生涯 – アドラー心理学の正統と独創

 野田俊作(1948~2020)は大阪大学医学部医学科を卒業後、一般内科医を経て精神科医として心理療法を学ぶ過程でバーナード・シャルマン(2018年11月没)の『精神分裂病者への接近』に出会ったといいます。シャルマンの技術の背後にアドラー心理学の理論があることを知り、1982年にシカゴのアルフレッド・アドラー研究所に留学しました。ハロルド・モザック(2018年6月没)からアドラー心理学の理論を学び、同時にセント・ジョセフ病院にて日常的にシャルマンのスーパービジョンを受け、臨床場面でのアドラー心理学をあまさず吸収しました。

 たぶんちょうど十年前の1982年には、私はシカゴ・アルフレッド・アドラー研究室にいた。そこでは、研究所の講義とは別に、バーナード・シャルマン先生の個人授業を受けていた。研究所での講義は系統的なものでもありよく工夫もされてもいたが、正直言って、渡米までに本で学んだこと以上のものはなかった。これに対して、シャルマン先生から学んだことは、すべて目新しいことばかりであった。しかも、言葉で学んだことよりも、先生の治療やスーパービジョンの方法を見ることによって、生きた知恵を学ばせていただいたことが大きかった。

 ただ、ひとつ困ったことがあった。それは、先生が指導料を請求なさらないことであった。(中略)先生は、「私には何もお礼をしなくていい。私が教えたことを、日本人に伝えてくれれば、それで十分だ」とおっしゃった。そのときは気がつかなかったが、今にして思えば、これは高くついた。先生から受けた学恩を金銭で先生にお返しするなら、それで一応は精算が済む。ところが、日本人に行為で返すとなると、一生かかるではないか。こうして私は、アドラー心理学を日本に伝えることで、シャルマン先生への負債を返済しなければならなくなってしまった。

 こうなると、不便なものは、私はいつでも『正統』でいなければならないということである。私が伝えるものは、私の理論ではなくて、シャルマン先生から習ったアドラー心理学でなければならない。また、生徒さんたちは、私が教えるものをアドラー心理学であると理解するから、みだりに私の独創を交えるわけにゆかない。すくなくとも、何が私の独創で、何が本来のアドラー心理学かを、はっきりと区別して伝えなければならない。これは猛烈に窮屈なことである。しかし、この十年、私は極力そうしてきた。いくらかは私が新たにつけ加えた概念もないではないが、これらは、私がつけ加えたものであることを、自分でも意識し人にもそう言ってきた。これは、私の独創性を誇るためではなくて、むしろ正統論からの逸脱を認めるためである。(1992年3月)

 シャルマンとの約束を果たすべく、1983年に小さなアドラー心理学の勉強会を開始し、1984年に有限会社アドラーギルドと日本アドラー心理学会を設立しました。さまざまな講座を開発し、『オルタナティブ・ウェイ』(現『アドラー心理学を語る』シリーズ)などを執筆しました。野田の著した『パセージ』と『パセージ・プラス』は、日本におけるアドラー心理学に基づく育児と教育の指針となっています。また人脈を駆使して海外の著名なアドレリアンを招き、人々に紹介しました。一方で日本アドラー心理学会の会長、指導者、編集長、事務局長を兼任し、資格認定や総会での研究発表・論文発表を行いました。その後、日本アドラー心理学会は一般社団法人となって野田の手を離れましたが、精力的な研究・教育・普及活動は病に倒れる寸前まで続けました。

シャルマン先生と 2008年 リトアニア・ヴィル二ウス国際学会にて
シャルマン先生と 2008年 リトアニア・ヴィル二ウス国際学会にて


 このように、日本におけるアドラー心理学は野田俊作から始まったと言っても過言ではありません。野田はシカゴで学んだすべてを、1)個人の主体性、2)目的論、3)全体論、4)社会統合論、5)仮想論の5つの基本前提理論と、共同体感覚の思想と、ライフスタイル分析の技術としてまとめあげました。それらを「基礎講座」「カウンセラー養成講座」「練成講座」という形にして正統的に伝え続けました。そうして生涯をかけてアドラー心理学を広く一般の人々に普及させ、アドラー心理学の供給者を育成するための教育活動もまた行いました。

 その一方で、心理学の内外からの新しい考え方や技法を取り入れ、アドラー心理学をより学問的に深化させていきました。独自の理論的発展は、仏教との比較研究(1990)、絶対的全体論(2000)、ペルソナ理論(2002)、認知論から仮想論への転換(2004)、構造主義的なアドラー心理学解釈(2013)などがあげられます。思想的には、西洋思想の大きな潮流の中でのアルフレッド・アドラーの思想的立場にいつも立ち返り、最晩年まで思索を続けました。

 技法的には、海外に遊学するたびに新しいことを学び、すぐにそれを人々に還元しました。解決志向的治療デザインやスピリチュアル・セラピー(2006)、チューリッヒ・シートに基づくライフスタイル分析(2007)を経て、アルゴリズムに即した新しいカウンセリング技法として「エピソード分析」を開発(2012)しました。この「エピソード分析」により、自助グループで学ぶ一般の学習者が、専門的教育を受けたカウンセラーと同じ方法で相互に援助し合って問題解決できるようになりました。最晩年はこの技法を洗練させることと、その効果を検証することに力を注ぎました。

たぶん2011年だと思うが、対処行動から出発してエピソードを読み解く方法を開発した。それから5年間で、こんなに多くの人がその技術を習得され実用化されているのを見せていただいて、涙が出るほど嬉しい。バーナード・シャルマン先生をはじめとする恩師たちに恩返しができた心地がする。(2016年10月)


 2017年暮れから体調を崩し翌年2月に脳悪性リンパ腫が発見されました。退院後は最期の瞬間まで自宅で過ごし、2020年12月3日、実父の命日に永眠しました。

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