アドラー心理学(Individual Psychology, Adlerian Psychology)とは、オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラー(Alfred Adler 1870~1937)が創始した心理学の体系をいいます。
野田俊作によれば、アドラー心理学は「理論・思想・技法」の3つの側面からとらえることができます。ここでは、理論と思想の中核となる概念を、アドラー心理学の全体像のなかで網羅的に説明するとともに、アドラー以外の諸理論、諸思想との差異を明確にします。また、代表的な技法について紹介します。
理論 (Theory)
〜 基本前提 (Basic Assumptions) 〜
アドラー心理学理論とは、アルフレッド・アドラーが臨床経験から洞察した、人間の精神活動に関するアドラー心理学独自の考え方です。それは、人間がどのようにものを思い、どのように行動しているのか、を説明するための仮説であり、この理論の中核を、アドラー心理学では「基本前提」と呼んでいます。
基本前提は、「個人の主体性・目的論・全体論・社会統合論・仮想論」から成り立っています。アドラーの没後、アドラーに直接学び、彼の人となりや想いを身近に知っていたアドラー派の心理療法家たちが、遺された膨大な言葉と、生前の彼の治療方法を受け継ぎました。彼らの手によりアドラー心理学の体系化が進められるなかで、アドラー心理学ならではの数々の特徴が抽出されました。そのうち、臨床理論の根幹をなすものが、これら5つの基本前提です。各基本前提は互いに他の基本前提と密接に関係しあい、アドラー心理学の理論的側面を構成しています。
アドラー心理学は、基本前提(basic assumptions)とよばれる公理系の上に構築された理論である。基本前提は、経験から帰納された法則でもないし、何らかの方法で正当性が証明できるような定理でもない。それらは、アドラー心理学の諸原理を統一的に説明するために要請された理論的な仮説なのである。
(野田 1998年)
なおここでいう理論とは、人間行動全般がどのようで「ある」かを、価値中立的に理解するためのものです。したがって、たとえ各基本前提から、他の人間や自分自身など、ある人の思ったことや言ったこと、行ったことなどが充分に説明できたとしても、それを根拠に、その人の考えや言動が正しいことにはなりません。むしろ、おおよそどのような人間行動であれ、つまり正しい行動だろうと当たり前の行動だろうと、あるいは奇妙な行動だろうと間違った行動だろうと、そのすべてを的確に理解・説明できるのがアドラー心理学理論なのです。
また、以下に説明する各基本前提は、人間にとっての義務や規範、あるいは理想を示すものではありません。つまりたとえば、人は主体的に他人に左右されず生きるべきだ、明確な目的を設けそれを自覚して生きるべきだ、思うところと言動を一致させ全力で努力すべきだ、社会や対人関係の一部としてルールに従い行動すべきだ、自分の世界観をもって生きるべきだ、などといったような考え方を、アドラーが理論として提唱したわけではありません。各基本前提は、人がそのようにある「べき」ものとして誰かに求めたり、振りかざして誰かを評価したりするためのものではないのです。
そうではなくて、人は自ずと、主体的で、目的論的で、全体論的で、社会統合論的で、仮想論的である、すなわち人は常に、自分自身でどのようなつもりでいようとも、その人全体として社会的な文脈上の仮想的目標に向かって自ら動く、そのように考えることで人間行動全般が理解・説明できる、と考えるのがアドラー心理学理論です。アドラー心理学において、人がどのようにある「べき」かといったような、私たちの人生の指針となりえるものは、これら理論ではなく、後述する共同体感覚に基づいたアドラーの「思想」です。
個人の主体性 (Subjectivity = Creativity)
アドラーのいう「個人」は、精神をも身体をも含めた、生体の全体です。生体はひとつのシステムであって、システム全体を統括し主催する部分は存在しません。各部分が有機的に関係しあって、全体としての動きを作り出しています。その全体を仮に「個人」と呼び、「部分が個人を動かす」のではなく「個人が部分を動かす」という立場を取ります。
アドラー自身は、アドラー心理学のことを「個人心理学 Individual Psycology」と呼んでいました。Individualとは、集団に対する個人、あるいは単に人という意味ですが、語源はラテン語のindividualis(一つであって分割できない)に由来します。アドラー心理学における「個人」も、分割できないひとつの全体を意味します。そのような「個人」が、自らが主観的に意味づけた世界(対人関係、社会)の中で、自分の定めた目標に向かって自ら動く、すなわち、個人は主体的に動く、と考えます。そのためアドラー心理学では、「個人」をいつでも主語の位置において、人間行動全般をとらえます。例えば、「子供が私を怒らせた」「怒りが私に子供を叱らせた」と考えるのではなく、「私が怒りを使って子供を叱った」と考えるのです。
