無情説法について

 ここ数日は寒い日だ。瞑想を学んでいると、瞑想中には心は明るくなるのだが、瞑想から出ると世界はそんなに明るくない。こういうものなんだと思い込んでいる。いつか、瞑想の境地が広がって、そんなに無理に瞑想に入らなくても、心全体が瞑想状態のままでいるんだろうか。いや、無理かもね。

 それはそれとして、「山川草木悉皆成仏」、すなわち「山や川や草や木がことごとく皆成仏する」という考えかたについて考えてみる。この考え方の歴史的な起源について、学者はかなり調べていて、鳩摩羅什の門下生の間ではじめてそのアイデアが提唱されたことがわかっている。つまり、メイド・イン・インディアではなくてメイド・イン・チャイナだ。

 鳩摩羅什(くまらじゅう Kumārajīva)というのは、4世紀後半から5世紀前半の西域の人で、支那(これは差別用語でなくて、仏典での普通の言い方だ。なんだったら震旦でもいいんだけど。ちなみに仏典で「中国」というと、インドのこと)に来て『法華経』などを翻訳した。彼自身は「山川草木悉皆成仏」ということを言わなかったが、漢人の弟子たちがそういうことを言い出したようだ。

 なぜ漢人の弟子がそういうことを思いついたかというと、道教の影響だと思う。仏教が支那に伝わった最初の頃は、道教と習合して、いまから見るととてもおかしな解釈が横行していた。『弘明集(ぐみょうしゅう)』という仏教導入初期の論書を読んだことがあって、仏教徒が道教を批判するのだけれど、その言い分がけっこう道教風なのだ。同士討ちという感じがする。また、その時代の漢訳経典(たとえば『小品般若経』の違訳である『大明度経』など)は、道教用語で訳してあるので、途中で仏教なんだか道教なんだかわからなくなる。それがすっきりと仏教風になるのは鳩摩羅什以後だといわれているのだが、実際はそうでもなくて、鳩摩羅什の弟子たちも道教の影響が濃いし、その後遺症はずっと尾を引いて、今日に至るまで支那仏教は道教色をしている。

 なぜ「山川草木悉皆成仏」では具合が悪いかというと、法身なり如来蔵についての、おそらくもっとも権威のある文献である『宝性論』が、「ブッダの智慧は衆生の集合の内に入り込んでいる」と宣言しているからだ。衆生はまた有情とも訳され、原語は sattva だが、「心のあるもの」というのが定義だ。動物にだけ心があって、無生物や植物には心はないと、インド人は考えていた。衆生でないものを無情というが、無情が作る世界が器世間で、衆生の心の世界が衆生世間だ。無理に現代語にあてはめると、物質世界と精神世界だが、現代語ではナマズや蚊の心まで精神世界には含めないだろうから、ちょっと感じが違う。精神世界という用語そのものに西洋の臭いがこびりついている。ともあれ、法身(あるいは智慧、あるいは仏性)は衆生世間にあって、器世間にはないと、文献は言う。文献による権威づけだけでは足りなければ、論理的に考えてもそれはそうだろう。法身が智慧であるとすると、智慧は心だ。だとしたら、心のないものには智慧はないだろう。

 「人間の心にだけ仏性がある」と言わないのはどうしてか。それは、法身顕現の体験にもとづいて話をしているからだろう。その体験をすると、「世界に」法身が満ちあふれているように感じるのだけれど、理屈を学ぶと、法身が智慧であることがわかり、そうであるとすると、実は「衆生世間に」だけ満ちあふれているのだということになる。世界全体から心のないものを引き算した残りのもの、すなわち衆生の中にだけ仏性があるというのは、論理的な推論の結果なのだ。

 自分もまた衆生だから、自分の中にも智慧が満ちあふれているはずなのだが、実際にはそうではない。瞑想から覚めると、智慧なんかどこにも見当たらない。しかし、瞑想中にはたしかに自分の中にも智慧があふれている感じがしたので、修行しておればいつか全貌をあらわすに違いないという確信は得られる。それはこの生にいる間ではないかもしれないが、いつかの生でかならず実現するだろう。私についていつかの生で実現するとすれば、他の衆生についてもいつかの生で実現するだろう。これを「一切衆生悉有仏性」という。仏教のやさしさの根源だと、私は思っている。

 山川草木には心もないし仏性もないのだけれど、まるで心があるかのように感じることがある。しかし、それは、山川草木に実際に心があることを証明していなくて、われわれの側に、山川草木に心を感じとる力があることを証明している。つまり、山川草木は、われわれの中の仏性(仏の心)を呼び覚ます縁になることはありうるということだ。これを支那仏教では「無情説法」というが、道元はそのような考え方をとても好んだので、日本の禅宗全体にその色彩が強くなったし、さらには日本文化全体にも影響を与えている。その結果、人と自然(無情)とのつきあい方が、他の民族に較べて、うんと優しくなっているように思う。理屈としては、山川草木悉皆成仏はしないのだけれど、縁として山川草木に仏性を感じとり、無情説法に聴き入るのは、悪いことではないと思う。

 これは今日書いたものではなくて、2013年03月04日に『野田俊作の補正項』に掲載したものに、すこし手を入れたものだ。