アドラー心理学Q&A

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基本前提

Category: 基本前提

アドラー心理学とは、個人を「分割できない全体」として捉え、その行動は未来の「目的」によって決定されると考え、個人は仮想の世界に暮らしており、なおかつ社会に組み込まれた存在であると捉える心理学です。他者と協力し貢献する「共同体感覚」を重視する点が特徴です。

アドラー心理学は、オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラー(Alfred Adler, 1870-1937)が創始した心理学です。

人間の行動や心理を理解するにあたり、個人を自ら主体的に動く、分割できない全体として捉え、フロイトの精神分析などが過去の原因を重視するのに対し、アドラー心理学は未来の目的や目標に向かって個人が現在の行動を決定すると考えます。また、個人は主観的に意味づけられた仮想の世界に暮らしており、なおかつ対人関係や社会に組み込まれた存在であると捉えます。したがって個人の人生における課題も目標もそれぞれ仮想であって、しかもそれらは社会的な文脈のなかにあると考えます。

またアドラー心理学は、心理学でありながら、他者と争うのではなく協力して共同体に貢献しようとする「共同体感覚」の育成を何よりも重視するという、思想的な面を持っている点が特徴です。

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「個人心理学」とは、その語源(ラテン語の「分割できないもの」)が示す通り、人間を心や身体などに分割せず、ある目標に向かって動く「個人」全体として理解しようとする考え方を意味します。

アドラーは自分が創始した心理学の大系を「個人心理学(Individual Psychology)」と呼びました。「individual」とは、ラテン語の「individuum(分割できないもの)」に由来します。これは、人間を心と身体、意識と無意識、理性と感情といったように部分に分けて分析するのではなく、「個人」という、それらが統一体として機能する全体として捉えるという意味です。個人は、自らが設定した目標に向かって、全体として調和を保ちながら自ら動くものであると考えます。このため、個人の行動や感情についてある一部分だけを取り出して評価するのではなく、その人のライフスタイル(目標とそれに向かう手段)や社会的文脈などと関連させ、その人全体として理解しようとします。

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アドラー心理学でいう「個人の主体性」とは、人は過去の経験や感情などに支配されるのではなく、それらさえも道具として使いながら、自らの行動や人生の意味づけを「自ら主体的に選択している」という考え方です。

アドラー心理学における「個人の主体性」は、個人は自らの行動やありかたを自らが決めているという考え方です。私たちは、心や体に使われているのではなく、私たちが自身の心や体を主体的に動かしていると考えます。

感情や病気、過去のトラウマ、子ども時代の出来事、性格、習慣などが人間を動かすと考える心理学もありますが、アドラー心理学ではこの考え方を使いません。そうではなく、私たちが感情やトラウマ、過去の経験、性格、習慣などを「使い」ながら、いつでも自由に物事を決めているのだと考えます。この考え方を採用すると、個人はいつでも自分が決めれば自分の性格、ものの見方や行動を変える事ができることになるのですが、自由に決められない「ふり」をしていると考えます。

アドラーは「我々は人生の主人公である」と述べました。アドラー心理学では、個人が自分自身の人生の脚本家であり、監督であり、主役であるのだと考えます。人生で遭遇するできごとが良いことか、悪いことなのかは、個人がその人自身の価値観を参照して意味づけているのです。そうしたできごとにどう向かい合いどのように対処するかも、個人の主体的な選択に基づくものであり、その選択の結末は、いづれかの形でその個人が引き受けることになります。つまり個人は、自らの責任で自分自身の人生を生きているのです。ライフスタイルが個人に人生を歩ませるのではなく、個人がライフスタイルを道具として用いて人生を歩むのであり、いわゆるペルソナも、個人がその人自身の目標に向かって主体的に選ぶのだと考えます。ですから、もし個人が変化し成長しようと願い決心するのなら、ライフスタイルそれ自体さえも変えていくことができるのです。

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アドラーの「目的論」とは、現在の行動は未来の「目的」を達成するために起こすものだと考えるのに対し、フロイトの「原因論」は、現在の行動は「過去の原因」(トラウマなど)によって決定されるものだと考える点に違いがあります。

アドラー心理学の「目的論」とは、人間の行動や感情は基本的に、過去の原因や環境によって起きるのではなく、何らかの目的を達成しようとするために個人が起こすのだ、と考える立場です。例えば子どもが不適切な行動をする場合、目的論の立場では、過去の出来事や環境が子どもに不適切な行動を行わせると考えるのではなく、その行動には子どもにとって何らかの重要な目的があると考えます。

フロイトの精神分析に代表される「原因論」では、現在の問題など人間行動全般を、過去の経験、特に幼少期の経験をめぐる内面的な無意識の葛藤などを原因とするといったように、機械論的にとらえます。それに対してアドラー心理学では、「目的論」に基づいて、人間行動全般は有機体としての個人が、意識的あるいは無意識的に定めた仮想的目標を達成するための動きである、すなわち、相対的マイナスの位置から相対的プラスの位置に向かうための運動だと強調します。

なお、アドラー心理学では過去や環境の影響を完全に否定するわけではありません。たとえば成長過程における身近な人間との葛藤がライフスタイル形成に大きく影響するなど、過去の出来事の間接的な影響を認めています。また、強いストレスによる生理的反応としてPTSD等の急性または慢性的な症状が現れることや、発達障害による行動特性が子どもの行動に様々な傾向性を与えることなどを否定することもありません。これら先天的、後天的な事項や環境の影響にも充分注意が必要であるという立場です。

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アドラー心理学の「全体論」とは、人間を心や身体、理性や感情といった部分の寄せ集めではなく、それらすべてが相互に関連し、ある目標に向かって機能する「分割できない統一体」として捉える考え方です。

アドラー心理学における「全体論」とは、人間を身体の諸組織やそれらの機能、あるいは理性と感情、意識と無意識といった様々な要素の、単なる寄せ集めだとして考えたり、あるいは特定の部分が残りの部分を一方的に統括していると捉えるのではなく、それらが相互に深く関連し合って、分けることのできない有機的な統一体として機能していると捉える考え方です。人間の行動や感情はもちろんのこと、時として身体症状でさえも、その人全体の持つ目標やライフスタイルと切り離して理解することはできないと考えます。

