ターラー成就法註釈

 「ターラー成就法」に話を戻す。単に解釈ではなくて、私の個人的な註釈を混ぜ込む。だから、これを読んで実践しただけでは悟りを得ることはないでしょう。でもまあ、ないよりはマシかな。

  自身は聖母で白き胸中の|光は十方照らす護輪なり|
  BADZRA RAKSHA RAKSHA|

 ここまでタラタラ形式的な経文を唱えていた行者は、ここでいきなりターラー菩薩に変身する。いかにも仏教らしいですね。キリスト教やイスラム教ではこういう過程はない。つまり、本尊は行者の前に臨在されるかもしれないが、どこまで行っても行者とは別の存在だ。ところが仏教では行者がすなわち本尊であることになっている。これは不思議でもなんでもないので、仏教の普通の考え方だ。すくなくとも「密教」ではね。

  ふたたび白光十方土を照らし|仏母と諸仏と諸菩薩招き寄せ|

 「白光」はどこから出ているか。行者からではなく菩薩から出ている。もっとも行者と菩薩はここでは区別のない一体だととらえられている。このようなとらえ方は密教になると一般的になり、仏教の瞑想イコール「本尊と行者の一体化」だと考えていいことになる。

 「十方土」というのは、東西南北に北東だの南東だのの4つを加え、さらに上と下を加えて、「十方」と数える。すなわち「全方向」という意味だ。仏母と諸仏と諸菩薩は信仰の対象になるものの全体だ。上座仏教の時代には諸仏しかなかったのだが、大乗仏教になって諸菩薩も加わり、さらに密教になって仏母も加わった。それらを本尊であるターラー菩薩が「招き寄せる」。仏たちがお呼びになったというよりは、ターラー菩薩がお呼びになったので、仏たちがそれにしたがっておいでになる。ありがたいことである。ここで深く感謝をささげておく。このあともずっとそうですがね。

  敬礼内外秘密の供養して|懺悔し善行随喜し利生請い|長生願い菩提に回向して|

 行者は諸仏・諸菩薩にご挨拶をし、内・外・秘密の三種類の供養をする。具体的なやり方はこの経典には書かれていないので、師匠について習っておく必要がある。次に自分の悪行を懺悔し、善行を喜んで、生き物たちに益することを願う。さらに自分の、あるいは他の行者の、長生を願い菩提(悟り)に利益をふりむける。

  福田融け入り衆生は楽を得て|諸苦を離れて不偏の平等を|

 そういう功徳ある徳が融け入るので、行者をはじめ修行者たちは楽を得て、苦を離れてかたよりのない平等を得る。

  空性の境に密厳浄土あり|

 空性の場所に密厳浄土がある。いったいその「境」はどこにあるかだが、ある場所にあって別の場所にないと不合理なので、「どこにでもある」というのがいちおう答えだ。実感できるかどうかは行者の修業次第。

  宮殿ありて宝玉ちりばめて|木々と睡蓮(ウツパラ)宝鬘美しく|
  その中央に蓮月宝座あり|TĀM 字が光りて二境を利益して|

 そこに宮殿があって宝玉が散りばめられており、木々と睡蓮が花咲いて美しい。その中央に蓮の花の仏の席があって、TAM 字が光って二境を利益する。

  われは真白く輝く如意輪母|右は施願で左は白蓮を|

 そしていきなりターラー菩薩があらわれる。ほんとうはもっと前からおられたのだが、行者の未熟のために見えなかった。いまは修業の力が足りてきて、見えるようになった。そう考えるのでもいい。私は(ということは本尊も)真白く輝く如意輪母で、右手は施願の印で左手は白蓮を持つ。

  結跏し相好備えて五光燃え|八つの宝と五つの衣まとい|
  頭上の阿弥陀の三処に OM ĀH HŪM|心中白き TĀM より光いで|
  密厳土より相同・灌頂尊|招きて無二の灌頂印されん|

 脚を組んで禅定の形を整え、五つの光が燃え、八つの宝と五つの衣をまとう。頭上の阿弥陀の額・喉・胸の三個所に OM AH HUM と書かれ、心臓の白い TAM 字から光が出る。 密厳土から相同尊・灌頂尊を招いて、二つとない灌頂を印される。

  DZA HŪM BAM HO| ABHISHEKATE SAMAYA SHRĪYE HŪM|

 ここまでが「第一部」で、これだけでもご利益はじゅうぶんありそうに思う。有り難いねえ。