この「個人の主体性」について、個人が主体的というのなら私が何をしたって勝手だ、その結果どうなろうと私には関係ない、などとする、誤ったアドラー心理学解釈が世の中にみられるようです。それは全くの、真逆の解釈といわねばなりません。個人は自ずと主体的に動くのですから、自分の行動の責任はまず自分自身にあるのであって、他者や感情などの他の何ものかに、その責任を負わせることはできません。そのため、「個人の主体性」が自分自身に当てはまるものと納得するには、いくらかの勇気を必要とします。これに基づけば、自分の言動や行動に無責任ではいられなくなるからです。しかし、この基本前提を受け入れることで、人は自分の人生の主人公として生きていけるようになります。人生とは、自分の責任で一生をかけて描く、自分ならではの創造物となるのです。
野田は「個人の主体性」を、他の4つの基本前提の基礎をなす、アドラー心理学のもっとも根本的な仮説として捉えていました。
アドラーは、「人が何を所有しているかを確かめるよりも、所有しているものをどう使用できるかを引き出すほうに心理学は関心を寄せるべきだ」と考えていました。そして、所有しているものをどう使うかについて考える心理学を「使用の心理学」”psychology of use”と呼び、そのように考えない心理学については「所有の心理学」”psychology of possession” と呼びました。ここでのpossessionという言葉には、憑依されている、という含意があります。つまり「所有の心理学」とは、個人が何かに取り憑かれている、たとえば「個人が症状に/疾患に/環境に/本能に/無意識に/欲求に取り憑かれて所有されている」といった考え方を指します。
そうした考え方に基づけば、個人の治療のためには、まず、取り憑いて個人を所有している(かのようにみえる)何ものかを分析しなければなりません。たとえば、何らかの欲求が患者を動かしているようにみえるなら、その欲求がどのようなものであるかを分析し、確かめるのです。
しかし個人の主体性の観点からすれば、そもそも、何かが人に取り憑いて所有し動かしたりするなど、到底考えられません。仮にそんな風に見えたとしても、それは個人が何かに所有されてそうなっているのではなく、個人が主体的に、自分が所有している特定の何ものかを大事にしている、あるいは自らそれに執着している、と考えます。したがって、「取り憑いている」ものを確認することは、結果的には、所有しているものがいったい何であるか確かめるだけにとどまって、肝心の、その人がそれらをどのように使用しているかを見ていない、つまり「症状を見て人を見ない」ことに他ならないのです。
目的論 (Teleology)
人間を、原因に動かされるだけの消極的な存在としてよりも、目標に向かって主体的に生きていく積極的な存在という観点でとらえ、人間の行動にはすべて目的があると考えます。
目的論について調べると、アドラー心理学でいう目的論以外のものに行き当たることが少なくありません。まず近代以前に広く信じられていた、人間をはじめとする万物にはあらかじめ固有の目的が定められている、といった宿命論のような考え方があります。また近年は、人間は行動にあたり常に明確な目的を設定して合理的、効率的に動かねばならない、といったような考え方を目的論と呼ぶ場合もあるようです。しかしアドラー心理学でいうところの目的論は、そのどちらでもありません。
およそ生物は環境のなかで、マイナスの状況からプラスの状況に到達することを目標に活動します。人間もその例外ではありません。ただ一般に生物は、個体の保存と種族の保存を目標に活動しますが、アドラー心理学では、人は社会的な動物であり、社会を通じて自分たちの保存を実現しているが故に、個人にとっては、社会に所属することこそが生物学的保存よりも重要な目標になると考えます。さらにそれぞれの個人は、「社会に所属するためには自分はどのようであらねばならないか」といった仮想的な目標を、自ら意識的ないし無意識的に持つのであって、個人の行動は、この仮想的な目標を様々な状況の中で実現させるための手段として行われる、と考えます。個人は社会のなかで、原因に動かされるのではなく、目標に向かって自ら動くのです。
こうしたことからアドラー心理学では、人の行動を理解するためには、その人の目標(目的)を考えることが重要、という立場をとります。この考え方は臨床の場面で大変有用です。
「人の行動にはすべて理由がある」というのが、20世紀以降の心理学に共通する考え方です。一見どんなに不合理に見える行動にも、筋の通った理由が見つけられる、というものです。一般的には、この「理由」を「原因」としてとらえ、「人の行動にはすべて原因がある」と考える心理学が多いようです。このような考え方を、「原因論」と呼びます。
原因論を採用すると、行動の原因は、過去に求めることになります。そこで、過去に向かって辿っていくと、原因はすぐに何通りも見つかるはずです。単なるきっかけなども見つかるかも知れませんが、往々にして、間違いなく原因といえるものも幾つも見つかります。行動の原因が複合的であることは少なくないからです。ところで、見つかったそれらの原因は、果たして最終的な、決定的な原因でしょうか。それらひとつひとつにも、さらなる原因があるのではないでしょうか。これこそが決定的な原因、といえるものを見つけるためには、さらに過去に溯りながら因果関係を詳細に確認しなくてはなりません。
