第三章 戦乱
1.
同じ年に、帝が鎌倉殿に対して軍を起こされ、京を離れて笠置山に立てこもられたのでございます。文観さまが硫黄島へ流されたのが七月で、帝が笠置山に行幸あそばされたのが翌八月のことでございます。帝が京を離れさせられると、鎌倉殿はただちに持明院統の量仁親王を新しい帝に立てましたので、帝は廃帝になられ、軍は賊軍となったのでございます。官軍、すなわち鎌倉殿のお味方衆は、いっせいに笠置の山に押しかけました。
実はこのとき、わたくしもすこし働きがあったのでございます。九月三日から合戦が始まりましたから、その前日の元徳三年九月二日ことでございます。戦を始める前に軍使を立てようということになりまして、わたくしがその役目を勤めたのでございます。律僧は不妄語戒を守りますので、叡尊さまご在世の時代から、よく軍使として使われたのでございます。数ある律僧の中でなぜ私が選ばれたかと申しますと、鎌倉殿から持明院統のどなたかに問い合わせがあり、永福門院さまのご推挙で私が従軍僧をいたすことになったのでございます。
私はひとりで笠置の陣へ参りました。律僧が軍使であることは、笠置の衆もわかっておりましょうから、身に危険は感じませんでした。城門で身分と、軍使として参上したことを告げますと、門が開いて簡単に中に入れてもらえました。中に入って、椅子をあてがわれて待っておりますと、身分の高そうな侍がやって参りまして、足助(あすけ)某とか名告ってから、わかりにくい東国言葉でわたくしの身分などを尋ねるのでございます。それで、文観さまの侍者だったことなどを告げますと、館の中に入って行き、しばらくするとまたやってきて、一緒に来るように申しました。館の奥の間に通されますと、そこに帝が椅子に座っておわしました。わたくしはその前に畏まって、ご挨拶を申し上げますと、
「そなたは文観の侍者であったそうな」
と帝はおっしゃいました。そう大きな方ではないのですが、とても大きく見えました。お声も芯が入っていて、威圧感がありました。
「はい。侍者をしておりまして、出家いたしましてからは、文観さまと一緒に荼吉尼法を学びました」
と申し上げると、
「ほお、そなたも荼吉尼法を学んだか」
とおっしゃいました。
「して、今日の用件は、降伏の勧告であろう」
とおっしゃいますので、
「御意」
と申し上げますと、
「ご苦労であった。帰って、そちらこそ降伏すべきであると伝えよ」
とおっしゃってから、大きな声で笑われました。あまり人の気持ちを明るくする笑いではございませんでした。そうしてから、座を立たれて奥に入られたので、わたくしは役目を終えたと知り、帝の行かれた側にご挨拶をしてから、そのまま帰ってまいりました。帝のお姿を拝したのは、後にも先にもこのとき一度だけでございましたが、一生忘れることのできないほど、どう申し上げればよいか、そう、隈取りの強烈な方でございました。文観さまはあのようなお方がお好きなのかと、すこし不思議にも思いましたが、やがて、好きとか嫌いとかの問題ではなく、きっと仏法流布のためにお仕えなさっているのであろうと納得いたしました。
翌日からは戦でございます。もうわけのわからない混乱状態でございましたし、わたくしなどの出る幕はございません。わたくしは遠くから戦の様子を眺めながら、敵味方の死者の迷わず往生するように、観音菩薩にひたすら祈願をいたしておりました。
わたくしもそうでございますが、律宗の僧侶の多くは観音菩薩と文殊菩薩を本尊にいただいております。それは、叡尊さまが観音菩薩、忍性さまが文殊菩薩を本尊とされたためだと聞いております。文観さまなどは、文殊と観音のお名前から一字ずつをいただいて文観という法名にされたのだそうでございます。それどころか、お若いころは、別の一字ずつをいただいて殊音という法名を使われることもあったそうでございます。そのあたりがいかにもあの方らしいと思います。そういう磊落さを嫌っている人もおりますが、私はむしろ文観さまの邪気の無さだと思っております。わたくしも、普段は文殊菩薩に智慧をいただくことを願っておりますが、こうして戦になりますと、観音菩薩にひたすら慈悲を乞うのでございます。
戦に立ち会ったのは初めてでございましたが、それはそれは恐ろしいものでございます。人が人を殺すという風景もすさまじいものでございますが、それよりも臭いでございます。血の臭いや、その他、さまざまのたとえがたい悪臭が、風に乗って流れてまいります。最初のころは吐き気がしたのでございますが、鼻が慣れますのか、心が慣れますのか、そのおぞましい臭いの中で、ひたすら観音経を唱え、人々の極楽往生を願っておりました。戦の続いている間は、いつ軍使をせよとの下命があるかもしれませんので、陣中にとどまっておりましたが、たえがたい日々でございました。いまでもあのときの臭いを思い出しますと、胸騒ぎがしてしまうのでございます。修業未熟なことでございます。
その後、軍使の沙汰はなく、戦は鎌倉方の勝利で終わったのでございます。
2.
