楽観の道

 人間は「イメージ」の中で生きている。つまり「リアリティ」の中ではかならずしも生きていない。実例はいくらでもあげられるが、たとえば二人の人が同時にひどい目にあったとする。後で「なにが起こったのか」と問答をすると、ひとりは「悪意の人に責めさいなまれた」と言い、ひとりは「善意の人に助けてもらった」と言うかもしれない。実際には同一人物から同一のしうちを受けているのに、受け取り方が違って、一人の人にとっては悪夢の体験であり、一人の人にとっては善意の体験であるわけだ。

 私はいま病中だが、さいわい症状はひどくない。もっとも病気そのものは本気なので、そのうちひどい目にあわされるだろう。こういう状態の時、「ひどい状態だ」ととることも可能だし「軽い状態だ」ととることも可能だ。さいわい(あるは不幸にも)私は病状を知っているので、見かけほど軽くはないとわかっている。そのうちいつか「正体」があらわれて、苦しむことになるのだろう。もっとも現在はまだそういう状態ではなくて、のんびりおっとりと暮らしている。しかし、心の底からのんびりおっとり暮らしているわけでもなさそうだ。

 「悪意の人に責めさいなまれる」というのと「善意の人に助けてもらう」というのと、どちらが正しいかと問われると、どちらも(おそらく)正しくない。私の現在の症状をていねいに書き起こして、全体としてどうか考えてみると、やはり思わしくないところがあることはある。ほんとうに健康なら、そういう症状はないのが普通だ。もっとも、そういう症状があるから不健康だというわけでもないかもしれない。いよいよ「本気で」病気になるときには、そういう小さな症状は問題にならないのかもしれない。未来のことはわからない。

 わからないので、私としては楽観的な方をとることにした。あるとき状態が悪くなって、あちこちが痛みはじめるかもしれない。まあ、それはそのときのことにしよう。それまでの、まだ痛くない日々に、行けるところへ行っておこう。月末には守山というところへ博物館見物に出かけることにしている。その後も近所の博物館へ出かける予定がある。