アドラー心理学Q&A

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こじれたコミュニケーションの5つの段階

アドラー心理学では、子どもの不適切な行動を、単に罰するのではなく、その背景にある「所属(居場所)」を得ようとする目的(賞賛・注目・権力争い等)を理解しようとし、それはしばしば大人との「こじれたコミュニケーション」の現れであると捉えます。

アドラー心理学では、子どもの不適切な行動(問題行動)に対して、その行動自体を罰したり禁止したりするのではなく、背景にある理由を理解しようと努めます(ただし、他者に危害が及ぶなど緊急避難が必要な場合は、その限りではありません)。

子どもが不適切な行動をする理由はいくつも考えられますが、R.ドライカースは、子どもがこうした行動を人びとの間に居場所(所属)を得る目的で起こすことがあると考え、これらの行動とその目的を以下の4段階に分類しました。

  • 注目・関心を引く
  • 権力争い
  • 復讐する
  • 無能力を誇示する

その後、野田をはじめとする多くの現代の研究者は、上記の最初の段階として

  • 賞賛を求める

という項目を追加しています。

それぞれの段階における基本的な対応は、それらの行動とは別の建設的な方法で所属を得ることができると子どもに学んでもらえるよう、親や周囲の大人、あるいは専門家などから勇気づけを行うことです。

ただし注意しなくてはならないのは、ある子どもが上記の段階のうちのいずれかの振る舞いを見せたとしても、別の場所や異なる相手に対しては、全く違う振る舞いをすることが少なくないという点です。ドライカースは各段階での子どもの行動とその目的を「子どもの行動の誤った目標」と呼びました。しかし野田は、この呼び方では、親などの大人の「子どもの行動がこのように不適切(=私の判断は適切)」だという受け止め方を招き、子どもを一面的にかつ一方的に裁くことにつながりかねないと懸念したのです。

野田は、ある大人に対して子どもがそうした振る舞いをするのは、その大人と子どもの間に、そのようなコミュニケーションの構造があるからだと指摘します。この5つの段階についても、「こじれたコミュニケーションの5つの段階」として説明しました。つまり改善すべきなのは、親と子どもの競合的なコミュニケーションのあり方であって、その一環として、子どもにも建設的な所属の仕方を学んでもらうのです。したがって、そこで学ぶべきなのは子どもだけではありません。

なお、不適切な行動の理由は、ここで述べたコミュニケーションの問題以外にも考えられます。たとえば発達段階の途上で、何が不適切な行動かを知らない場合。不適切だと知っていても、どうすればよいか分からない場合。あるいは、障がいを原因とする様々な困難を抱えている場合などです。これらの要因を除外した上で、はじめてこの「こじれたコミュニケーションの5つの段階」を検討していくことになります。

「賞賛を求める」とは、こじれたコミュニケーションの第一段階で、子どもが「褒められない自分には価値がない」という考えから、賞賛されることによって集団内の居場所を得ようと「適切な行動」をとる状態であり、賞賛が得られなくなるとその行動をやめてしまうため、その行動自体ではなく他の貢献的な行動に注目して勇気づける必要があります。

こじれたコミュニケーションの5つの段階(子どもの不適切な行動の目的)、その第一段階が「賞賛を求める」です。子どもは大人(特に親や教師)に褒められることで集団の中に居場所を確保しようとして、「適切な行動」をとろうとします。つまり、「褒められない自分には価値がない」という考えに基づいているため、これはすでに勇気がくじかれた状態と捉えられます。ここで注意すべきは、子どもが適切な行動そのものではなく、それによって賞賛されることを重視しているという点です。

こうした子どもの行動は、表面上は不適切な行動に見えません。大人は当初、こうした行動に喜びなどの陽性感情を抱き、褒めてあげたいと感じるものです。しかし、子どもが繰り返し賞賛を求めてくると、次第にそれを煩わしく感じるようになっていきます。そして、子どもは賞賛が得られなくなると、ただちに適切な行動をやめてしまいます。子どもを褒めて育てる場合の弊害がここにあります。しかし、だからといってここで単純に褒めるのをやめてしまったり、あるいは子どもが競争に負けるなどして賞賛を得られなくなったりすると、次の段階の行動に移行してしまう可能性があるのです。

