炎の舞(6)

3.

 そうこうしておりますうちに、帝は隠岐の島を抜け出されました。その噂が都に伝わったころのことでございますから、正慶二年(1333年)の三月の終りか四月の初めのころでございましょう、
 人はみな不安におののいておりました。源平の合戦の後、蒙古襲来を除けば、小さな戦しかありませんでした。ところが、ここ数年、だんだんと戦の勢いが大きくなってまいりました。このままでいくと、また源平の戦のような天下大乱になるのではないかと、皆が心配していたのでございます。戦そのものも恐ろしいことでございますが、戦の合間に武士たちは乱暴狼藉を働きます。女たちは、町を出歩かぬのはもちろん、京を離れて田舎の親戚に疎開したもののたくさんおります。京の都は、すっかり荒れておりました。

 ところが、その年の五月に、思いもかけぬことに、鎌倉は攻め落とされ、北条氏は滅びてしまったのでございます。六月六日に帝は都に入られました。
 やがて、文観さまも呼び戻されました。それだけでなく、翌建武元年(1334年)には、東寺の長者に任じられたのでございます。東寺というのは、ご存じのように都における真言宗の本山でございます。長者というのは、そこの管主のことでございます。文観さまは、もともと高野山真言宗の僧ではなく、西大寺律宗の僧でございます。なるほど、真言宗の灌頂をいくつも受けてはおられますが、それでも高野山の僧ではございません。それなのに東寺の長者を引き受けたりなさると、かならずや高野山の大衆の嫉妬を買います。文観さまは、いつものことですが、このあたりのことがおわかりにならないようでございます。
 案の定、高野山の大衆は文観さまを恨み、帝に上奏文を出したのでございます。その文章は、どこからか漏れ出しまして、わたくしの眼にも触れました。「もとより大師の門徒にあらず、けだしこれ小乗の律師なり」と文観さまを罵った上で、「請うらくは、特に天裁をこうむりて、文観法師の東寺勧進を停止せられんことを」と書かれておりました。すなわち、「文観は弘法大師の直系の弟子ではなく、たかだか小乗仏教の律師ではないか。陛下はご決断をくだされて、文観法師が東寺で働くことをやめさせていただきたい」という意味でございます。それでも帝は文観さまを東寺の長者に留めおかれました。

 それでわたくしは、文観さまに会いに参りました。夏の終りのころでございます。場所はもちろん東寺でございます。山門を入りますときから、とげとげした雰囲気がございました。東寺の大衆は、律僧であるわたくしの姿を見かけますと、唾を吐きかけんばかりに敵対的な態度で睨みつけた後に、大袈裟にそっぽを向いたものでございます。
 客間に通されて待っておりますと、文観さまが来られました。すっかり日焼けをなさって、たくましくなっておいででした。流罪からお帰りになって以来、お会いする機会がございませんでしたので、
 「無事のお帰りをお喜び申し上げます」
 とご挨拶を申し上げると、
 「そなたも元気でなによりであった。なんでも、北条方の軍使として帝に謁見したとか」
 と言ってから、大笑いをなさいました。どう答えようもございませんでしたので、
 「流罪はさぞご苦労でございましたろう」
 と申し上げますと、
 「なに、参籠していると思えば、邪魔が入らなくて良かったよ。毎日まいにち荼吉尼法を行じておったので、心に迷いもなく、あのまま一生あの島にいてもよかったくらいのものだ」
 とおっしゃいました。
 「それでもご不自由がございましたでしょう」
 と申し上げますと、
 「食い物がな、魚と、わけのわからん芋しかない。米もなければ麦もない」
 とおっしゃいました。
 「魚を召し上がりましたのか?」
 とお尋ねしますと、
 「食わぬわけにはまいらぬので、干物はいただくことにした。おかげで、体中が魚臭くなったわ」
 とおっしゃいました。なんだか、以前よりもいっそう磊落になられたように思われました。
 「東寺の長者にご就任、おめでとうございます」
 と申し上げますと、
 「そなた、儂に説教をするために来たのであろう。儂も馬鹿ではないから、これがどれほど危険なことかはわかっている。しかし、仏が儂にこの役割を命じたのだと観念している。儂はここの大衆に荼吉尼法を伝授しようと思っている。かならずやわかってくれる者がいるだろう。荼吉尼法は、これまでの真言密教とは違っている。即身成仏の秘法だ。儂のような劣機の者でも、法身成就を体得することができた。これを人に伝えることが菩提心であると思う。そうは思わぬか?」
 とおっしゃいます。それはそれは真剣なお顔でございました。
 「文観さま、阿闍梨さまは、『荼吉尼法を伝授する場合には、相手をよく見て、法の器であることをたしかめてからにすることだ』と、わたくしにおっしゃいました。そのことだけお伝え申し上げます」
 と申し上げました。
 「わかった。心する」
 と文観さまはおっしゃいました。

4.

