ヨハン・シュトラウスのワルツを聴いていた。普段はそう聴かないのだが、夢で彼のワルツを評価する音楽家に出会って、「ああ、シュトラウスもいいな」と思って、聴くことにした。こういう音楽は、何の気もなしに聴いて、さまざまの気分になって、それで終わってしまう。その「終わってしまう」ところが何ともいえず「あわれ」である。もっとも「あわれ」と思うのは日本人である私の特性で、ヨーロッパ人はそうではないのかもしれない。
インターネットで見つけた画像には、歌詞はついていないので、意味はよくわからない。しかしまあ、典型的に「ウィーン風」ではあるし、いまでもわれわれがあの時代のウィーンを思い出すときには、ダンス付きのワルツをくっつけて思い出す。
そうしてしばらく19世紀のウィーンの舞踏室でたわむれる。そう難しい音楽ではないので、オーケストラの人々も暇そうだし、聴衆ものんびりと聴いている。元来、クラシック音楽の一番底の部分には、こういうまったりした世界があって、ひとびとはそこでいろんなことを感じとり、あとで話題にしてみたり、あるいは別の音楽を聴くときに思い出したりして暮らしていたんだろう。つまり、クラシック音楽のいちばん基礎になる部分には、シュトラウスのワルツ風の、まあいわば「脳天気」な世界がひろがっていて、そのうえに日常のさまざまの問題や恐怖が乗っかっていたんだろう。シュトラウスのワルツには「脳天気」だの「恐怖」だのの部分は書き込まれていなくて、ひたすらゆったりと宮廷の日常世界が描かれている。