そのため、例えばある人が抱える不安という感情は、その人が無意識的に設定している目標(例:失敗してはいけない、嫌われてはいけない等)と関連して生じことがあると考え、また身体的な不調についても、心理的な問題の表現である可能性を考慮して捉えるのです。このようにして、個人を常に全体として捉えようとするのが、アドラー心理学の基本的な立場です。

なおこれは、身体や精神の不調が、身体に備わった諸器官や諸機構の不調から起こることを否定するものではありません。アドラー心理学は様々な医療分野の知見や、そこで標準治療とされているものを否定する立場にありません。特に身体の調子の異変を自覚した場合は、心の問題を考える前に、まずは早めにかかりつけ医あるいは専門医療機関で受診されることを強くお薦めします。

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アドラー心理学では「認知」を、客観的な事実そのものよりも個人の感情や行動を左右する「主観的な解釈や意味づけ」であると捉えます。

アドラー心理学では、人間の感情や行動は、客観的な事実そのものよりも、その人がその事実をどのように主観的に解釈し意味づけするか、つまりその人が持つ仮想、あるいは認知によって大きく左右されると考えます。アドラー心理学ではこれを「仮想論(あるいは認知論)」と呼びます。

例えば、同じ失敗を経験したときに、ある人は「自分はもうダメだ!」と悲観的に捉えるのに対し、別の人は「私は良い教訓を得たようだ」と前向きに捉えるかもしれません。客観的な事実よりも、その出来事に対する個人の意味づけ(仮想、認知)こそが、人のその後の感情や行動を方向づけると考えます。

アドラー心理学のカウンセリングでは、その人独特の仮想のパターン(私的論理)やそれに影響している個人の価値観(私的感覚)に気づき、必要に応じてより建設的な捉え方へと変えていくことを援助します。

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「認知論」という言葉が固定的な信念を想起させがちなため、主観的な現実は社会的文脈の中で動的に構成されるというアドラー本来の思想をより正確に表す、彼自身の用語「仮想論」が再び重視されるようになりました。

アドラー自身は “fictionalism” という用語を使用していましたが、「認知論(cognitive theory)」は彼の死後、特にルドルフ・ドライカースらによってアドラー心理学に導入されました。「認知論」はアドラーの思想を簡潔に伝える上で分かりやすい面があったものの、個人が不変の「信念」を内面に持っていて、それに基づいて世界を解釈し行動している、といったような印象を与えがちでした。

しかし、1990年代以降の学問的潮流が「認知主義」から「構築主義」へと移行していくのにともなって、個人の性格や思考もまた、固定的なものではなく、周囲との関係性の中で絶えず「作り直されていく」と考えられるようになりました。この影響を受けてアドラー心理学でも、そもそもアドラー自身が強調していた、個人の主観的現実が社会的文脈の中でダイナミックに構成される側面を重視するようになりました。そのため、アドラーが「人は意味づけの世界に生きている」として述べたこの考え方について、「認知論」よりもむしろ、アドラー自身の使っていた「仮想論(fictionalism)」という言葉をあてるように戻す動きが大きくなってきました。

「仮想論」の根底には、ハンス・ファイヒンガーの『かのように』の哲学があります。アドラーはこの影響を受け、人間は客観的な現実そのものではなく、現実に対して自らが与えた「意味づけ(フィクション、仮想)」、すなわち主観的に「こうであるかのように」と捉えた「仮想」の世界に生きていると考えました。この「私的意味づけ」が私たちの行動や感情を方向づけるため、「仮想論」はこの「意味づけの世界に生きる」という人間のあり方を基本前提として捉え直そうとするものです。関連して、認識の偏りを指す従来の「認知バイアス」も、アドラーが本来用いた、より能動的な外界把握を意味する「統覚バイアス」という言葉に戻すのがよいと野田は考えていました。

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アドラー心理学の「対人関係論」とは、劣等感や人生の課題を含む人間のあらゆる問題や目標は、根本的に対人関係の中に存在すると捉える考え方です。

アドラー心理学では、人間のあらゆる問題は、対人関係の中に存在すると考えます。この考え方を「対人関係論(interpersonal theory)」と呼びます。個人の行動のきっかけとなる劣等感も他者との関わりから生じるものであり、個人が意識的・無意識的に目指している目標も、つきるところ対人関係上の文脈に位置しています。すなわちいかなる人生の課題であれ、個人にとっては対人関係(仕事、交友、愛)の問題に他なりません。したがって、個人の問題を理解し解決するには、その人が他者といったいどのような関係を築いているのか、その人の対人関係における目標は何か、といった観点から取り組むことが重要となります。

なお現在では「対人関係論」は、アドラー心理学の理論的枠組みをアドラー自身の言葉に立ち返り、より俯瞰的かつ現代的な視点から再構築しようとする動きの一環として、「社会統合論(social embeddedness)」と呼ばれるようになりました。

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「対人関係論」は二者間の分析に偏り、個人を「社会全体に組み込まれた」存在とするアドラー本来の視点を単純化する懸念があったため、その思想の深さと広がりをより適切に反映する「社会統合論」が使われるようになりました。

アドラーは人間を社会的な存在、すなわち社会の中に位置づけられてこそ、その行動に意味が得られるものであるとする、”Social Embeddedness” を強調しました。しかしながらアドラーの死後、この概念を示すものとして、特にアメリカの臨床心理学の文脈でルドルフ・ドライカースらにより導入・強調された「対人関係論」は、親子関係や教育場面など二者間の相互作用の分析には有効かつ実践的であったものの、アドラーが本来意図していた、個人をより広範な「社会全体に組み込まれている」存在とする視点や、社会という複雑なネットワークの中で個人が相互に多様な影響を与え合う側面が、過度に単純化される懸念がみられました。

「社会統合論」は、個人を直接の一対一の対人関係だけでなく、社会というより大きな全体に「組み込まれた」存在として捉え直します。個人の行動、思考、感情、ライフスタイルは孤立して存在するのではなく、社会的な文脈に応じて、動的に意味づけられて成り立つものと考えます。個人は、自らの行動や態度などが身近な共同体や社会の様々な場でどのような意味合いを持つかについて経験的に学び、そのようにして身につけた社会的文脈を踏まえて、自らの行動を意味づけます。すなわち個人は、社会における多様な文脈を主体的に用いて行動するのです。この視点は個人のあり方を一層的確に説明するとともに、家族など身近な共同体だけでなく、地域社会や文化など、より複雑な社会的ネットワークのなかで捉えることを可能とします。その意味において「社会統合論」は、アドラーの思想本来の深さと広がりを、より適切に反映したものということができるのです。