 建武二年(1335年)は平和な年でございました。都大路を女が歩くことも危なくなくなりましたので、その年の春の終りのころだと思いますが、永福門院さまが浄住寺に来てくださいました。
 「文観について、奇妙な噂を聞いているが、浄念は聞いているか?」
 と女院さまはおっしゃいます。
 「いえ、特には」
 と申し上げますと、ふところから文書を取り出されて、声に出して読んでくださいました。
 「かの文観僧正のふるまいを、伝え聞くこそ不思議なれ。たまたま一旦名利の境界を離れ、すでに三密瑜伽の道場に入りたまいし益もなく、ただ利欲、名聞(みょうもん)にのみおもむいて、さらに六波羅蜜の勤めを忘れたるに似たり。何の用ともなきに、財宝を倉に積み、貧窮を助けず、かたはらに武具を集めて士卒をたくましゅうす」
 「それはなんでございますか?」
 とお尋ねいたしますと、
 「わかりません。わたくしの家の者が町で聞いてきた戯れ歌です」
 とおっしゃいます。
 「高野山は、帝に直訴してもらちがあかぬものだから、町に噂を流すことにしたのでございましょう」
 とわたくしは答えました。
 「文観は、財宝を集めたり、武具を集めて侍を養ったりしているのであろうか」
 と女院さまがおっしゃるので、
 「仮に財宝を集めることがあったとしても、それは東寺の僧物(そうもつ)であって、文観さま個人の財ではありません。そのことは律にはっきりと定められております。東寺も維持には莫大な費用がかかりましょう。武士についてはわかりませんが、わたくしの想像では、勝手に『文観さまの手の者だ』と言って威張っている者がいるのではありませんか?」
 と申し上げました。
 「そなたは、どこまでも文観を信じているのですね」
 女院さまはおっしゃいます。
 「それは、文観さまに会ってくるようにという意味でございますか?」
 とわたくしが言いますと、
 「ほんとうに、わたくしはそなたのそういうところが好きなんですよ」
 とお笑いになりました。

 それでわたくしは、東寺にまいったのでございます。半年あまりの時間が経っておりましたが、東寺の大衆の雰囲気はすっかり変っておりました。律僧であるわたくしを見ても敵対的な表情をすることはなく、おだやかに合掌をしてくれました。
 客間で文観さまとお会いして、ご挨拶すると、
 「今日はどういうお説教かね」
 と、いきなりおっしゃいました。
 「いえ、説教などと、そのようなことはございません。正直に申し上げますが、永福門院さまが、町で奇妙な戯れ歌が流行っているので、いちど文観さまにお会いして、どのようなご様子なのか見てくるようにおっしゃったのでございます」
 と申し上げますと、
 「ふむ、『かの文観僧正のふるまいを、伝え聞くこそ不思議なれ』というものだろう」
 とおっしゃいます。
 「ご存じでしたか。高野山の衆徒が流したものであろうとわたくしは思っているのでございますが」
 と申し上げますと、
 「まあ、そうであろうな。東寺の大衆は荼吉尼法を学んで、儂への敵対心を捨てた。高野山は、それで機嫌が悪いのであろう」
 とおっしゃいます。
 「高野山の衆徒は、文観さまの栄達をうらやんでいるのでございましょう。もちろん、わたくしは、文観さまに栄達を望む心など塵ほどもないことは存じております。しかし、人は自分の業に合わせて他人を見ますゆえ」
 と申し上げますと、
 「儂は勧進によって集めた財宝はすべて僧物と心得て、米一粒も私(わたくし)したことはない。東寺長者というのも、儂が望んで得た地位ではなく、東寺を高野山の思い通りにしたくないと帝が思し召し、儂しか適任者がおらぬと仰せられるので、やむを得ずお引き受けした地位だ。だから、おのれの身に覚えのないことを揶揄されても、痛くも痒くもない」
 とおっしゃいます。
 「それはそうでございましょうが、わたくしは心配でございます。高野山のやり口は、今後ともますます汚くなっていくでありましょう。文観さまの身に何かのことが起こってはと、そのことをひたすら案じております」
 と申し上げますと、
 「南海の小島も観音浄土と観念して暮らしたのだから、どこに流されてもかまわぬし、なんなら命をとられもかまわぬ。衆生済度のために、荼吉尼法を広めることはぜひとも必要であるし、東寺長者という地位は、それにはきわめて好都合なのだ.ここの僧たちの顔を見たであろう。短い期間にどれほどの菩提心が育ったか」
 とおっしゃいました。

 文観さまとわたくしとは、どこか根本的なところで違っております。わたくしが荼吉尼法を伝授したのは、いまのところ永福門院さまおひとりです。それも、向こうから乞われたので、お教えいたしただけのことでございます。もっと年をとりましたら、あるいは阿闍梨さまがなさったように、これと思う人を見つけて、こちらから声をかけることがあるかもしれません。しかしわたくしはまだ三十歳になったばかりでございます。まだまだ修業すべきことがたくさんございます。
 文観さまは五十六歳ではなかったかと思います。今生におられる間に、ひとりでも多くの弟子に伝えたいと願っておられるのかもしれません。それはそれでよいのですが、わざわざ敵地の真ん中に切り込むやり方が、わたくしにはどうも納得できないのです。まあ、文観さまの側にもさまざまの事情がおありなのでございましょう。なかんずく、帝のお心に逆らうことは難しいのでございましょう。いや、そもそも帝に近づいておられること自体が、すべてを難しくしているようにも思います。わたくしであれば、政治から遠い場所で、静かに門弟たちと学びあうのですが、それはわたくしのやり方であって、文観さまのやり方ではないのでございましょう。