ここでの対応として重要なのは、子どもが賞賛のために行っている行動を褒めるのではなく、その子が意識せずに行っている共同体への貢献的な行動に注目することです。その子自身が「(褒められなくとも)自分には価値があり、ここに居場所がある」と感じられるよう、援助していくことが求められます。

「注目・関心を引く」とは、不適切な行動の目的の第二段階で、良いことや普通のことでは注目されず価値がないと感じた子どもが、いたずらや騒ぐといった困った行動をわざと行うことで、たとえ怒られてでも「無視されるよりマシ」と大人の関心を引こうとする状態です。

子どもの不適切な行動の目的、その第二段階が「注目・関心を引く」です。これは、子どもが良いことで注目されない、あるいは普通にしていても注目されないと感じたときに、悪いことや困った行動をすることで、大人(特に親や教師)の関心を引こうとする行動です。例えば、わざといたずらをする、大声で騒ぐ、ふざけるといった、大人の側でうるさく感じられ、つい介入したくなるような行動がこれにあたります。注意をすると子どもはその行動をいったんやめますから、大人の方はイライラしますが本気で腹は立ちません。

ここで子どもは「自分には良いことができないし、普通にしていても誰にも見てもらえない。こんな自分には価値がない。」と感じているので、これもまた勇気がくじかれた状態といえます。このような状態にあっては、「無視されるよりは怒られる方がまだマシ」なのです。

ここまでの段階では、子どもはまだ比較的肯定的な注目を求めているため、大人からの適切な関心や承認、そして勇気づけを通じて、より建設的な方法で所属を得るように促すことができます。適切な行動に対して注目しつつ、不適切な行動に対して注目しないという関わり方が基本となります。ただし、単に無視したり罰したりするだけでは、注目によって居場所を得ようとする子どもの目標は達成されません。子どもは自分には価値があるとますます思えなくなって、さらに次の段階の行動に進んでしまう可能性があります。 

「権力争い」とは、不適切な行動の目的の第三段階であり、注目を得ても居場所がないと感じた子どもが、特に罰や強制を用いる大人に対して「勝たないと価値がない」と考え、反抗的な態度やルール破りによって自分の力を示そうとする状態を指します。

不適切な行動の目的、その第三段階が「権力争い」です。前の段階である「不適切な行動で注目・関心を得る」を試みても、所属が得られないと感じたり、自分には価値があると十分感じられなかった場合にこの段階に進みます。つまり、大人が子どもの行動をコントロールしようと罰を用いたり強制したりした場合に現れやすくなります。子どもは、大人に勝たないと自分には価値がなく、自分の居場所がないと感じます。そこで大人に対して反抗的な態度をとったり、指示に従わなかったり、わざとルールを破ったりすることで、自分の力を示そうとします。

この段階は、大人の側では腹立たしく感じられますが、だからといって正論や力で押さえつけようとすれば、子どもの抵抗はさらに強まり、いわゆるケンカに陥ってしまいます。重要なのは、コミュニケーションが権力争いの形になってしまったことに気づいたら、その争いから降りることです。もしどうしても感情的になる場合にはその場を離れ、冷静になってから改めて話し合うことが大切です。その際には、大人が自分の意見を言う前に、相手の話を裁かず十分に聞くこと。そして、子どもの行動の適切な側面を探したり、子どもはそもそも何を解決したかったのかを考え、そのために大人が協力できることはないか相談したりすること。これらが、こじれたコミュニケーションを改善するために重要となります。

「復讐する」とは、不適切な行動の目的の第四段階であり、それまでの段階(賞賛・注目・権力争い)で所属感を得られず大人に傷つけられたと感じた子どもが、自分を傷つけたと認識する相手に対し、物を壊したり嘘をついたりするなど意図的に相手が嫌がることをして仕返ししようとする状態を指します。

