短歌と瞑想(3)

 人間にとって最大のわざわいは人間だ。自然現象による災害などは、人間が引き起こす災いに較べれば、たかが知れている。源平の合戦は全国の武士たちを巻き込んだ大戦争だったが、その後で成立した鎌倉幕府は、強い裁判権を行使することで、百年あまりの期間、なんとか平和を保つことに成功した。しかし、鎌倉幕府滅亡以後、江戸幕府が成立するまで、人と人が殺し合う愚かな時代が、250年も続いた。『風雅集』はそういう時代の真っただ中で編纂された。

 『風雅集』の撰者は光厳上皇(1313年ー1364年)で、花園上皇(1297年ー1348年)が監修をされた。光厳上皇は、お名前は量仁(かずひと)親王、父は後伏見上皇(1288年ー1336年)、その弟が花園上皇だから、光厳上皇から見ると叔父にあたる。祖父は伏見上皇(1265-1317年)、祖母は永福門院だ。つまり、京極派の歌人のど真ん中に生まれられたわけだ。小さいころから英才教育を受けられたと伝えられている。歌だけでなく、花園上皇は量仁親王の家庭教師となられて、帝王学を授けられた。その内容を『誡太子書』という本に書かれた。

 1331年、後醍醐天皇が幕府に対して謀反を起され、破れて笠置に逃れられたので、量仁親王は光厳天皇として即位された。ときに18歳であった。ところが、1333年、後醍醐天皇は勢いを盛り返して京都に攻め込まれたので、光厳天皇は後伏見上皇、花園上皇と一緒に、六波羅探題に伴われて都落ちをなさり、番場の宿での悲劇に遭われ、捕らえられて廃位された。

 1336年、足利高氏が京都を取り返し、後醍醐天皇は吉野に逃れ、光厳上皇の弟の光明天皇(1322年-1380年)が即位された。短い平和の期間があって、この間に『風雅集』が編纂された。光厳上皇の祖父の伏見上皇が、『玉葉集』の他に、もうひとつ京極派の和歌集を編纂するようにと言い残されて亡くなられたのだそうだ。その遺言をうけて、光厳上皇も花園上皇も、きわめて勢力的に仕事をされたようだ。

 1351年、足利氏内部で紛争が起こり、その隙に、光厳上皇と、退位された光明上皇と、新しく天皇になられた崇高天皇(1334年ー1398年)が、南朝方の北畠親房に捕らえられて、吉野の賀名生(あのう)というところに拉致された。1352年、39歳の光厳上皇は賀名生で出家をなさり、やがて孤峯覚明という臨済宗の禅僧の弟子となって、雲水として戦没者を慰霊する旅に出られた。これはちょっとすごいことで、元天皇が乞食坊主になってただ一人で国々を回られ、死者たちの慰霊をされたのだ。最後は、1364年、山城国常照寺という、京都をはるかに離れた山の中の寺で亡くなられた。享年51歳。

 謝有為報 披無相衣 経行坐臥 千仏威儀

という遺偈を残された。「人としておれることに感謝しつつ、空性を身にまとって日々の暮らしをしてきたが、それは仏さまの暮らしそのものだった」というような意味だろうか。

 さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし  光厳院

 『風雅集』にある歌だ。「寒かろうな、民の藁屋を思うと、ふすまの中で暮らしている私は恥ずかしい」というような意味だろう。『誡太子書』に、次のような一節がある。

  あなたは召使いの間で育ち、民がどんなに困っているかを知りません。いつもきれいな服を着ていますが、それを紡ぐ苦労を考えたことがありません。いつもご馳走をたくさん食べていますが、耕す苦労を思ったことがありません。国についてはいままでになんの功績もありませんし、民についてはほんのわずかの恩恵もほどこしたことがありません。ただ祖先が天皇だったというだけのことで、天皇の仕事ができるだろうと思っています。それは、徳もないのに間違って大臣たちの上に立ち、功績もないのに庶民の上に立とうとすることです。そういう自分を恥ずかしく思ってください。
  太子は宮人の手に長じ、未だ民の急を知らず。常に綺羅の服飾を衣(き)、織紡の労役を思ふこと無し。鎮(とこしな)へに稲梁(とうりょう)の珍繕に飽き、未だ稼穡(かしょく)の艱難を弁(わきま)へず。国に於て曽(かつ)て尺寸の功無く、民に於て豈に毫釐(ごうり)の恵み有らんや。只だ先皇の余烈と謂ふを以て、猥りに万機の重任を期せんと欲ふ。徳無くして謬(あやま)りて王侯の上に託し、功無くして苟(いや)しくも庶民の間に莅(のぞ)む。豈に自ら慙(は)じざらんや。

 量仁親王はこの教えを正面から受け取られた。しかし、ご自身が天皇であるときには、実権はなにもなく、願うことがなにもできなかった。無理矢理に退位させられ、やがて山奥に拉致されたとき、きっとこの言葉を何度も何度も反芻されたのだと思う。そうして出された結論が出家だった。出家といっても、形式的に頭を丸めるのではなくて、破れ衣を身にまとって、托鉢によって得たわずかな食べ物をいただき、ご自分にできることをして暮らされた。そうしながらも、いつも「自らに慙じて」おられたのではあるまいかと拝察する。いいえ、慙じることなどまったくございませんよ。あなたは、あなたにできることを、ほんとうに精一杯なさったのです。

  夕日かげ田のもはるかにとぶ鷺のつばさのほかに山ぞくれぬる  光厳院

 これも『風雅集』にある歌だ。「夕日はかげって、田の上空をはるかに飛ぶ鷺の翼はまだ白く耀いているが、そのほかの山は暮れてしまった」というような意味だ。この、ひとり空高く飛んでいる鷺は、光厳上皇ご自身のお姿であるように、私には思える。世の中がどんなに暗くても、ひたすら自分にできることを考えて、それを実行して生きて行く。かつてそういう天皇がおられたことを、私たち日本人は誇りに思うべきだし、私たち自身もそのように生きて行ければと思う。こういう方のことは、学校で教えてほしいなあ。