また「社会統合論」は、個人のあり方が社会との関係性の中でダイナミックに形成されると捉える点で、人間の認識や現実は社会的な相互作用や文脈の中で「構築される」と考える現代の「構築主義」とも親和性を持ちます。さらに、個人の社会(共同体)への所属のあり方を説明する点で「共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)」の理論的基盤にも深く関連するといえます。ただし後者に関しては、「社会統合論」が基本前提すなわちアドラー心理学理論に位置するのに対して、「共同体感覚」は「人はこう生きるべきだ」とするアドラーの哲学・思想に位置づけられる点には注意されねばなりません。

主要概念

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「共同体感覚」とは、「自分は社会(共同体)に所属しており、人々は仲間であり、自分は人々に貢献できる」という感覚のことで、他者と協力して幸福に生きるための最も重要な指標であり、アドラー心理学の究極的な目標であるため重視されます。

「共同体感覚」(独:Gemeinschaftsgefühl、英:Community Feeling/Social Interest)は、アドラー心理学における中心概念であり、個人の精神的な健康の最も重要な指標とされています。これは、「自分は社会(共同体)に所属しており、人々は仲間であり、自分は人々に貢献できる」という感覚を指します。人間は一人では生きていけず、他者と協力しながら社会の中で自分の負うべき役割を果たすことで生きる意味が見かってゆく、というアドラー心理学の考えに基づいています。野田俊作はこれをわかりやすく、「『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』と考えること」と表現しました。

後述の「勇気づけ」は、この「共同体感覚」の育成を目的とする働きかけです。共同体感覚が育まれると、困難な状況に直面した際も、共同体感覚に基づいて判断することで、より広い視点から物事を捉え、建設的な解決策を見出しやすくなります。アドラー心理学の究極的な目標は、より多くの人々のこの共同体感覚を育成し、人々がより幸福で調和のとれた人生を送れるように援助することにあります。

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共同体感覚を持つためには、他者を尊敬・信頼することを基本とし、『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』という視点で考えて、日々のささやかな貢献を地道に積み重ねていくことです。

共同体感覚の育成とは、他者を尊敬し信頼しながら、どのように判断し行動すれば共同体に貢献できるかを実践のなかで深く学び、身につけていくことを意味します。共同体は家族であろうと、もっと大きなスケールの共同体であろうと、そこに所属する人々の、様々な貢献によって支えられています。すなわち他者への尊敬と信頼それ自体に加えて、勇気や慈愛に満ちた行動や、経験や知恵に基づいた深い洞察、謙虚で誠実な話し合いによる熟慮、広い視野に立った公正な判断など、人々に役立つ様々な行動の積み重ねから共同体は成り立っています。ゆえに、共同体への貢献の仕方を学ぶということは、倫理的・道徳的ともいえるそれらの行動を、日々の実践を通じて自分のものにしていくことに他なりません。

まず、普段からの心がけとして他者を尊敬し信頼すること、そして、ものごとを自分にとって有益かよりも、『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』といった観点から考えることが重要です。『みんな』といっても、自分が直接関わっている人々だけを大切にするのではなく、自分自身とそれらの人々が所属しているより大きな共同体にも、さらには世の中全体にも貢献的かどうかを考えます。そして、日々の子育てや親孝行の中で、あるいは職場や学校の仲間との助け合いや、地元などで出会った様々な人々との関係の中などで、ささやかなことからで構わないので、「みんなが幸せになるために私にできること」を実行していきます。そうした地道な積み重ねこそが、共同体感覚の育成へとつながっていくのです。

なお、こうしたことを心がけて暮らすことは、あくまでも自分自身が決心して自分自身が行うことであって、決して他者に強いることではありません。他者にこれを強いれば、それは「共同体感覚」を育成することとは、正反対の生き方になってしまいます。

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アドラー心理学でいう「劣等感」とは、理想と現実のギャップや他者比較から生じる「自分には価値が少ない」という後天的な思い込みであり、人を不毛な「優越性の追求」へと駆り立てる不幸の源泉となる感覚です。

アドラー心理学における最も重要な概念は「共同体感覚」ですが、有名であるという点では「劣等感」が一番かも知れません。アドラーは「劣等感」を、「不完全である成就していないという感覚」と述べました。すなわちアドラー心理学における「劣等感」とは、「自分は他者よりも価値が少ない」という思い込み・感覚だけを指しているのではなく、もう少し広く、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。ドイツ語の原語「Minderwertigkeit」は、文字通り「価値がより少ない感じ」を意味します。これは本来、理想通りでない自分には価値が少ない、という意味あいですが、現代のような競合的な社会においては「劣等感」とは、もっぱら「人に比べて自分は○○の点で劣っている(から自分には価値がない)」という意味で使われています。

本来、人間の赤ちゃんは、他者との優劣を比較しない「平等」な世界に生きています。しかし、子どもが成長し言葉を覚え、社会生活を送る中で、以下のようなプロセスを経て劣等感を抱くようになると考えるアドラー派の学者もいます。

  1. 「区別」の学習:優れたものと劣ったものの「区別」を学ぶ。
  2. 「勇気くじき」:親や教師から「それじゃダメ」「なんでできないの?」といった言葉をかけられること(勇気くじき)で、「自分は劣っている存在だ」と思い込む。

この結果、かつて感じていた世界への所属感や安心感を失ってしまいます。人は「私はこういう点で劣っている」という劣等感(相対的マイナス)を抱くと、失った「平等」の感覚を取り戻そうと、「私はこうでなければならない」(例:「人の上に立たなければならない」「人に好かれなければならない」)といった、その人にとっての理想の姿である「相対的プラス」という目標を立てて、劣等感を補うための「対処行動」を起こします。つまり、「劣等感(相対的マイナス) → 対処行動 → 目標(相対的プラス)」というプロセスが生まれます。