しかしながら、そうやって溯っていくなかで、私たちはとても沢山の数の原因に行き当たってしまいます。因果関係を辿るたびにネズミ算方式で増えるのですから、どうしてもそうなります。さて充分に昔まで溯ったとして、それらの中からいったいどうやって決定的な原因を特定すればいいのでしょうか。証拠や証言と突き合わせればいいでしょうか。しかし、なにしろ昔のことですから、それらが充分に揃うでしょうか。
原因論は、準備された科学実験の中でならいざ知らず、生きた人間に適用し、実生活・実社会上で確認すると、以上のような困難に直面します。しかも、たとえこれという原因が特定できたとしても、それらはもう過ぎ去ってしまったものであり、変えることも、とりのぞくこともできません。私たちが変えることができるのは、現在に繋がる過去ではなく、これからに繋がっていく現在なのです。しかしながら、原因論に基いて考えれば考えるほど、私たちの現在の状態はたくさんの原因と複雑に結びついて、がんじがらめになっているように見えます。そこからいったいどうやって、私たちのこれからを改善する解決策を導き出せばいいのでしょうか。
アドラー心理学では原因論でなく、目的論を採用します。つまり「人の行動には目的がある」と考えます。ここでいう「目的」とは、自覚されたものであろうとなかろうと、現在その人が自ら選んでいるところのもの、すなわち意識的あるいは無意識的に、その人が主体的に選び取っている目的(目標)のことを指します。そのため目的論では原因論で考える際のように、たまたま本人を動かした可能性のある膨大な選択肢を、隅から隅まで検討する必要はありません。アドラー心理学では、個人が人生を通して持ち続ける目標は基本的にはひとつで、状況によって、その目標に関連して様々な個別の目的を持つと考えています。したがって、個人の行動の理由については、その人にとっての主観的・仮想的な目的(目標)に絞り込んで、それらをひとつひとつ丁寧に確認していけばいいのです。
また目的とは、過去のものではなく、まさに現在から未来にかけて達成しようとしているものです。そのような実現したい目標やイメージを、個人やその周囲が明瞭に意識できるようになれば、その目標を実現するための行動は、自ら、より理性的に選べるようになります。行動をより主体的に、より善い行動へと変化させることができるのです(後述しますが、アドラー心理学では共同体感覚に基づく行動を「より善い」行動と考えています)。しかも、もし必要があれば、未来に向かって目標そのものを変えることも可能です。このように、目的論に基づけば、個人の行動の理由をより素早く的確に見つけることができ、個人は自分の人生により主体的に関与できるようになり、また周囲からも一層援助を行いやすくなるのです。
全体論 (Holism)
人間全体を統一体としてとらえ、個人を分割できないひとつの単位と考えます。さらに個人を、「社会」というより大きな統一的な全体の中に有機的に組み込まれたものとみなします。
アドラー心理学では個人について、身体も心も、理性も感情も、意識も無意識も、身体の諸器官もすべてを使って、ひとつの全体として目標を達成しようと行動している、と考えます。ですから個人の中の、内的な葛藤を考えません。個人を構成する要素は、互いにたとえ対立しているように見えたとしても、実はある目標に向かって分業をしているのだ、と考えます。アドラーは「個人心理学の第一の責務は、この各個人の統一性を証明すること、すなわち、思考・感情・行動をつらぬく、あるいはいわゆる意識と無意識をつらぬく、さらにはその人格の全表現行動をつらぬく統一的不可分性を証明することである。この統一性を、我々はその個人のライフスタイルと呼んでいる」と言いました。
ただしアドラー心理学では、個人の内側ではなく外側での葛藤、つまり対人関係上の葛藤が存在することは認め、臨床でも、いわゆる対人関係での悩みに加えて、過去から現在に至るまでの他者との意識的・無意識的な葛藤を扱っています。もっとも、そうした対人関係や社会についても、全体論的な観点から、個人はただ対立し合っているだけではなく、お互いに役割を分担しながら補い合ってそれらの全体を構成している、といったようにもとらえます。したがって葛藤に関しては必ずしも不可避なものではなく、生じた場合も適切に対処すれば解決可能である、と考えます。
人間を全体として一つの単位とみなして研究しようとする立場を「全体論」といいますが、それに対して、人間を身体と心、理性と感情、意識と無意識などといったように部分に分けて、その各々の部分を研究するとともに、一人の人間全体としての行動を、それら各部分の働きと、その相互作用からとらえようとする立場を「要素論」といいます。つまりたとえば、ある人の行動は、その人の中で理性と感情が互いに葛藤することによって決まる、と要素論では考えます。
要素論は近代自然科学的な研究手法で、このおかげで我々は現在豊かで快適に暮らすという恩恵にあずかっています。また、人間に様々な器官とその機能があること、それらの働きの変化によりその人全体の状態に変化があらわれること自体は否定できません。しかし、人間はきわめて複雑なシステムのため、一要素である器官の状態や特定の相互作用から、その人全体の変化までを一意に予測することは困難です。要素論は、主として人間の局在的な症状とその原因を取り扱う医学の領域では有効ですが、基本的に人間全体にアプローチしようとする心理学の領域ではその本領を発揮できないとアドラー心理学では考えます。
