でもアドラー心理学のカウンセリングが容易にできるように野田俊作が『エピソード分析』を開発しました。この方法はアドラー心理学の理論と思想を完全に踏襲していながら、伝統的なエピソードの分析法とは別の視点からエピソードにアプローチするものです。

 『エピソード分析』を取り入れることでカウンセリングの習得がしやすくなりましたし、各地の学習グループでも、カウンセリングに匹敵する問題解決案が考えられるようになりました。また『エピソード分析』は手順がはっきりしているので、分析を受ける側にとっても問題について筋道立てて考えることが容易になり、有用な洞察が得られやすくなりました。この方法に習熟すると、自分自身でも日常生活の中で応用することができるようになっていきます。

 『エピソード分析』は、「パセージプラス」、「アドラー心理学基礎講座」、「特殊講義と演習」などで学ぶことができます。

勇気づけ (Encouragement)

 「勇気づけ」は分類上「技法」とされていますが、実際は技法の枠には収まりきらない、アドラー心理学実践における主要概念です。アドラー心理学では治療、カウンセリング、育児、教育などなど、すべてのことが終始、この「勇気づけ」を土台にして行われます。アドレリアンであるということは勇気づけをして暮らすこと、といっても過言ではありません。

 ところで、一般に「勇気づけ」といえば、励ましたり優しくしたり、相手を明るい気分にしたり元気づけたりすることをイメージするのではないでしょうか。しかしアドラー心理学では、実は「勇気づけ」という言葉を独特の意味合いで使っているのです。ですから一見、相手にとって厳しい言葉や行動であっても、私たちのいう「勇気づけ」にあたることがありますし、逆に、一般的には勇気づけとして受け取られる言葉遣いなのに、それでは「勇気づけ」とはいえない、それは勇気をくじく行為だ、と考えることがあります。つまり「勇気づけ」とは、「こうするとよい」、「こう言えばよい」という特定の行動や声がけの仕方などをいうのではありません。

 ではいったい、アドラー心理学でいう「勇気づけ」とは、どんなことなのでしょうか。

 「勇気づけ」とは、相手が、より共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼ぶのです。そのため、「勇気づけ」は、まず自分自身が競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは、縦の関係を抜けて横の関係で生きる決心をすること、から始まります。

 たとえば育児プログラム『パセージ』では、テキストで示された「パセージの子育ての目標」に向かうよう子どもを援助することを「勇気づけ」と説明しており、そのための方法として、「子どもの話を聴く」ということや、「お願い口調」、あるいは「課題の分離」といった様々な技法を学びます。しかし「勇気づけ」のためお伝えしているこれらの技法であっても、もし仮に競合的な構えで使われるならば、実際には勇気づけとならないばかりか、その結果、かえって親子関係が悪くなる方向にさえ向かいかねません。そうではなくて、あくまで協力的な構えでこれらの技法を使ったときにこそ、はじめて相手への「勇気づけ」となる可能性が生まれてくるのです。

 また、『パセージ』をはじめ様々なコースや講座では、「勇気づけ」についてそれぞれ違った言い方で説明がなされます。ですが、たとえどのような説明がされたとしても、実際には「勇気づけ」は、言葉による知識だけから理解することができません。言葉で学んだ知識を実習や学習会でも確かめて、そこで得られたことを実生活でやってみて、相手との間で手応えを得ながら、腑に落として理解していくものなのです。なぜなら、「勇気づけ」とは自分の中の知識や心持ちだけにとどまらない、あなたと人々との関わり方が実際にどのようであるか、を示す言葉だからです。

課題の分離(”Whose responsibility?”)

 アドラー心理学では共同体のメンバーが遭遇した課題について、遭遇した本人が自分で対処するのに加え、必要があれば共同の課題として他のメンバーも協力して対処しようと考えます。ただしそのためには、その課題が本来、誰のどのような課題であるのかが、あらかじめ明確でなくてはなりません。そうでないと誰がどう取り組んで、そこへ誰がどのように協力すればいいのかが分かりませんし、その点を間違えれば、良かれと思い行ったことが相手や皆のためにならなかったり、そればかりか、害を与える場合さえあります。

 たとえば、子どもが学校で出された宿題をすることは、子どもが知的にも人間的にも成長するため必要な、子ども自身の課題に他ならないはずです。にも関わらず、そこで親が顔色を変えて、まるで自分に出された宿題のように率先して取り組んでしまえば、それは子どもの成長に、つまり子どもがこれからの人生で出会うであろう様々な困難に対して、自分自身で責任をもって取り組めるようになるために、はたして役立つのでしょうか。子どもの立場に視点を置いて将来にわたって考えてみると、むしろ逆効果といえそうです。しかしこれは、ことに日本では大いにありがちな話ですね。

 皆で協力しあうならばその予備段階として、まず、遭遇した課題がいったい誰の、どのような課題であるのかを確認することが必要であり、この作業のことを「課題の分離」と呼びます。次に、それらを弁えたうえで、誰かの協力がそこで必要か、周囲が実際にできることは何かについて本人と話し合います。これが「共同の課題」をつくる段階です。そうして、その個人の課題をそのまま個人の課題としておくか、それとも「共同の課題」とするのか、「共同の課題」にするならばどこをどのように分担するかを、たとえば親と子の、共同作業で決めます。野田はしばしば、「『課題の分離』は『共同の課題』をつくるための準備だ」と言っていました。「課題の分離」は「共同の課題」をつくることとあわせて、はじめてアドラー心理学の技法といえるのです。

 「課題の分離」は、日本的ともいえる集団主義的な傾向が強い人々の間でも、アドラー心理学の技法が安全に利用できるように開発された、臨床上の予備的な技法にあたります。野田俊作が育児プログラムを開発する際に、ドライカースのアイデアに基づいて開発しました。もっとも、ドライカースはこれについて「誰の責任かを明らかにし本来あるべき人の手にゆだねる」べきだという語り方をしており、子どもの負うべき「責任」にポイントを置いています。野田俊作は日本での教育や子育ての状況を考慮して、そこから「誰の責任か? Whose responsibility?」を「誰の課題か」、すなわち「課題の分離」に翻案しました。

 多くの場合、子どもの責任で解決すべき問題に勝手に手を出して解決してしまうのは、家庭では親、学校では教師といえます。これは必ずしも日本に限った話ではないようで、ドライカースも、たとえば “Mind Your Own Business” という言い方で同じことを言っています。ただ欧米は概ね個人主義的ですから、普段から物事の責任が誰にあるか自覚的であろうとする文化があり、そのため、心理技法としての「課題の分離」は特に必要とされません。アドラー心理学以前から「課題の分離」があらかじめ日常生活に浸透し、定着しているといった言い方もできます。しかし日本では、責任については曖昧にするのが大人のやり方だ、あるいは実際よりも建前上の責任を優先する、といった文化があります。世の中が安定する効果を考えれば、それはそれで美徳といえるかも知れませんが、残念ながら、課題の理性的解決と個人の成長にとっては必ずしもプラスとはいえません。

 AIJの育児コースでは、「課題の分離」について実践的かつ丁寧にお伝えしています。

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