しかし、根底にある劣等感は消えないため、その目標は追いかけても決して到達できない地平線のように逃げていきます。そのため、常に不安を抱え、緊張し、努力し続けなければならない状態に陥ります。要するに、劣等感とは、後天的に意味づけられた「自分には価値がない」という幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へと駆り立てる、不幸の源泉であると捉えられています。

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「劣等コンプレックス」とは劣等感を言い訳にして人生の課題から逃げる状態を指し、「優越コンプレックス」とはその劣等感を隠すために自分が優れているかのように振る舞う、劣等感の裏返しである状態を指します。

アドラー心理学における「劣等コンプレックス」とは、人が持つ「劣等感」を、人生の課題から逃れるための口実として利用している状態を指します。これは、困難に対して建設的に取り組むことを避け、自分を正当化するための自己欺瞞に他なりません。その目的は、現状維持が失敗を招いたとしても、その責任を自分以外のものに転嫁することにあります。また「劣等コンプレックス」は、過度に心の傷や被害者意識などを訴えることで周囲の同情を引いたり、相手を感情的に支配したりする手段としても使われます。

では、人はどのようにして「劣等コンプレックス」を使うに至るのでしょうか。人間は誰しも、生まれながらにして「自分は劣っている」と感じているわけではありません。しかし、成長の過程で、社会や家庭、学校における様々な要因の影響で劣等感を持つようになると考えます。

子どもは言葉を覚えるにつれて、物事の「違い」を「優劣」として区別し始めます。その際に、親や教師が「どうしてできないの?」「もっと頑張らないとダメ」といった否定的な言葉(アドラー心理学で言う「勇気くじき」)を投げかけることで、子どもは「自分は劣っている」という思い込み(劣等感)を抱くようになります。

この「自分は劣っている」という感覚は、客観的な事実ではなく、作られた思い込み(フィクション)です。しかし、この劣等感から逃れるために、人は「優越」という架空の目標を立て、それに向かって努力を始めます。この「劣等から優越へ」という動きそのものが、ライフスタイルの基本構造となりますが、初めからピントがずれた努力に陥りがちです。

身体的な特徴(器官劣等性)、性別、生まれ育ち、経済状況、さらには家族や上司といった人間関係まで、本人と相手が納得しさえすれば、ありとあらゆるものが劣等コンプレックスの材料となり得ます。現代社会では、特に「老い」がネガティブなものと捉えられ、高齢者が大きな劣等感を抱えやすい状況にあります。

人が劣等コンプレックスを人生の主要な方針として用いるようになると、それは「神経症」と呼ばれます。神経症的な人とは、劣等コンプレックスを実践し、自分が作り出した口実に完全に騙されている状態です。アドラーはこの状態を「犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている」と表現しました。この自己欺瞞のサイクルに囚われている限り、人生の問題の真の解決には至りません。

劣等コンプレックスから抜け出すためには、まず、その自己欺瞞の輪から一歩外へ出ることが必要です。

  • 共同体への貢献
    内向きの関心を外に向け、他者や社会に貢献すること(プラスになることを始める)が、サイクルを断ち切る鍵となります。
  • 「劣等」という幻想への気づき
    私たちが抱く「劣等感」は、社会全体が共有する壮大な誤解に過ぎないと理解すること。
  • 「勇気づけ」
    また「勇気づけ」は、子どもが劣等コンプレックスを使って生きる選択をすることがないようにするために重要です。たとえば、子どもが貢献してくれたことに対して感謝を感じたなら「お手伝いありがとう」「あなたがいると助かる」といった言葉を伝えることもできます。こうしたことよって子どもは、自分は他者の役に立つ存在であると感じられ、自分の力を他者のために使う勇気が生まれることでしょう。

つまり、能力の優劣という幻想の物差しから降り、他者と対等な立場で協力関係を築いていくことが、劣等コンプレックスを克服する唯一の道と言えます。

一方、「優越コンプレックス」は、劣等感の裏返しとして、あたかも自分が優れているかのように振る舞うことで、劣等感を隠そうとする状態です。自慢話を繰り返したり、他者を見下したり、権威を誇示したりする行動がこれにあたります。どちらも他者との調和を欠き、対人関係の摩擦を生じやすいあり方です。また「優越コンプレックス」は、対人関係において片方が相手への劣等感を過補償し、それに対して相手がさらに大きな劣等感を持ち、それを過補償し、といったように繰り返されることで、両者の争いが際限なく拡大していく原因でもあります。

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アドラー心理学における「補償」とは、人間が持つ劣等感を克服し、より完全な状態を目指そうとする努力や行動のことです。例えば、身体的に虚弱だった人が熱心に運動して健康な身体を手に入れたり、ある分野でうまくいかなかった人が別の分野で成功を収めようと努力したりすることが補償にあたります。アドラー自身も幼少期にくる病を患い、弟の死を経験したことなどから劣等感を抱きましたが、それを契機に医学を志し、偉大な心理学者となりました。補償は人間の成長と発展に不可欠なプロセスであり、建設的な形で行われる限りにおいて、人生を豊かにする力となります。ただし、補償の方向性や手段が適切でなければ、個人にとって、あるいは共同体にとって破壊的な結末に至ることもあります。

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「ライフスタイル」とは、一般的に使われる「性格」や「人格」に相当する、アドラー心理学の中心的な概念です。アドラーが「性格」や「人格」という言葉を使わなかったのは、「性格」という言葉が持つ遺伝決定論的なニュアンスと、「人格」が持つ、逆に遺伝的要因を軽視しすぎるニュアンスの両方を避けるためでした。また、アドラー心理学では、ライフスタイルは遺伝や環境に影響はされるものの、それらによって一方的に決定されるわけではないと考えます。この独自の立場を明確にするために、「ライフスタイル」という言葉が選ばれました。

次に、ライフスタイルの形成過程についてですが、ライフスタイル形成における最も重要な原則は、子ども自身が主体的な「選択」によってライフスタイルを選び取るという点です。子どもは以下の3つの方法を通じて世界を学び、自らの生き方(ライフスタイル)を能動的に構築していきます。