社会統合論 (Social Embeddedness)
個人を社会に組み込まれた存在であると考えます。そのため、個人の行動は社会的文脈の中でとらえてはじめて理解することができるという立場を取ります。
アドラーは「ある個人に起こっていることがらを理解するためには、その人の他者に対する態度を考慮する必要がある。(中略)対人関係についての考察をぬきにしては、人間の精神生活を理解することはできない」と述べています。人間は、さまざまな対人関係に組み込まれていて、それらの対人関係もその周囲の社会に組み込まれていて、それぞれの社会はさらに広い社会の中に組み込まれている、といったように複雑で多様な社会を築きながら暮らしている「社会的動物」です。私たちが生きてゆくためには、さまざまな場面で、他者と関わり合う必要があります。野生動物たちが自然環境の中で生まれ、暮らしているのに対して、人間は対人関係や社会の中で生まれ、そこで暮らしているのです。そのため、野生動物たちの行動が生き残ることを目的に行われているように、個人のあらゆる行動は、それがたとえ唐突な全く脈絡のない行動にみえたとしても、常に、対人関係上の問題の解決を目的としてデザインされ実行されているのだ、とアドラー心理学は考えます。
それでは、ある個人を理解するために、その人をめぐる対人関係のありかたをどのように知るのか、というと、実際に行っている他者とのコミュニケーションを観察することで知ることができる、と考えます。アドラー心理学の臨床では、日常生活で起きた対人関係的エピソードをもとに、ひとりひとり、ひとつひとつ、オーダーメイドの問題解決策を考えてゆきます。
社会統合論の対になる概念は「精神内界論」です。これは、個人の行動を、その人をめぐる現在の対人関係に関連してではなく、その個人の精神内界の機能や、その構造の問題から生じたものとしてとらえようとする立場です。
しかし、実際には人を対人関係や社会から完全に切り離すことはできませんし、そもそも、個人の精神内界を直接観察することはできません。にも関わらず、個人の行動をそのようなものとしてとらえることは、ともすれば、個人と社会とのつながりを考慮せずに、ただ個人の中にのみ問題があるのだとする視点につながりかねません。そうではなく、社会統合論の立場から個人の行動の目的を社会的な文脈から考えることで、その人が実生活上で抱えている問題の代替案について、実際的に取り組む事ができるのです。
仮想論 (Fictionalism)
人間は、ありのままの環境を体験するのではなく、環境を意味づけて体験すると考えます。私たちは、自分自身の価値観(私的感覚private sense)によって主観的に意味づけらた「仮想 Fiction」の世界のなかで、「仮想 Fiction」をよりどころに暮らしているのです。
私的感覚は人が成長するなかで身につけた価値観で、人によって様々です。私的感覚それそのものには、絶対的な正誤、上下、優劣などはないと考えます。人間は人生で課題に直面すると、自分の私的感覚に基づいて、その課題がどのようなものなのか、自分がどのような解決を目指すのか、そのためにどんな対処を適切とするかなどを主観的に判断して、やはり人によって様々な、「仮想」を形成します。「仮想」はあくまで私的感覚をもとに作られるため、実際の課題解決のうえで不都合が生じる場合があります。また、人がこれらの「仮想」を用いて課題に対処する仕方には、その人ならではの独特のパターンがあるとアドラー心理学では考えており、そのパターンを「ライフスタイル」と呼んでいます。「ライフスタイル」もまた、人それぞれで異なります。
ところで、私たちは社会の中に組み込まれた存在ですから、文化や知識を他の人々と共有しつつ、共通の言葉やシンボルを用いて暮らしています。「仮想」においても然りで、私たちそれぞれが持つ「仮想」が人によって異なるといっても、他の誰のものとも全く似ても似つかない、ということはありません。限られた範囲ながら、私たちは他者の「仮想」を理解でき、それに基づいて課題の解決に向け行動をともにすることができ、さらに、話し合いを通じて「仮想」をより多くの経験が反映された一層有用なものにすることができます。
しかし、普段暮らしている社会や属する文化、思想・信条などが大きく異なればどうでしょうか。また身近な同士でも、価値観が対立することは少なからずあるでしょう。そんなとき、私たちは互いに衝突したり、競い合ったりするしかないのでしょうか。もし、自分自身の「仮想」のみが唯一の現実であり、あるいは唯一の目指すべき先や唯一の解決策だと思っていたら、そうなるかもしれません。ですが、お互いが「仮想論」に基づいて、そもそもどの私的感覚もたくさんある価値観のひとつにすぎず、したがって様々な「仮想」がありえると理解していれば、私たちは課題への対処にあたって落ち着いて理性的に話し合うことができ、おそらくそこで有用な価値観を採用することができるでしょう。