不適切な行動の目的、その第四段階は「復讐する」です。これは、第一段階「賞賛を求める」、第二段階「注目を得る」、第三段階「権力争い」といったいずれの行動でも、所属感や自分には価値があるという感じが持てず、大人から傷つけられたり、不当な扱いを受けたと感じたりした場合に現れます。子どもは、直接的には相手に勝てないと悟ると、間接的な方法で相手を傷つけようと試みます。つまり、自分を傷つけたと認識している相手に対し、意図的に相手が嫌がることや困ることを仕掛け、仕返しをしようとするのです。例えば、物を壊す、嘘をつく、陰湿ないじめをするといった行動です。非行に走ったり、神経症的な症状を出す事もあります。

この段階の子どもは深い絶望感や憎しみを抱いていることがあり、その場合、罰や叱責はもちろん、普通に話しかけることさえ、かえって復讐心を煽るだけとなります。大人の側も深く傷つくことの多いこの段階は、もはや当事者どうしでは解決できません。そのため、こじれたコミュニケーションは、一つ前の「権力争い」の段階で止めておく事が極めて重要となります。この復讐の段階では、第三者であるカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入が必要になります。あるいは第三者でこの子どもと良好な関係を築いている大人がいれば、その方の援助を仰ぐ方法があります。

「無能力を誇示する」とは、不適切な行動の目的の第五段階であり、それまでの段階(賞賛・注目、権力争い、復讐)でも所属感が得られず自分に全く価値がないと深く絶望した子どもが、あらゆる建設的な努力を放棄し、「自分は無価値だから放っておいてくれ」という態度を示す状態を指します。

不適切な行動の目的、その第五段階は「無能力を誇示する」です。これは、それまでの段階(賞賛・注目、権力争い、復讐)を経ても所属している感じが得られず、自分には価値がまったくないと感じている状態を指します。何をしても無駄だと深く絶望し、あらゆる建設的な努力を放棄してしまい、「自分は無価値で役に立たないんだから、あきらめてほっといてくれ」という態度を示すのです。極端な場合には、犯罪を繰り返したり、深刻な精神的症状によって入退院を繰り返すといった状態に至ることもあり、親の側としてもそうした行動に絶望してしまうことは少なくありません。

この段階にある子どもへの対応は極めて難しく、家庭内での働きかけよりも、専門的なトレーニングを受けたカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入、あるいは医師による診断と治療、またはその両方が不可欠となります。

「不適切な行動に注目せず、適切な行動に注目する」とは、不適切な行動には怒りや不安といった感情で対応せず冷静に話し合い、適切な行動には単に褒めるのではなくその背景にある人としての望ましい成長の芽生えに注目して心から喜び、その喜びを分かち合う「共同作業」としての関わり方を指します。

「不適切な行動に注目しない」

はじめに強調しておきますが、多くの人が誤解しがちなこの言葉の意味は、「子どもの不適切な行動に対して、怒りや不安といったネガティブな感情で対応しない」という点にあります。決して、子どもを無視したり、見て見ぬふりをすることではありません。

アドラー心理学では、感情は「思考」をもとに生じると考えます。たとえばある出来事に対して「これは大変だ」「許せない」と考えると、そこで、不安や怒りといった感情が湧き上がってくるのです。そして親(あるいは教師)がそのような陰性感情(ネガティブな感情)を持っていると、子どもを勇気づけることはできず、建設的な話し合いもできません。怒りに任せて叱っても、あるいは冷たく子どもを無視しても、問題はこじれるばかりです。なぜなら、そうした感情的な関わり方こそが、子どもの不適切な行動への「注目」に他ならないからです。

ここで、理性的に関わることが重要となるのです。まず普段から、親自身が子どものよいところやよい思いをさがすなどをして、子どもの行動を別の見方で捉えられるようになる必要があります。子どもについてそのように見、そのように考えることが出来てこそ、子どもの不適切な行動に際して感情的にならず、冷静に「その行動は適切ではないと思うよ」「どうしてそうしたのか話してくれる?」と問いかけ、対話することができるのです。もちろんそうした関わり方は、不適切な行動に注目することにはあたりません。