  • 試行錯誤:様々な行動を試し、その結果(親や兄弟に受け入れられたか、願いが叶ったかなど)から、うまくいく方法を法則として自ら発見します。
  • モデル(模倣):親や兄弟、物語の登場人物など、他者の行動を真似ることで学びます。
  • 言葉:親や教師から話を聞いたり、本を読んだりして、言語を通じて学びます。

いずれの方法においても、子どもは教えられたことをそのまま受け入れるのではなく、自分が学びたいことを選び取って、自身のライフスタイルを形作っていきます。子どもがライフスタイルを「選択」する上で、特に大きな影響を与えるのが「家庭環境」と「きょうだい関係」です。

「家庭環境」は人間が人間らしく育つための最も基礎的な共同体であり、家庭を破壊することは健全なライフスタイル形成を著しく阻害します。

「きょうだい関係」ですが、アドラーは、親よりもきょうだいの影響を重視しました。なぜなら、いってみれば親は獲得すべき「賞品」であるのに対し、きょうだいは同じ賞品を奪い合う「競争相手」に位置し、生き方の作戦(ライフスタイル)を立てる上でより決定的な影響を与えるからです。アドラーによると、誕生順位によって以下のような典型的な傾向が見られるとされます。

  • 第一子(長子):親の愛情を独占した後に王座を奪われる経験から、賢さや能力を誇示する、あるいは乱暴になるといった作戦をとる傾向があります。
  • 中間子:注目を独占した経験がなく、家の中より外に活路を見出したり、人間関係の中で自分の位置を確保するために工夫を凝らしたりします。
  • 末子:常に年長者に囲まれ、可愛がられる術を身につけますが、主体性に欠ける可能性があります。
  • 一人っ子:末子に似ていますが、競争相手がいないため、許される範囲の「限界」を知らない傾向があります。

なお、誕生順位によるこうしたライフスタイルの傾向は、単に一つの例であって可能性にすぎないものです。個人のライフスタイルはその人独特のものであるが故に、誕生順位以外の様々な情報を知ることによってはじめて個人のライフスタイルを理解することができるのだとアドラー自身が述べています。

たとえば、性別やきょうだい間の年齢差、個々の子どものリソースによってもまったく違ってきます。親の影響としては、親の持つ価値観すなわち「家族の価値」や、家族の価値を伝える方法としての「家族の雰囲気」があります。また、家庭以外でライフスタイルに影響を及ぼす要因としては、学校や、その他ライフスタイル形成期に子どもが所属する集団や、子どもが接する様々な情報(メデイア、出版物、インターネットなど)も、ライフスタイル形成に影響を与える要因となります。

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「私的感覚(Private Sense)」とは、個人が持つ独自の「こうあるべきだ」「こうなったら素晴らしい」という感覚に基づく、多くの場合無意識に行われる「価値判断」のことです。これは、ある出来事や状況に直面した際に、「何が良いこと(プラス)で、何が悪いこと(マイナス)か」を瞬時に判断する、個人の行動の背後にある「黒幕」のようなものです。

この感覚は、具体的な出来事の中で次のように機能します。

  1. ある出来事が起こると、人は無意識に自分の「私的感覚」に照らし合わせます。
  2. その出来事が理想から外れている(マイナス面)と判断されると、「劣等感」が生じます。これは「他人より劣っている」という意味ではなく、「自分の理想と現実とのギャップ」を指す感覚です。
  3. この劣等感は具体的には、不安、怒り、後悔などといった「陰性感情」として感じられます。
  4. そして、その理想と違う状況を解決し、理想の状態(プラス面)に近づけようとする「対処行動」が引き起こされます。

そのため、ある人の「私的感覚」を理解するためには、まず具体的な「エピソード(一回限りの出来事)」の分析から始めます。そのエピソードにおいて陰性感情が最も強いところや、あるいはエピソードの中で初めて陰性感情が出たところ、続いていた陰性感情が急に強まったところなど、「そのエピソードが一番ドラマティックに展開をみせたところ」を起点に、以下の3つの要素を分析します。

  • ライフタスク (Lifetask / LT):
    その「対処行動」を取らなければならなかった問題状況のこと。私的感覚のマイナス面に触れた出来事。この状況にある時、人は「劣等感」(理想と現実のギャップ)を感じます。具体的には陰性感情(不安、怒り、後悔など)として感じられます。
  • 対処行動 (Coping Behavior / CB):
    問題を解決するために、その人が具体的に取った行動のこと。
  • 仮想的目標 (Fictional Goal / FG):
    その「対処行動」の先に期待している理想的な解決イメージのこと。私的感覚のプラス面が現れたもの。その人が「こうなれば素晴らしい」と考える、キラキラした理想のイメージ。

これら3つの要素は、「私的感覚」という一つの価値判断から生まれ、「私的感覚」によってお互いに結びついています。つまり「私的感覚」とは、その個人固有の「およそ人たるもの(=自分も相手も)~であるべきだ」といった感覚に基づく、「【仮想的目標】はプラスであり、【ライフタスク】はマイナスであり、【対処行動】がマイナスからプラスに進むための手段である」という、プラスとマイナスの両側面を持つ価値判断の体系ということができます。

そして、私的感覚から生まれる「仮想的目標」は、以下の2種類に分けられます。

  • 競合的な目標
    相手と自分を比べ、優劣や善悪などを決めようとする目標。これは相手を「劣っている」「間違っている」と裁くことになるため、対立を生みやすくなります。
  • 協力的な目標
    相手と共通の目的に向かって協力しようとする目標。

人間関係のトラブルは、多くの場合「競合的な目標」を持つ私的感覚から生じます。その場合、解決のためには、目標をより「協力的なもの」へと作り直す必要があります。

次に「私的感覚」と「ライフスタイル」の関係ですが、「ライフスタイル」とは、個人のパーソナリティ全体を貫く、より根源的な思考・行動パターンのことです。アドラー心理学ではある個人が出来事に際して持つ、「ライフタスク→対処行動→仮想的目標」といったような考え方の流れを「私的論理」と呼んでいますが、これが個別のエピソードにおける表層的な反応パターンだとすれば、「ライフスタイル」はその背後にある深層構造といえます。また、ある個人の複数のエピソード(現在の複数の出来事や後述の早期回想)で共通して見出される、その個人に一貫するといえる「私的感覚」を「私的意味づけ」と呼びますが、そこに端を発して動いている根源的な思考パターンこそが「ライフスタイル」なのです。

