古文を紹介するときに、文章をそのまま書いておいて、適宜手を入れて現代語訳するという方法がある。たとえば「さざれいしの いわをとなりて」などという文を「小石が岩になって」と逐語訳しておいて、かつ「さざれいし」だの「いわを」だのという言葉に註釈をつけてゆく。できあがりはすんなりとした現代文にはならないけれど、古文の調子を幾分かでも加味した文体になる。
なぜこんな面倒なことをするかというと、「さざれいしの いわをとなりて」という文は、どこをどうつついても「小石が岩になって」という意味ではないし、かといって「さざれいしの いわをとなりて」という古文を離れすぎずに解釈できる範囲にはしたいものだと思うからだ。だから中途半端な現代語訳を出さないが、かといって古文のままで何とかしろということも言わないでおきたい。
1行だけならこれでいいんだけれど、長い文章になるとこう簡単にはいかない。現実には、古文と現代文の中間あたりに新しい文章法を見つけ出す。たとえば、
菩提心は、マハームードラによって解釈するのであれゾクチェンによって解釈するのであれ、同じ意味で使われます。『法身普賢の誓願』の中に「基は一、道は二、果もまた二」とありますが、一つの基とはすなわち私たちの心(セム)の中の如来蔵を指しています。これを一本の大樹にたとえることができます。根部は深く深く大地の中に根を下ろしていますが、これを六道を輪廻する衆生に比べることができ、その上に葉や花や果実が伸びていきますが、それらを三身、すなわち法身・報身・化身の浄土に比べることができます。一つの基の共通の性質は、大海の全体にたとえることができて、仏のおかげで世界は何ものにも障碍汚染されておらず清浄なのですが、その中で衆生は我執のために固まって氷になっているのです。海と氷とは、たとえ形は違っていても、本質はすべて水なのですが、しかも同じでない状態を呈しているのです。私たちが利他の心を具備できれば、我執の氷が溶けてすなわち仏陀です。しかし自分を愛護する我執の心をもっていると、たとえ仏法を修行しても、なお輪廻の中に束縛されていなければなりません。この点に関しては『三十七の菩薩の修行』の中に、「自分の楽の結果は苦、仏は利他に生きたまう」というように説明があります。
と書かれているが、これを単に「理解する」のではなくて、毎日毎日繰り返して修業することでもって「体得する」と、単に「理解した」のとはまったく違う次元で「納得する」ことができるようになる。ちなみに私はまだですよ。遠い遠い道のかなたに如来蔵を体得するときが来るだろうことは確信するけれど、それは今年や来年のことではない。