帝は捉えられ、隠岐の島に流されておしまいになりました。翌正慶元年(1332年)の三月のことでございます。それでも戦はおさまらず、あちこちで火の手があがっておりました。ことに河内国の南の方に楠木某という悪党がおりまして、これが手強いとかでございました。また、天台座主であられた大塔宮護良親王が還俗されて、兵を率いて吉野に立てこもられ、これもなかなかに手強いということでございました。これらを撃とうと、東国の兵たちが次々と都に入り、数日の滞在の後に、奈良から河内や吉野の方へ去っていきました。そうしてまた次の兵が来て、また去っていきました。兵は都に入りますと、浮かれ女たちと戯れるだけでなく、女という女に卑猥な声をかけましたので、都大路には、東国の兵を除いては、人通りがなくなってしまいました。そのような毎日が続いていたのでございます。
その中でも、わたくしは永福門院さまのお館に通い、荼吉尼法の伝授をしておりました。以前は女院さまが私のところにおいでくださったのですが、女の外歩きは危険でありましたので、私から女院さまのお館に参上することにしたのでございます。律僧が歩いていても、武士どもは何も気にかけませんから。
荼吉尼法については、女院さまは筋が良く、数回の伝授ですっかり上手になられました。もう秋も近いころでございましたろうか、女院さまはしみじみとおっしゃいました。
「荼吉尼法を習ってから、心は浄く落ち着いています。そのことについては、ほんとうにありがたく思っています」
「そうお伺いいたしますと、わたくしも嬉しゅうございます」
とお答えいたしますと、
「けれどね」
とおっしゃるのでございます。
「けれど、どうなのでございますか?」
とお伺いしますと、
「歌が作れなくなったの。前は溢れるように出てきていたのが、このごろはさっぱり。世の中が乱れているので、歌会がないので助かっていますが。きっと、歌は煩悩が作っていたのですね」
と言って、明るくお笑いになりました。
「荼吉尼法のような強い法式を学びますと、しばらくはそのようになるものでございますが、しばらくいたしますと、それまでとは違う深いところから智慧が湧きだしてくると言われておりますし、わたくし自身の経験もそのようでございましたから、ご心配には及びません」
と申し上げますと、
「ほお、そうなのか。それならばよいが」
とおっしゃいました。
女院さまはおそらく六十歳を越えておられると思うのですが、いつも初々しい歌を詠まれます。
「おそれおおいことでございますが、わたくしは女院さまのお歌が好きでございます。当代随一の歌人であろうとも思いますし、万葉のむかしから数えても十指に入る歌の聖(ひじり)であろうとも思っております」
と申し上げますと、
「浄念にしては、珍しく、世辞を言いますね」
とお笑いになりました。
「律僧は世辞は申しません。わたくしは本気でそのように思っております。ただ、いくら歌合わせの題詠とはいえ、若い娘の恋心などを詠まれるのは、いかがなものかと思わぬでもありませんでした。荼吉尼法によって消えるのは、そのようなたわむれ心の歌であって、やがて、もっと素直に心を述べる歌を詠んでいただけるようになるのではないかと思っております」
と申し上げますと、
「それでは殿上人としてはやってゆけなくなるかもしれませんね」
とお笑いになりました。
実際、その後、女院さまは、きわめて美しい叙景歌を次々と詠まれたのでございます。