しかし、物事の捉え方(その物事への意見、意味づけ、考え方)を変えることは簡単ではありません。なぜなら、人が物事を捉える際には、その人独特の、凝り固まった価値観を基準としているからです。物事の捉え方を変えるためには、まず自分独特のものの見方を知ること、そして、そうした自分の物の見方以外にも、他の見方もできるかもしれない、と考えてみることが大切になります。そのようにできて初めて、実際の子どもとのコミュニケーションのなかで落ち着いて子どものよい意図を探し、よいところを見つけ、そこで子どもに何を学んでもらいたいかを考えて、冷静に対応できるようになるのです。

とはいえ、その場でどうしても感情的になってしまうこともあるでしょう。そのようなときには、陰性感情をぶつけて関わるより、文字通り「注目せず」に、距離を置く方が賢明です。つまり、その場を離れて冷静になる工夫をするのです。ただしこれは、あくまで一時的な経過措置にすぎません。離れたままになるのではなく、大切なのは、冷静になったあとで子どもの話に耳を傾け、必要であれば話し合うことにあります。

「適切な行動に注目する」

こちらも同様に、単に「良い行い」を見つけて褒めることとは異なります。そのような対応は、いくつかの危険性をはらんでいます。例えば、普段勉強しない子がたまたま勉強した時に「偉いね」と褒め続けると、子どもにとって「褒められること(ご褒美)」が目的になってしまうかもしれません。それでは、親が褒めなくなれば行動をやめてしまい、子どもは勉強をする本来の意味を理解する機会を失ってしまいます。

では、何に注目するべきなのでしょうか。注目すべきは、子どもの個々の行動の良し悪しではなく、子どもの成長、すなわち「人として望ましいあり方」の芽生えなのです。

アドラー心理学が考える育児の最終目標は、《共通感覚》と《共同体感覚》を持った人間に育てることにあります。

《共通感覚》
現在暮らしているその社会(例えば日本)で、良しとされる常識や価値観のこと。例えば「正直」「勤勉」「親切」といった徳目や、伝統的に受け継がれている様々な作法や美意識などは共通感覚にあたります。
《共同体感覚》
社会(共同体)にとってよいことを善とする考え方。自分とは様々な点で違っている他者と、どちらが上/下、優れている/劣っているなどを争うのではなく、お互いに協力しあって「自分も相手も幸福になるにはどうすればよいか」を考える視点です。

これらの目標をしっかりと持ち、子どもの日々の行動の中に、目標に結びつく成長を見つけた時に心から喜び、その喜びを子どもと分かち合うこと。これこそが、「子どもの適切な行動に注目する」ことなのです。例えば、「勉強した」という行動そのものに注目するのではなく、その背景にある「何かを知ろうとする姿勢」や、「将来、社会の役に立ちたいという思い」に気づき、それを喜ぶのです。そうした意味で、日常の中で「いまどんな本を読んでいるの?」「どんなことに関心があるの?」「どんな勉強してるの?」などといったように、子どもが関心を持っていることに親も自ら関心を持つことは、適切な行動への注目に結びついていきます。

アドラー心理学の育児は、「子どもをコントロールする技術」ではありません。親自身がまず、子どもにどう育ってほしいかという明確で建設的な目標を持たなくてはなりません。その上で、子どもの行動の中に、その目標につながるものを見つけたときに喜び、子どもが何かしら困難を抱えたときには、どうしたらよいかをともに考え、目標に向かって少しずつ歩を進めていきます。将来、子どもが社会に出たときに、周りの人びとと力を合わせて問題を解決していけるように、工夫を重ねていくのです。そのように、親子が共に成長していく「共同作業」こそが、「不適切な行動に注目せず、適切な行動に注目する」という言葉に込められた、アドラー心理学の深いメッセージなのです。