レベル価値判断の体系考え方の流れ
(LT → CB → FG)
表層(個別のエピソード)私的感覚 (Private Sense)私的論理 (Private Logic)
深層(パーソナリティ全体)私的意味づけ (Private  meaning)ライフスタイル (Lifestyle)

「私的感覚」と「ライフスタイル」は以上のような関係にあります。

なお、ライフスタイルを分析する上で非常に有効なのが、「早期回想(小学校卒業くらいまでの、感情を伴う鮮明な子ども時代の記憶)」です。早期回想を分析する理由は以下の2つです。

  • 現在のエピソードと、時間的に遠く離れた子ども時代の思い出に共通のパターン(私的感覚、私的論理)が見つかれば、それは一時的なものではなく、その人の生き方全体を貫く「ライフスタイル」である可能性が高まります。
  • 人がわざわざ記憶し続けている数少ない子ども時代の思い出には、「この世とはこういうものだ」「自分はこういう人間だ」といった、自分自身、他者、世界に対するその人の根本的な意味づけ(「私的意味づけ」)がよりシンプルに表されていると考えられます。

早期回想の分析方法は、現在のエピソードの分析と全く同じ(LT→CB→FG)です。こうして複数のエピソードから「私的感覚」を分析し、その共通項を探ることで、個人の「ライフスタイル」が明らかになります。

このライフスタイルは固定的なものではなく、書き換えることが可能です。それには以下の3つのステップを繰り返すことが有効です。

  • 理解 (Understand):
    エピソード分析を通じて、自分の「私的感覚」や「私的論理」のパターン(例:「私はいつもこうやって失敗しているな」)を言葉にして理解する。
  • 行動 (Act):
    理解に基づいて、より協力的な目標や、より適切な対処行動を意識的に試してみる。
  • 成功 (Succeed):
    新しい行動によって、実際に関係がうまくいくという成功体験を積む。

この「理解→行動→成功」のサイクルが学習となって働き、個々の「私的感覚」がより協力的なものに修正され、最終的には根源的な「ライフスタイル」そのものが、より良い方向へと書き換えられていくのです。ただし上記の過程から明らかですが、これは自分ひとりで行えることではなく、周囲の協力と本人の努力があわさり、初めて可能となるものです。つまり、これは個人の成長過程であるとともに、個人が共同体に参加し、相互に貢献していく過程でもあるのです。

Category: 主要概念

「私的論理」とは、個人が独自の価値観、思い込みに基づいて、自分自身や世界、他者について考える際の、その考え方(論理)のことです。人は私的論理の大前提となっている、その個人特有の価値観つまり私的感覚から、「わるい」状況と判断されるライフタスクを劣等感をともないながら認識するとともに、それに対する「よい」状態といえる仮想的目標を導き出して、この目標へ進むための対処行動を結論づけます。以上の過程での思考の流れを、「私的論理」と呼びます。多くの場合、私的論理による結論は個人的には「正しい」判断だと思われていますが、必ずしも客観的・普遍的な妥当性を持つわけではありません。

一方、「共通感覚(コモン・センス)」とは、ある社会や共同体の中で広く共有されている考え方や価値観、つまり、いわゆる常識を指し、個人特有の価値観を指す「私的感覚」と対応関係にあります。私的感覚が共通感覚から大きく逸脱している場合、対人関係の困難や不適応が生じやすいと考えられますが、ただし共通感覚もまた、共同体内で多数説であるからといって、必ずしも正しいとは限りません。歴史にみられるように、共同体全体が誤った考えにとらわれていることもあるのです。そこでアドラー心理学では、人々の暮らしの中でたえず再検討されながら、より大きな共同体にも有益かどうかを問う「共同体感覚」を強調します。

Category: 主要概念

アドラー心理学における「ライフタスク」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で、直面せざるを得ない「課題」を指します。タスクといっても、その人の抱えるいわゆる「やるべきことリスト」のことではなく、個人の精神的な健康や幸福、そしてその人の生き方そのもの(ライフスタイル)と深く結びついた、包括的な概念です。

アルフレッド・アドラー自身が明確に提唱したのは、以下の三つのライフタスクです。このどれもが対人関係であることは、とても重要な点といえます。この分類は、主として関係の継続性に基づいています。

  • 仕事のタスク:生計を立てるための職業活動、学業、家事など、生産性に関わるあらゆる活動を指します。社会の一員として貢献し、自分の居場所を確保するための基本的な課題です。
  • 交友のタスク:友人関係や地域社会との関わりなど、恋愛や家族関係以外のより広い対人関係を指します。他者と協力し、社会的なつながりを築く能力が問われます。
  • 愛のタスク:パートナーシップや親子関係といった、最も親密な対人関係を指します。ライフタスクの中で最も困難なものとされ、深いレベルでの信頼と貢献が求められます。

これらのタスクは多くの場合、実生活において、現実と、本人が理想とする状態(仮想的目標)とのギャップとして現れます。そのため「課題」として認識される際には、「劣等感」、具体的には不安、怒り、後悔などといった陰性感情を伴うことが一般的です。

これらの課題にどのように取り組み、そこで他者とどのように協力していけるかは、その人の人生のあり方と不可分といえます。アドラー心理学のカウンセリングでは、個人がこれらの課題にどう向き合い、困難を乗り越えていくか、について話し合います。また、必要に応じてその人の「ライフスタイル」を分析し、より根源的な解決策を見出すことを目指します。

なお、これらに加えて、アドラー派の論者によっては「自己との課題」「スピリチュアルな課題」などを加えることもあります(ハロルド・モザックによる提唱)。

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アドラー心理学では、共同体のメンバーが人生の課題に遭遇したときに、その課題に責任をもつ本人が対処するのに加えて、必要に応じてその課題を共同体における「共同の課題」としてとらえ、他のメンバーも協力してそれに対処しようと考えます。しかし、そうした分担を的確に行うためには、共同体のメンバーの間で、その課題が誰のどのような課題であるかについて、あらかじめ明らかでなくてはなりません。

