チベット仏教の瞑想仲間が集まって、6月末から7月初に行なう瞑想会の準備をした。
瞑想をして暮らすというのは「奇妙」な習慣だ。大部分の民衆はそんなことなしに無事に暮らしている。ただ一部の衆だけが瞑想をして、自分の「自然な」考えを不思議に思い始める。意識で思考を見つめても思考がとまるわけではない。かえってうるさくなることさえあるかもしれない。それでもある人たちは瞑想を続ける。それを五年も十年もやっていると、ある種の「やり方」ができる。私は仏教関係の瞑想しか知らないが、ヒンズー教やイスラム教の瞑想は違うことをしているのかもしれない。仏教の内部でも、上座仏教と大乗仏教の瞑想は違うみたいだし、大乗仏教の中でも真言宗と曹洞宗だとやっていることが違うみたいだ。
そうではあるのだが、ひとりの人間がある瞑想法を選び他の瞑想法を捨てるというのは、これはどうしようもないことだ。だから私のようにチベット瞑想の一流派に属してしまうと、他の瞑想法についてはなにも知らないことになって、ただチベット瞑想だけを知っていることになる。これがいい状態なんだかよくない状態なんだか、よくわからない。けれども、瞑想を続けて修業していくかぎり、いつの日にかどれかの流派の方法にとりこまれるわけだし、とりこまれたらその宗派で続けていくしか方法がなくなる。