天皇と歌の流派

 光厳上皇(1313年ー1364年)について書いた。伝記を見ると、尊敬するしかない人物なのだが、どういうわけか有名ではない。まあ、時代を考えると当然なのかもしれない。2016年に光厳上皇を主人公のひとりにする時代小説を書いたことがある。上皇の伝記をそのままにたどったものではなくて、たくさんの幻想を交えたものだが、私のなかにしっかりとした天皇像ができた。その続きというわけでもないが、光厳上皇のことをもうすこし触れる。

 お生まれになったのは鎌倉時代の末期で、この時代には持明院統と大覚寺統から交互に天皇を立てていた(両統迭立)。後醍醐天皇は大覚寺統の天皇であったが、幕府の取り決めに反して自分の皇子を皇太子に立てていた。ところが、息子が亡くなってしまったため、光厳院が皇太子に立てられた。

 元弘元年(1331年)、大覚寺統の後醍醐は失脚し、持明院統の光厳院が即位された。幕府は後醍醐を隠岐の島に流した。元弘3年(1333年)、後醍醐に味方する足利高氏の軍が京都を襲撃、北条一族の執権は京都を脱出して鎌倉に向かおうとした。そのとき、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇の3人も北条氏に連れられて東国に逃れようとした。しかし、佐々木道誉に道を阻まれて北条氏の一族432人は自決し、光厳天皇は両上皇とともに捕らえられて、三種の神器を没収されて京都に戻された。

 同じ頃、関東では鎌倉幕府が新田義貞の攻撃をうけて滅亡した。後醍醐は帰京して建武の新政を開始した。5月25日に光厳天皇は廃立された。帝位におられたのは2年間にすぎない。しかも光厳院は後醍醐によって「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として即位そのものを否定されてしまった。

 後醍醐天皇を中心として足利氏などを補佐とする建武新政はほどなくゆきづまり、新田義貞が足利高氏を討伐することになる。高氏は義貞に敗れて九州に逃がれるが、光厳院が高氏を補佐し、高氏は上京して光厳院の弟の豊仁親王が光明天皇として即位された。後醍醐院はこれに反発して吉野で天皇家を起された。このとき北朝(京都におられた光厳院や光明天応の血筋)と南朝(吉野におられた後醍醐天皇の系統)が分流する。ああ、ややこしい。

 後醍醐院は暦応2年(南朝延元4年、1339年)に吉野で崩じたが、そのころには後醍醐院の主だった武将も相次いで戦死しており、南北朝の初期段階で早くも大勢が決した観があった。ただ、二人の天皇が並び立ち、互いに相手を偽主と呼ばわる状況だった。

 正平3年(1348年)に光厳院の第一皇子である崇光天皇が即位し、光厳院は治天として引き続き院政を行った。この間ほとんど逼塞状態にあった南朝方だったが、幕府内の対立が観応の擾乱に発展すると息を吹き返す。正平6年(1351年)将軍足利高氏は優位に立つべく南朝後村上天皇に帰順し、崇光院は天皇を廃され、直仁は皇太子を廃されて北朝は廃止された(正平一統)。後醍醐から偽物と言われた神器も南朝側に接収された。正平7年(1352年)、京都を奪回した南軍は、光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王を拘禁する。その後一統が破れると、撤退する南軍によって三上皇と直仁は山城国男山(京都府八幡市)、さらに南朝本拠地である大和国賀名生(奈良県五條市)に拉致された。

 かねてより夢窓疎石に帰依していた光厳院だったが、賀名生で出家し、法名を勝光智と称した(後に光智に改める)。三上皇と直仁は正平9年(1354年)に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。

 南朝の軟禁下にあること5年、正平12年(1357年)になって崇光上皇、直仁親王と共に金剛寺より還京し、深草金剛寿院に入り、ついで嵯峨小倉に隠棲された。世俗を断って禅宗に深く帰依し、春屋妙葩らに師事した。これ以後、丹波山国荘の常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)で禅僧としての勤めに精進し、正平19年(1364年)、この地で崩御された。享年54歳。河内金剛院に入られてから10年、即位以後だと26年になる。光厳は歌道にも優れ、後期京極派の重要な一員である。花園院の指導のもと『風雅和歌集』を親撰し、『光厳院御集』も伝存する。

 光厳院や『玉葉集』・『風雅集』の歌人たちは、歴史の中で名前が触れられることはあったが、作品が鑑賞されることは少なかった。脚光を浴びたのは折口信夫一門が取り上げてからだ。私もその影響で彼らの歌を好んで詠んでいる。