実は、それを明らかにする作業こそが、いわゆる「課題の分離」なのです。「課題の分離」とは、共同の課題を作るための準備段階として、その課題に関する結末が最終的にふりかかるのは誰か、という観点から、その課題が本来誰の課題であるかを判断するものです。

例えば、「子どもが勉強するかどうか」という課題は、本来は子ども自身の課題であるはずです。なぜならば、子どもが勉強するにせよしないにせよ、それによって左右されるのは、他ならぬ子ども自身の将来だからです。だとすると、宿題をしないことで親自身が感じる不安を解消したいなどの理由で、子どもの考えを聞いたり話し合ったりせずに、ひたすら叱責して宿題をやらせようとしたり、勉強の仕方に一方的に口を出したりすることは、「育児」としては筋違いといえないでしょうか。つまりそれで成績は伸びたとしても、果たして子ども自身は成長するのでしょうか。

「課題の分離」をせずに、子どもの課題を勝手に肩代わりすることは、自分のなすべきことを自分でやりとげる、あるいは誰かと協力してやりとげるという貴重な機会を子どもから奪ってしまうことに他なりません。そのため、課題への対処を子ども自身に任せる場合も、あるいはすべて子どもだけに任せず、共同の課題にする場合にも、あらかじめそれらについて、子どもとよく話し合わなければなりません。子どもがその課題についてどのように考えているのか、なにか助力を必要としているか、などについて子どもの話をよく聴き、子どもがしてほしいことで親ができそうなことを具体的に親子で話し合って決めていくのです。

なお、こうして課題について話し合いをした後も、常に子どもを見守って、場合によっては共同の課題を作り直す、という作業が必要となります。一度課題を分離したらもうそれっきりで、「あなたの課題だから」と終わりにしてしまうのなら、それでは単なる、無責任な放任育児になってしまいます。

ちなみに課題の分離について、アドラー心理学でもっとも重要な技法だと紹介されることがあるようですが、それは誤りです。重要ですが、最重要ではありません。それよりも大事なのは、課題を分離した後の共同の課題をつくる過程であり、さらに大事なのは、そうして課題を分担し合い、協力しあってともに幸せに暮らすことです。繰り返しになりますが、課題の分離とはそれらの準備段階としてデザインされ用いられている技法であって、そこで終わってしまってはアドラー心理学とはいえません。

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「勇気づけ」とは、相手がより共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。ある働きかけが実際に相手において、人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼ぶことができるのです。

「勇気づけ」は、まず働きかける側が自分から、人々との競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは「縦の関係」を抜けて「横の関係」で生きる決心をすることから始まります。なぜならば、一方的な働きかけでもなければ他人事でもない、ともに貢献し合う仲間同士としての働きかけであってこそ、相手を勇気づけることができるからです。

「勇気づけ」の技法としては、「子ども(相手)の話を聴く」ことや「お願い口調」という話の仕方、「課題の分離」、あるいは貢献や協力に注目する、過程を重視する、すでに達成できている成果を指摘する、失敗をも受け入れる、個人の成長を重視する、相手に判断をゆだねる、肯定的な表現を使う、「私メッセージ」を使う、「意見言葉」を使う、感謝し共感する、といったように様々なものがありますが、このどれもが現実の対人関係の中での、心からの相手への働きかけであることをけっして忘れてはなりません。これらは、単に言葉をなぞっただけの形だけのものになってしまえば、なんの役にも立たないばかりか、逆効果になることも少なくないのです。

すなわち「勇気づけ」とは、いわゆる「声がけ」や褒め言葉といったような小手先のテクニックなどではなく、人間への深い尊敬に基づいた包括的な哲学であり、生き方そのものといっても過言ではありません。「勇気づけ」の実践は、言葉への感性を磨き、対話のプロセスを大切にし、自らの感情をコントロールし、相手の貢献を信じてその機会を作り出す、たゆまぬ日々の心がけと努力の中にあります。それは、相手と私たち自身の人生を豊かにする、生涯をかけた学びの道程なのです。

こじれたコミュニケーションの5つの段階

アドラー心理学では、子どもの不適切な行動(問題行動)に対して、その行動自体を罰したり禁止したりするのではなく、背景にある理由を理解しようと努めます(ただし、他者に危害が及ぶなど緊急避難が必要な場合は、その限りではありません)。

子どもが不適切な行動をする理由はいくつも考えられますが、R.ドライカースは、子どもがこうした行動を人びとの間に居場所(所属)を得る目的で起こすことがあると考え、これらの行動とその目的を以下の4段階に分類しました。

  • 注目・関心を引く
  • 権力争い
  • 復讐する
  • 無能力を誇示する

その後、野田をはじめとする多くの現代の研究者は、上記の最初の段階として

  • 賞賛を求める

という項目を追加しています。

それぞれの段階における基本的な対応は、それらの行動とは別の建設的な方法で所属を得ることができると子どもに学んでもらえるよう、親や周囲の大人、あるいは専門家などから勇気づけを行うことです。

ただし注意しなくてはならないのは、ある子どもが上記の段階のうちのいずれかの振る舞いを見せたとしても、別の場所や異なる相手に対しては、全く違う振る舞いをすることが少なくないという点です。ドライカースは各段階での子どもの行動とその目的を「子どもの行動の誤った目標」と呼びました。しかし野田は、この呼び方では、親などの大人の「子どもの行動がこのように不適切(=私の判断は適切)」だという受け止め方を招き、子どもを一面的にかつ一方的に裁くことにつながりかねないと懸念したのです。

野田は、ある大人に対して子どもがそうした振る舞いをするのは、その大人と子どもの間に、そのようなコミュニケーションの構造があるからだと指摘します。この5つの段階についても、「こじれたコミュニケーションの5つの段階」として説明しました。つまり改善すべきなのは、親と子どもの競合的なコミュニケーションのあり方であって、その一環として、子どもにも建設的な所属の仕方を学んでもらうのです。したがって、そこで学ぶべきなのは子どもだけではありません。

なお、不適切な行動の理由は、ここで述べたコミュニケーションの問題以外にも考えられます。たとえば発達段階の途上で、何が不適切な行動かを知らない場合。不適切だと知っていても、どうすればよいか分からない場合。あるいは、障がいを原因とする様々な困難を抱えている場合などです。これらの要因を除外した上で、はじめてこの「こじれたコミュニケーションの5つの段階」を検討していくことになります。

