「認知論」は、なぜ近年「仮想論」と呼ばれるようになったのですか。

Category: 基本前提

「認知論」という言葉が固定的な信念を想起させがちなため、主観的な現実は社会的文脈の中で動的に構成されるというアドラー本来の思想をより正確に表す、彼自身の用語「仮想論」が再び重視されるようになりました。

アドラー自身は “fictionalism” という用語を使用していましたが、「認知論(cognitive theory)」は彼の死後、特にルドルフ・ドライカースらによってアドラー心理学に導入されました。「認知論」はアドラーの思想を簡潔に伝える上で分かりやすい面があったものの、個人が不変の「信念」を内面に持っていて、それに基づいて世界を解釈し行動している、といったような印象を与えがちでした。

しかし、1990年代以降の学問的潮流が「認知主義」から「構築主義」へと移行していくのにともなって、個人の性格や思考もまた、固定的なものではなく、周囲との関係性の中で絶えず「作り直されていく」と考えられるようになりました。この影響を受けてアドラー心理学でも、そもそもアドラー自身が強調していた、個人の主観的現実が社会的文脈の中でダイナミックに構成される側面を重視するようになりました。そのため、アドラーが「人は意味づけの世界に生きている」として述べたこの考え方について、「認知論」よりもむしろ、アドラー自身の使っていた「仮想論(fictionalism)」という言葉をあてるように戻す動きが大きくなってきました。

「仮想論」の根底には、ハンス・ファイヒンガーの『かのように』の哲学があります。アドラーはこの影響を受け、人間は客観的な現実そのものではなく、現実に対して自らが与えた「意味づけ(フィクション、仮想)」、すなわち主観的に「こうであるかのように」と捉えた「仮想」の世界に生きていると考えました。この「私的意味づけ」が私たちの行動や感情を方向づけるため、「仮想論」はこの「意味づけの世界に生きる」という人間のあり方を基本前提として捉え直そうとするものです。関連して、認識の偏りを指す従来の「認知バイアス」も、アドラーが本来用いた、より能動的な外界把握を意味する「統覚バイアス」という言葉に戻すのがよいと野田は考えていました。