人はすべての主観を排して客観世界を知りうるのか?という問いは、遠くギリシャ時代から現代まで、多くの哲学者・科学者の議論の的になってきました。アドラー心理学のとる仮想論は、人は客観世界を完全に知り得ない、とする立場です。他方、これに対する立場として例えば「客観主義」があります。こちらは文字通り、あくまで客観世界のあり方に基づいて物事をとらえようとする立場です。心理学の領域では、行動主義心理学や古典的なフロイトの精神分析学が客観主義に分類されています。
アドラー心理学は、どのような認識だろうと価値だろうと、仮想であり相対的なものである、という立場をとりますが、この考え方は、人は全く何も知り得ないとする不可知論や、誰もお互いに全く分かり合えない、あるいはいかなる価値も無価値だとするニヒリズム(虚無主義)などとは異なります。またアドラーは、個人が他者と共に社会に所属し暮らしていくため必要な価値観として「共同体感覚」を提唱しましたが、これも理論的には人類にとって唯一無二のものではありません。しかしアドラー心理学では、そのように踏まえながらも、あえて価値的概念として「共同体感覚」を心理療法やカウンセリングの中核に据えています。
思想 (Philosophy)
共同体感覚 (Gemeinschaftsgefühl)
今後とも新しいデザインの治療法が開発されるかもしれないが、アドラー心理学の枠組みの中で使われるかぎり、ライフスタイル論を含む基本前提という理論的要請と、共同体感覚の育成という思想的要請を満たすものでなければならない。(野田 2006年)
共同体感覚という言葉は、少し謎めいて聞こえます。しかし、だからといって、そうした名前のオカルティックな、第六感のような感覚があるわけではありません。仙人や聖人しか身につけることのできないような、隠された特殊な能力などではないのです。
共同体感覚とは、アドラー心理学の基本のひとつであり、アドラーの思想・哲学の根幹をなしている、アドラー心理学固有の価値判断の仕方です。これについてアドラーは、「生得的な可能性」だと述べています。したがって共同体感覚は、そのつもりがあれば誰にでも学ぶことができ、身につければ、普段の生活や人生の大事な局面で役立てることができます。ただし、アドラーはその一方で、共同体感覚は「意識的に育成されるべき」である、とも言いました。つまり共同体感覚は、学ばなければ身につかないものであり、たったひとりで学ぶのが困難なものでもあり、しかも、学んでもつい忘れてしまいがちなものでもあります。また理由は以下に述べますが、もし学んだとすれば胸に密かにしまっておくべきものではなく、むしろ世の人々に広められていくべきものなのです。
共同体感覚は、ドイツ語ではGemeinschaftsgefühl(ゲマインシャフツゲフュール)といいます。この言葉の後半のゲフュールは英語でのFeeling、つまり感覚を指します。そして前半のゲマインシャフトは、ドイツ語で社会を意味する言葉のひとつで、ここでは共同体と訳しています。ゲマインシャフトは社会学領域でF・テンニエスが規定した用語でもあり、その場合には共同社会、血縁共同体と訳されることも多く、対義語はゲゼルシャフト(利益社会、契約共同体)となります。ゲゼルシャフトという言葉もドイツ語で社会を意味するため、私たちからすると両者は少々紛らわしいですが、平たく言えば、人々の人間同士としての結びつきがゲマインシャフトで、契約に基づいた社会組織がゲゼルシャフトにあたります。これらは概念的な区分ですから、現実社会に100%純粋なゲマインシャフトやゲゼルシャフトが存在するわけではありません。ですが、人間の集団は基本的にはそのどちらかに区分できる、と考えることができます。
このようにアドラーの言うゲマインシャフトは、主として精神的な紐帯によって結びついている集団を指しています。具体的には、ミクロに考えるなら私たちの目の前にいる人々、親子やきょうだい、親戚などを、マクロな視点から考えると社会における伝統的な共同体全般を、最大規模では過去から未来にわたる人類すべてを指す言葉となります。残念ながら全人類をひとつの共同体と呼ぶのは実際のところ難しい点がありますが、しかしそれでも、アドラーは人類ないし人間一般の共同生活について繰り返し語りました。また、アドラーの高弟R・ドライカースは共同体感覚に関して、「より大きな共同体のことを考えなさい」と説明しました。アドラーは、ゲマインシャフトを社会的・歴史的(空間的・時間的)な拡がりがあるものとして想定し、ものごとがそうした共同体にとって善であるかどうかの判断を共同体感覚と呼び、治療の根本に据えました。したがって共同体感覚とは、身近な人々への愛情や仲間意識に発するものでありながら、より大きな視点からの判断に向けて、人々に成長を促すものなのです。
ところで現代では、心理学とは、思想すなわち人がどのように生きるべきかといった領域を扱うものではないとされています。人がただ、どのように生きているか、を科学するのが心理学なのであって、私たちがどう生きていく「べき」か、という価値判断を伴うものは、科学でも心理学でもないと考えられています(ちなみに、科学におけるそうした批判的合理主義を提唱したのは、アドラーのもとで当時の児童相談所で働いていたカール・ポパーその人でした)。
