短歌について(3)

 今日も昨日までと同じように、『野田俊作の補正項』2016年4月29日を引用しながら書く。ただし若干のコメントを付け加えている。

 本居宣長が和歌の徳について、次のようなことを書いている。

  今は人の心は偽り飾ることが多いので、歌もまた偽り飾ることが多い方が、人情風俗につれて変化するので、自然の理にかなうのだ。であるから、この人の情につれて変化するということは、過去現在未来に不変の和歌の本質であると知るべきである。そうではあるが、今の世において、和歌の道にたずさわり、和歌を心がけるものは、なにはともあれ今の人情に従っておいて、そのうえで偽り飾ってでもいいから、むかしの歌をしっかり学び、むかしの人が詠んだ歌のように、なんとか詠むのだ詠むのだと心がければ、そのうちに自然にふだん読んでいる古歌や古書に心が感化されて、むかしの人のような心のさまに移り変わっていくものだ。そのときには、ほんとうに考えていることを(偽りも飾りもなく)ありのままに読むということになる。これはどうしてかというと、むかしの歌の真似をして、飾り作って詠み続け見習い続けていることの、その徳ではないだろうか。これは和歌の功徳によって、自分の心の在り方が良い方に感化されたということである。
  今ハ人ノ心、イツハリカザル事多ケレバ、歌モ又イツハリカザル事多キガ、即チ人情風俗ニツレテ、変易スル、自然ノ理ニカナフ也。サレバ、コノ人ノ情ニツゝルト云事ハ、万代不易ノ和歌ノ本然也トシルベシ。サレバ、今ノ世ニテ、此道ニタヅサハリ、和歌ヲ心ガクル者ハ、トカクマヅ今ノ人情ニシタガヒテ、イツハリカザリテナリトモ、随分古ノ歌ヲマナビ、古ノ人ノ詠ジタル歌ノ如クニ、ヨマムヨマムト心ガクレバ、ソノ中ニ、ヲノヅカラ、平生見聞スル古歌古書ニ心ガ化セラレテ、古人ノヤウナル情態ニモ、ウツリ化スルモノ也。ソノ時ハ、マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也。コレ何ゾナレバ、カノ古ノ歌ノマネヲシテ、カザリツクリテ、ヨミナラヒ、見ナラヒタル、ソノ徳ナラズヤ。コレ和歌ノ功徳ニヨリテ、我性情モヨク化スルト云モノ也。(『あしわけ小舟』)

 論理の追いにくい文章だが、宣長は、3段階で話をしているように思う。1)むかしの人の心は素直であったが、いまの人の心は偽り飾ることが多い。だから歌も偽り飾ることが多くなるのが、自然のなりゆきなのだ。これは認めておくしかない。2)それはそれでいいから、むかしの人の歌を学んで、むかしの人の歌のように詠みたいものだと願って実践しているうちに、次第に心もむかしの人のように素直になっていく。3)そうなると、偽り飾らなくても、心をそのままに詠めばそれで歌になるようになる。

 宣長は、歌という「ことば」と、その歌を作り出す「心」(人情・性情)とを分けて考えているが、私は構造主義者なので、「心」は「ことば」によって作り出されるのだと考えている。だから、同じことを言うのでも、「ことば」の使い方が変われば、その背後にある「心」のあり方も変わる。それは和歌に限らずなんでもそうなのだが、その中で和歌が他の「ことば」と際立って違うのは、日本人の歴史を貫く「こころ」につながっている点だ。

 保田與重郎が、

  私は遠い祖先から代々をつたへてきた歌を大切に思ひ、それをいとしいものに感じる。私にとつては、わが歌はさういふ世界と観念のしらべでありたいのである。

と言っているのは、まさにこの点を言っているのだと思う。短歌を詠むということは、いまの時代の中で詠むことであると同時に、先祖からの悠久の和歌の歴史の中で詠むことでもあり、連続体としての日本文化に参加することなのである。短歌に限らず、保田が願っていたことはそういう生き方であって、いま現在の損得計算だけで行動するのではなくて、日本人の長い歴史の連続線上で自分の去就を決めて生きたいということであった。短歌は、そのための重要な方法だと、彼は考えていたようだ。

 そのような彼にとって、たとえば斎藤茂吉の、

  国こぞる大き力によこしまに相むかふものぞ打ちてし止まん
  漢口は陥りにけり穢れたる罪のほろぶる砲の火のなか

というような歌は、いくら万葉ぶりの語法でも、いま風の「イツハリカザル」心で詠まれたもので、到底「マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨム」境地には達していないと思われただろう。別の言葉で言うと、いま現在の損得計算しか頭になく、日本の悠久の歴史の連続線上でものを考えていないということだ。どうして茂吉はそんなことになってしまったかというと、子規万葉ぶりの語法にこだわり、『万葉集』にだけ固執して、『古今集』以下の和歌を軽んじた結果、視野狭窄に陥ってしまったということだろう。

 子規の話を少しする。彼が歌を詠み始めたときには、「子規万葉の語法」などというものはこの世になくて、ただ彼の読みぶりだけが「万葉ぶり」だった。子規がきわめて優れていたのは、自分が詠んだものの中に「万葉ぶり」が含まれるようにあらゆる工夫をしたし、実際の努力もした。その結果、彼の後半生の(といっても若いのだが)和歌は立派に「子規万葉ぶり」をなしていた。もっとも、きびしくつきつめれば、本物の万葉ぶりと子規万葉ぶりとは違っていたのだろうけれど、明治の人にとっては、あるいは現代の人にとっても、古典万葉ぶりは、すくなくとも芸術創作上はどうでもいいことであって、現代歌人が現代のできごとを短歌に詠むときに、どのように詠めば万葉ぶりの調子が出るかというところに関心の中心があった。子規万葉ぶりはたしかに万葉ぶりではあった。ただし、万葉ぶりの全部ではなかったが。

 私も一時、子規万葉ぶりの語法にかぶれもすれば、『万葉集』でなければ歌でないと思っていたこともあった。それがそうでなくなったのは、折口信夫門下の人々のおかげで『玉葉集』や『風雅集』の美しさを知り、そこから『新古今和歌集』も楽しめるようになって、『古今集』もその時代なりにそうだったんだなとわかるようになり、日本の和歌の歴史全体との折り合いがついたからだ。そのことが、茂吉のような視野狭窄に陥らないでおれるひとつの理由かもしれない。「日本武尊だって源義経だって楠木正成だって、そんなに野蛮じゃなかったよ」と自然に思えるということだ。敵には敵の正義があり、敵にも滅びる哀れさはある。そして、滅びはいつわが身にふりかかるかもしれない。それが見えないなら、日本人じゃない。

 『玉葉集』『風雅集』風の歌といえば、こういうものだ。

  めぐりゆかば春にはまたも逢ふとても今日のこよひは後にしもあらじ
  夏浅きみどりの木立庭遠み雨ふりしむる日ぐらしの宿

 どちらも京極為兼の歌だが、保田の歌は確実にこの延長線上にあるが、茂吉の歌はこれらとは完全に断絶している。

 私が「和歌」なり「万葉ぶり」なり言うときには、単に『万葉集』に似ている詠みぶりを言っているのではなくて、『万葉集』の心ざしに通じる詠みぶりのことを言っている。それが具体的にどういうことなのかは簡単には言いあらわしにくいところがあるのだが、保田與重郎が、たとえば本居宣長を規範として「万葉ぶり」の歌を詠むときに、それがあらわれていた。そしてそれは、折口信夫とその門下によって『玉葉集』や『風雅集』にまでひろめて考えることができるようになった。