脱日教組

 新しいニュースが入ってくると、関心があるものだから、しばらく追いかける。そのうち、ニュースが古びてしまうか、あるいは別の新しいニュースが入るかして、古いニュースはもてはやされなくなる。人間は、多かれ少なかれ、そのようにして生きているみたいだ。つまり、「一貫した歴史」などというのは、単なる幻想ではないか。歴史学者なんていう人たちは、あるいは長い歴史観をもって生きておられるのかもしれないけれど、そういう人って少数だろうし、人々はそういう人の意見をあまり聴かないだろうし、全体への影響は少ないんじゃないか?

 たとえば教育の問題をとりあげる。どうも世の中の圧倒的多数派は「日教組改革支持」みたいだ。つまり、日教組がやろうとしている教育改革(?)に対して支持的であるようだ。ボーッと新聞を読みテレビを見ていると、自然に日教組的価値観が刷り込まれてしまうわけだ。しかも、その価値観には、長い目で見た一貫性がない。「長い目で見た」というのは、たとえば明治時代の教育だとか江戸時代の教育だとかと現在の教育の間に、一貫性は考えられていないということだ。

 そういうわけで、われわれ大衆としては、さしあたって日教組的価値観を受け入れる。別に日教組的でなくもいいんだけれど、大きな声でさけばれているのは、どうも今なお日教組的であるようだから、ボーッとしているとそれを受け入れてしまう。そうして戦後何十年かやってきた。もっとも、最近はインターネットなどの発達のおかげで、新聞・テレビ独裁体制は陰りがでてきている。かといって、まだひっくりかえったわけではない。

 とはいえ、日教組教育に対する批判が語られるようになった。私が生きている間に脱日教組教育がおこなわれて、新しい教育理念に置きかわるものか、すこし自信がない。日教組教育を破壊するのはそう難しくないだろうけれど、それに代わる大きな教育理念を打ちだせるところまで、日本の教育事情は成長していないように思う。まあ、私個人の事情だけいうなら、間に合わなくてもいいんだけどね。大切なのは、「脱日教組」の方向へ、全体的な流れが変れば、さしあたってはそれでいいんだから。