ですが、アドラーの生きた19世紀終盤~20世紀初頭以降という時代には、価値判断から開放されたと称する物質科学が劇的に発達した結果、大量破壊のための兵器が作られ、また大衆のむき出しの利害が、世の中がどうある「べき」かをないがしろにしたまま政治や経済を動かして、その結果、世界は数多くの不幸に見舞われました。人類を幸福にするはずだった物質科学とそれに伴う価値観が、大勢の人々を死に至らしめ、社会においては人間疎外を推し進めたのです。第一次世界大戦の悲惨を軍医として目の当たりに体験したアドラーは、人を支配するための強力な道具となり得る心理学を、何が善いことであるかという一切の価値判断を伴わないまま用いることは、かえって危険だと考えました。
その意味でアドラーの思想は、社会と歴史の現実への深い絶望から生まれた、近現代の思想潮流へのアンチテーゼともいえます。その昔、かつて中世においては、宗教が唯一の価値の基準でした。近代に下るとうってかわって理性の時代となり、デカルトは、人間は理性の力によって真理に到達できると信じました。しかしアドラーの生まれた19世紀半ばは、それらかつての価値基準が行き詰まってしまったニヒリズム(虚無主義)の時代であり、その後、反動として全体主義が台頭しつつありました。そうした中、ユダヤ人でもあったアドラーは、宗教やイデオロギーが介さないところで、人類が共通の価値観を持つことができないかを考えたのです。
共通の価値観といっても、たとえば中世神学でいわれた最高善のような、絶対普遍の真理として共同体感覚を考えたわけではありません。むしろ、少なくとも人は絶対的な真理を直ちに知り得ない、と人間理性の限界を認めた上で、できるだけ多くの人たちが賛同できるような価値判断の方法として、共同体感覚を提唱したのです。すなわち、人々の暮らす共同体に対して建設的であり、貢献的であることが善、共同体に対して破壊的なことが悪であるとする、きわめて簡潔で、実践的な価値観です。野田はそれをさらにわかりやすく、「『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』と考えること」と表現しました。
なおここでいう「みんな」とは、身近な人々はもちろんのこと、できるだけ多くの、より様々な人々を指す言葉です。ともに、より大きな共同体に所属していながら、他の場所で暮らす人々、今を生きる私たちだけでなく子孫や後の世代の人々、私たちに様々なものを遺してくれた先祖や遠い昔の人々までをも含む、「みんな」のことです。そのような「みんな」を信頼し、尊敬し、互いに協力し合ってともに課題に対処しながら建設的、貢献的に暮らしていこうとするのが、この共同体感覚という思想です。
共同体感覚という思想は、H・ファイヒンガーが唱えていた「かのように哲学」(仮想論)にも影響を受けていると考えられ、特定の人間だけで特定の理想のみを信奉し実現しようとするユートピア主義ではありません。ユートピア主義は、容易に他の価値観の人々を支配するディストピアを生み出します。共同体感覚を価値の基準とするのなら、他人を支配せずに生きることを考えなければなりません。なぜならば、他人を支配しようとすることは、共同体感覚とは正反対の、「これは私にとってどういうことだろう。私がしあわせになるために私はなにをすればいいだろう」と考えて行動する、自己執着(アドラーの言うIch-gebundenheit)に他ならないからです。
アドレリアン(アドラー心理学実践者)は、自分たちの価値観だけが正しいに違いないという考えを退け、善だと信じている価値観が本当に広く共同体の役に立つのかを、繰り返し自らに問い直します。他者への寛容を基調としながら、「不寛容に対して寛容であってはならない」とする共同体感覚は、一面、非常に厳しい思想でもある、ともいえるでしょう。
技法 (Psychological Technique)
アドラー心理学による治療や問題解決のためには、アドラー心理学の理論に沿った事例の分析が必要です。しかし理論だけを踏襲するのでは、アドラー心理学治療やカウンセリングとはいえません。「アドラー心理学は第一義的には思想であると確信している」と、アメリカのアドレリアン、R.コーシーニは言いました。アドラー心理学カウンセリングや心理療法の目標は、共同体感覚の育成です。そのために、何が問題として起きているのかを理論に沿って分析し、思想を指針に治療を進めます。
思想と理論をひとまとめにしてAdlerian Theory(アドラー心理学の理論)と呼ぶ学者もいるように、アドラー心理学の臨床において理論と思想とは切り離せないものです。一方で、技法は言ってみればツールの役割にあたります。そこでアドラー派の中には、他派の技法を取り入れて用いる治療者たちもいます。しかし、たとえ治療にどのような技法を採用したとしても、アドラー心理学の理論に沿って、共同体感覚の育成を目標に行われるなら、それはアドラー心理学のカウンセリングや心理療法といえる、というのが、古今東西のアドレリアンの共通認識です。
とはいえ、アドラー心理学に特有の技法もあります。以下に、代表的なものを紹介します。
ライフスタイル分析 (Lifestyle Analysis)
ライフスタイル分析は、アドラー心理学の心理療法です。アドラーはライフスタイルのことを、「人生の運動の線」「人生目標とそれに向かう方法」などと述べました。ライフスタイル分析は主に、神経症などの治療の領域で使われます。子どもの頃の家族布置やエピソード(早期回想)などをもとに、クライエントの私的意味づけ(劣等の位置と優越目標)や、目標に向かう方法などを探していきます。
