協力的ライフスタイル(5)

 カウンセラーとクライエントの間に競合性ができると、クライエントがカウンセラーに反抗して、かえって健康でない状態に陥ってしまうという話をした。もしカウンセラーが未熟だと、カウンセラーもクライエントに反抗して健康でない状態に陥ってしまう。そういう状態に陥って、クライエントがカウンセラーに反抗的になり、カウンセラーもクライエントに反抗的になったような場合に、「カウンセラーが主か」あるいは「クライエントが主か」という考え方自身が「眼くらまし」で、そんなものを目標にしたていると出口がなくなる。つまり、クライエントがカウンセラーを導いて反抗に陥らせるのか、カウンセラーがクライエントを導いて反抗に陥らせるのか、理性的に分析してもわからないということだ。だから、この状態に陥ったことに気がついたら、カウンセラーが反省してその状態から抜け出すしかない。クライエントは、この問題については「アマチュア」なので、自力で病的だと気がつくことも難しいし、気がついても抜け出し方を(カウンセリングをやめる以外には)知らない。だから、カウンセラーはとにかく引き下がって、状況を冷静に分析して、まったく違う分析を開発すべきなのだ。

 そうして出てくる答えはパラドキシカルなものになる。アドラー派のカウンセリングを文字おこししたりして解読すると(成功しておればだが)ほとんどの場合は逆説的な論理学を使っている。つまり、「治りたかったら治らない努力をすべきです」という意味のパラドクスを使っている。こういうあたりを paradoxical intention と言ったりする。たぶんアドラーが最初にみつけたのではないかと思っているが、あっと言う間に広まったので、アドラー派のオリジナルだと言うことを示しにくい。まあ、どっちでもいいけれど。

 とにかくそういうわけで、アドレリアン・カウンセリングは途中から多かれ少なかれ論理がこじれる。いや、実はこじれていなくて、もともとクライエントが提示した問題の方がこじれていたのだ。クライエントはその語り方を矛盾していると思わないで、さらには唯一正統な語り方だと信じているので、それで問題から陥り抜け出せなくなっていた。その部分をあきらかにできると、クライエント自身の力でそこから抜け出すことができる。ここがカウンセングの楽しいところなんだよね。