アドラー心理学と「物語」

 この記事も古い記事の再編だ。

 なにしろ、保守系も革新系(このごろはリベラル系と自称している。国家解体主義者のくせに「保守系」だと言っているバカもいる。さすがポストモダンだ)も、どちらも西洋近代思想、すなわち競合的なパラダイムに乗っかっているものだから、協力的なパラダイムに乗っかろうとするアドラー心理学の居場所がない。だから仕方なく、細い系譜をたどって協力的な思想家を見つけるわけだけれど、そんなにたくさんいるわけではない。だから、西洋人に注目しているかぎり、同じような人を引用して同じような話をすることになる。

 私がアメリカに留学していた時代は、いわゆる「ヒューマニスティック心理学」だの「トランスパーソナル心理学」だの「ニューエイジ・ムーブメント」だのの真っ盛りで、当時のアドレリアンたちはあちこち覗きに行っていたのだけれど、「私は最後までパンツを脱がなかったわ」と自慢げに言っていた尊敬する先輩がいた。「ということは、みんなパンツを抜いだの?」と尋ねたら、「そうよ。別に強制じゃないんだけれど、なんとなく雰囲気で脱いでいくのね。別に裸になったって、新しい自分に出会うことなんかないし、バカバカしいから私は脱がなかった」と言っていた。ということは、パンツ以外は脱いだんだ。まあ、どっちでもいいけれど。

 いまからあの時代を振り返ると、「なんとかムーブメント」といったって、結局は西洋近代思想のひとつの枝にすぎないことがわかる。私は、アメリカから帰ってから、和尚ラジニーシに出会った。日本にトランスパーソナル心理学を紹介した故吉福伸逸氏が、和尚ラジニーシのことを激しく批判していたが、その核心部が「サレンダー」についてだった。仏教用語で言いなおすなら「帰依」についてだ。インド思想は、師匠に絶対的に帰依する。師匠が「蛙が仏だ」とおっしゃったら、その瞬間から蛙が仏になる。そういう点を吉福氏は批判されたのだが、それを読んで、「なんだ、トランスパーソナルなんて言ったって、バリバリに西洋思想じゃないか」とわかり、私はトランスパーソナル心理学やニューエイジ・ムーブメントを見限った。

 そのうち和尚が入滅してしまって、宙ぶらりんでいたが、いまはチベット人のリンポチェとつき合わせていただいている。チベット人もいまでは幾分かは西洋化しているのだろうけれど、西洋風の教育を受けて育たれた和尚ラジニーシとは違って、根っ子のところが非西洋的なので、きわめて協力的にものを考えられる。だから、アドラー心理学とすんなりと接続できる。チベット仏教でなければならないことはないのだけれど、縁があってガルチェン・リンポチェの弟子になったのだから、それでいいと思っている。非競合的な神道(多分存在する)でも非競合的なキリスト教(存在するのかな?)でも、非競合的なイスラム教(これは確かに存在する)でもいいので、西洋近代思想の競合性を拒否する協力的な宗教と接続しておくのがいい。アドラー心理学は宗教と接続して使うように設計されているからだ。日の丸が旗竿に接続して使うように設計されているようなものだ。