エピソード分析 (Episode Analysis)
アドラー心理学のカウンセリングでは、日常生活で実際に起きたエピソードを素材として、そのエピソードを分析し、よりよい対処のしかた(代替案)を考えていきます。しかしながら、こうした分析はもともと海外で、ドイツ語や英語で行われてきたものですので、そのままのかたちでは日本語話者にとって扱いにくいところがありました。そこで、日本語でもアドラー心理学のカウンセリングが容易にできるように、野田俊作が技法『エピソード分析』を開発しました。この方法は、アドラー心理学の理論と思想を完全に踏襲しつつも、伝統的なエピソードの分析法とは別の視点からエピソードにアプローチするものです。
この『エピソード分析』を取り入れたことで、学習者はカウンセリングの習得がしやすくなりましたし、各地の学習グループでは参加者同士の話し合いのなかでカウンセリングに匹敵する問題解決案が考えられるようになりました。また、『エピソード分析』はその手順がとてもはっきりしており、分析を受ける側からも分析の過程が分かりやすいため、問題について自ら筋道立てて考えることが容易になり、有用な洞察が得られやすくなりました。この方法に習熟すれば、カウンセリングの場だけでなく、日常生活の中でも自分自身で応用できるようになっていきます。
『エピソード分析』は、「パセージ・プラス」、「アドラー心理学基礎講座」、「特殊講義と演習」などで学ぶことができます。
勇気づけ (Encouragement)
「勇気づけ」は分類上「技法」とされていますが、実際は技法の枠には収まりきらない、アドラー心理学実践における主要な概念です。アドラー心理学では治療、カウンセリング、育児、教育などなど、すべてのことが終始、この「勇気づけ」を土台にして行われます。アドレリアンであるということは勇気づけをして暮らすこと、といっても過言ではありません。
ところで、一般に「勇気づけ」といえば、励ましたり優しくしたり、相手を明るい気分にしたり、元気づけたりすることをイメージするのではないでしょうか。しかしアドラー心理学では、実は「勇気づけ」という言葉を、独特の意味合いで使っているのです。そのため、相手にとって厳しいようにも思われる言葉や行動であるのに、それが「勇気づけ」にあたる場合がありますし、逆に、一般的には勇気づけとして受け取られそうな言葉遣いであるのに、アドラー心理学では、それでは全く「勇気づけ」とはいえない、それは勇気をくじく行為だ、と考えることがあります。そればかりか、たとえ相手にかけている言葉が同じでも、状況や声をかける側次第で、それが勇気づけであったり、なかったりするのです。まずここで言えることは、「勇気づけ」とは「こう言えばよい」「こうするとよい」といったような、特定の声がけや行動の仕方などをいうのではない、ということです。
では、アドラー心理学でいう「勇気づけ」とは、いったいどのようなことなのでしょうか。
「勇気づけ」とは、相手が、より共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。つまり、ある働きかけが、働きかけられた相手において、人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼ぶのです。しかし人は、誰かから特定のものの言い方をされただけで、そのような気持ちになったりするわけではありません。「勇気づけ」は、まず働きかける側が自分から、人々との競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは、縦の関係を抜けて横の関係で生きる決心をすること、ここから始まります。そのような側からの働きかけこそが、相手への「勇気づけ」となるのです。
たとえば、アドラー心理学の育児プログラム『パセージ』では、テキストに示されている『パセージの子育ての目標』に向かうよう子どもを援助することが「勇気づけ」である、と説明されており、そのための具体的な方法として、「子どもの話を聴く」ということや、「お願い口調」という話の仕方、あるいは「課題の分離」といったような様々な技法を学びます。しかし、「勇気づけ」のためお伝えしているこれらの技法であっても、仮に、相手に対する競合的な構えで使われるならば、勇気づけにはならないばかりか、かえって親子関係が悪くなる方向にさえ向かいかねません。あくまで、協力的な構えでこれらの技法を使ったときにこそ、はじめて、相手への「勇気づけ」となる可能性が生まれてくるのです。
また「勇気づけ」については、AIJの『パセージ』以外のコースや講座でも、その講座の趣旨に応じた様々な言い方や深め方で詳しい説明がなされています。ですが、いずれの説明によるものであっても、ただ耳で聞いただけでは、「勇気づけ」は理解することはできません。言葉によって学んだ知識は、講座の中での実習や学習会などで実際に行い確かめて、そこで得られたことを実生活で本当にやってみて、相手との関係のなかで手応えを得ながら、腑に落として理解していくものなのです。なぜなら、「勇気づけ」とは、自分の中の知識や心持ちにはとどまらない、あなたと人々との関わり方が実際にどのようであるか、を示す言葉だからです。
課題の分離(”Whose responsibility?”)
