ミサ曲

 バッハ『マタイ受難曲』を何日かに分けて聴いている。全曲で3時間以上あるし、部分部分が濃いので連続して聴くと疲れはてる。10代に初めて聞いて、あまりの重厚さにガッカリしてしまって、それからはそんなに熱心に聞くことはなかった。代わりに『ヨハネ受難曲』をかなり偏愛した時期がある。

 キリストの受難を信者の側から音楽にしているわけで、われわれ仏教徒から見ると妙な趣味だ。しかしまあ、テーマはテーマとして、音楽そのもののドラマティックさだけを見るなら、実によく書けている。『マタイ受難曲』にいたっては70歳代になってようやく「しらふ」で聴き通せるようになった。

 キリスト教の音楽は、われわれ仏教徒から見ると、奇妙な文脈によってできている。なにしろ教祖さまが殉教なさるわけだ。仏教にだって神道にだって殉教の話がないわけではないだろうが、それは宗教の唱導なり布教なりに必然のことではない。仏教史上あるいは神道史上、殉教がなくて困るわけではない。しかし、キリスト教にとっては、イエス・キリストの受難こそがもっとも「とうとい」できごとなんだそうだ。

 そういう違いがあるままで私はキリスト教のミサ曲を聞いているわけで、どこまで聞き込んでも根本のところでしっくり来ていない。しかしまあ、それはそれとして、感動はしている。いい加減なことだ。