正しい業を積む

 昨日はまだセッションのうちだったが、今日は完全に自由になった。もっとも、朝から昼すぎまでずっと紙に書いたメモをパソコンに入れて日記の記事を書いていた。午後2時に終わって、すべてをアップロードして、ほっとしてひと寝入りした。

 仏教であるから、最終的には「悟り」を開かなければならない。ただし、煩悩が深すぎて、今生で「悟り」に到着することはとうてい無理だと思われる。そこで2つの選択肢があって、1)今生での「悟り」はあきらめて次生以後に期待するか、2)「悟り」なんか無理だと思って仏教徒であることをやめるか、のどちらかだ。日本人の多くは、結局は2説に走ったみたいで、本気で修業をするのをやめてしまった。私は日本人だが、あきらめが悪くて、「悟り」に向かっての修業を続けようと思っている。そう思って毎日の行為を選択しておれば、陽性の業が蓄積し、陰性の業は減るだろう。この部分は理屈を超えて信じるしかない。理性的に見えながら最終的には理性を超えて超越的になるのは、こういう理屈があるからだ。

 仏教の専門書を読むと、あれこれ面倒なことが書いてある。しかし、あまり気にしないで、さしあたって陽性の業になると思うものを積み重ね、陰性の業になると思うものを繰り返さないようにする。なにしろ話は長くて、無数の業を何百年も何千年も積み重ねていくことを意識している。だから慌てることはない。とにかく「ゆったりとくつろいで」正しい業を生きていくことだ。