アドラー心理学では、共同体のメンバーが課題に遭遇した際に、遭遇した本人が自分で対処するのに加え、必要があればその課題を共同の課題としてとらえ、他のメンバーも協力して対処しようと考えます。ただしそのためには、その課題が本来、誰にとっての、どのような課題であるのかが、あらかじめ明確でなくてはなりません。そうでないと、まず誰がどのように取り組んで、そこへ他の誰がどう協力していけばいいのかが分かりませんし、その点を間違えれば、課題が望ましい形で解決しなかったり、良かれと思い行ったことが相手や皆のためにならなかったり、そればかりか、誰かに害を与えてしまう場合さえありえます。
たとえば、家庭で子どもが学校で出された宿題をすることは、本来、子ども自身の課題に他ならないはずです。それは、子どもが知的にも人間的にも成長するためのチャンスともいえます。にも関わらず、そこで過保護な親が、いつもまるで自分に出された宿題のように何から何まで子どもに指図をして取り組んでいたとしたら、その行動は、子どもの成長にとってどのような影響を与えるでしょうか。単に、学力が充分に得られないだけでしょうか。子どもはこれからの人生のなかで、自分のすべきことに、自分から責任をもって取り組んでいかねばならないのです。子どもがそのような大人になるために、過保護な親の行動は、はたして役立つのでしょうか。そうした親も、おそらくは良かれと思って子どもに協力しようとしているのだと思います。しかし子どもの立場に視点を置いて、将来にわたって考えてみると、むしろ逆効果といえそうですね。なにがいけなかったのでしょうか。
遭遇した課題について皆で協力しあうのならば、まずその予備段階として、その課題がいったい誰のどのような課題であるのか、を確認することが必要です。私たちはこの作業のことを、「課題の分離」と呼びます。次に、確認したそれらを弁えながら、その課題に対処するには誰かの協力が必要なのか、また、周囲が実際にできることは何であるかについて、本人と話し合います。これを、「共同の課題」をつくる段階と呼びます。そうして、そのままその課題を個人の課題としておくのか、それとも「共同の課題」とするのか、もし「共同の課題」とするならば誰がどこをどのように分担するのかを、たとえばそれが親子の間での話なら、親と子の共同作業で決めます。野田はしばしば、「『課題の分離』は『共同の課題』をつくるための準備だ」と言っていました。「課題の分離」は「共同の課題」をつくることとあわせて、はじめてアドラー心理学の技法といえるのです。
「課題の分離」とは、日本的ともいえる集団主義的な傾向が強い人々の間でも、アドラー心理学の技法が安全に利用できるように開発された、臨床上の予備的な技法にあたります。野田俊作が育児プログラムを開発する際に、ドライカースのアイデアに基づいて開発しました。もっとも、ドライカースは自らのアイデアに関して、「誰の責任かを明らかにし本来あるべき人の手にゆだねる」べきだという語り方をしており、つまりそこでは、子どもの負うべき「責任」にポイントが置かれています。野田俊作は日本での教育や子育ての状況などを考慮して、その「誰の責任か? Whose responsibility?」を、「誰の課題か」すなわち「課題の分離」に翻案しました。
多くの場合、子どもの責任で解決すべき問題に勝手に手を出して解決してしまうのは、家庭では親、学校では教師といえます。この点だけを言えば、必ずしも日本に限った話ではないようで、ドライカースも、たとえば “Mind Your Own Business” という言い方で同じことを言っています。ただ、欧米は概ね個人主義的ですから、普段から物事の責任が誰にあるのか自覚的であろうとする文化があり、そのため、心理技法としての「課題の分離」は特に必要とされていません。普段の話し合いの中で「課題の分離」ができてしまう点で、欧米ではアドラー心理学以前から「課題の分離」が日常生活に浸透し、定着している、といった受け取り方もできます。しかし日本では、責任については曖昧にするのが大人のやり方だ、あるいは実際よりも建前上の責任を優先する、といった文化があります。世の中が安定する効果を考えれば、それはそれで美徳といえるかも知れませんが、残念ながら、課題の理性的解決と個人の成長にとっては必ずしもプラスとはいえません。
AIJの育児コースでは、「課題の分離」について実践的かつ丁寧にお伝えしています。