こじれたコミュニケーションの5つの段階(子どもの不適切な行動の目的)、その第一段階が「賞賛を求める」です。子どもは大人(特に親や教師)に褒められることで集団の中に居場所を確保しようとして、「適切な行動」をとろうとします。つまり、「褒められない自分には価値がない」という考えに基づいているため、これはすでに勇気がくじかれた状態と捉えられます。ここで注意すべきは、子どもが適切な行動そのものではなく、それによって賞賛されることを重視しているという点です。

こうした子どもの行動は、表面上は不適切な行動に見えません。大人は当初、こうした行動に喜びなどの陽性感情を抱き、褒めてあげたいと感じるものです。しかし、子どもが繰り返し賞賛を求めてくると、次第にそれを煩わしく感じるようになっていきます。そして、子どもは賞賛が得られなくなると、ただちに適切な行動をやめてしまいます。子どもを褒めて育てる場合の弊害がここにあります。しかし、だからといってここで単純に褒めるのをやめてしまったり、あるいは子どもが競争に負けるなどして賞賛を得られなくなったりすると、次の段階の行動に移行してしまう可能性があるのです。

ここでの対応として重要なのは、子どもが賞賛のために行っている行動を褒めるのではなく、その子が意識せずに行っている共同体への貢献的な行動に注目することです。その子自身が「(褒められなくとも)自分には価値があり、ここに居場所がある」と感じられるよう、援助していくことが求められます。

子どもの不適切な行動の目的、その第二段階が「注目・関心を引く」です。これは、子どもが良いことで注目されない、あるいは普通にしていても注目されないと感じたときに、悪いことや困った行動をすることで、大人(特に親や教師)の関心を引こうとする行動です。例えば、わざといたずらをする、大声で騒ぐ、ふざけるといった、大人の側でうるさく感じられ、つい介入したくなるような行動がこれにあたります。注意をすると子どもはその行動をいったんやめますから、大人の方はイライラしますが本気で腹は立ちません。

ここで子どもは「自分には良いことができないし、普通にしていても誰にも見てもらえない。こんな自分には価値がない。」と感じているので、これもまた勇気がくじかれた状態といえます。このような状態にあっては、「無視されるよりは怒られる方がまだマシ」なのです。

ここまでの段階では、子どもはまだ比較的肯定的な注目を求めているため、大人からの適切な関心や承認、そして勇気づけを通じて、より建設的な方法で所属を得るように促すことができます。適切な行動に対して注目しつつ、不適切な行動に対して注目しないという関わり方が基本となります。ただし、単に無視したり罰したりするだけでは、注目によって居場所を得ようとする子どもの目標は達成されません。子どもは自分には価値があるとますます思えなくなって、さらに次の段階の行動に進んでしまう可能性があります。 

不適切な行動の目的、その第三段階が「権力争い」です。前の段階である「不適切な行動で注目・関心を得る」を試みても、所属が得られないと感じたり、自分には価値があると十分感じられなかった場合にこの段階に進みます。つまり、大人が子どもの行動をコントロールしようと罰を用いたり強制したりした場合に現れやすくなります。子どもは、大人に勝たないと自分には価値がなく、自分の居場所がないと感じます。そこで大人に対して反抗的な態度をとったり、指示に従わなかったり、わざとルールを破ったりすることで、自分の力を示そうとします。

この段階は、大人の側では腹立たしく感じられますが、だからといって正論や力で押さえつけようとすれば、子どもの抵抗はさらに強まり、いわゆるケンカに陥ってしまいます。重要なのは、コミュニケーションが権力争いの形になってしまったことに気づいたら、その争いから降りることです。もしどうしても感情的になる場合にはその場を離れ、冷静になってから改めて話し合うことが大切です。その際には、大人が自分の意見を言う前に、相手の話を裁かず十分に聞くこと。そして、子どもの行動の適切な側面を探したり、子どもはそもそも何を解決したかったのかを考え、そのために大人が協力できることはないか相談したりすること。これらが、こじれたコミュニケーションを改善するために重要となります。

不適切な行動の目的、その第四段階は「復讐する」です。これは、第一段階「賞賛を求める」、第二段階「注目を得る」、第三段階「権力争い」といったいずれの行動でも、所属感や自分には価値があるという感じが持てず、大人から傷つけられたり、不当な扱いを受けたと感じたりした場合に現れます。子どもは、直接的には相手に勝てないと悟ると、間接的な方法で相手を傷つけようと試みます。つまり、自分を傷つけたと認識している相手に対し、意図的に相手が嫌がることや困ることを仕掛け、仕返しをしようとするのです。例えば、物を壊す、嘘をつく、陰湿ないじめをするといった行動です。非行に走ったり、神経症的な症状を出す事もあります。

この段階の子どもは深い絶望感や憎しみを抱いていることがあり、その場合、罰や叱責はもちろん、普通に話しかけることさえ、かえって復讐心を煽るだけとなります。大人の側も深く傷つくことの多いこの段階は、もはや当事者どうしでは解決できません。そのため、こじれたコミュニケーションは、一つ前の「権力争い」の段階で止めておく事が極めて重要となります。この復讐の段階では、第三者であるカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入が必要になります。あるいは第三者でこの子どもと良好な関係を築いている大人がいれば、その方の援助を仰ぐ方法があります。

不適切な行動の目的、その第五段階は「無能力を誇示する」です。これは、それまでの段階(賞賛・注目、権力争い、復讐)を経ても所属している感じが得られず、自分には価値がまったくないと感じている状態を指します。何をしても無駄だと深く絶望し、あらゆる建設的な努力を放棄してしまい、「自分は無価値で役に立たないんだから、あきらめてほっといてくれ」という態度を示すのです。極端な場合には、犯罪を繰り返したり、深刻な精神的症状によって入退院を繰り返すといった状態に至ることもあり、親の側としてもそうした行動に絶望してしまうことは少なくありません。

この段階にある子どもへの対応は極めて難しく、家庭内での働きかけよりも、専門的なトレーニングを受けたカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入、あるいは医師による診断と治療、またはその両方が不可欠となります。

  • 「不適切な行動に注目しない」とは?

多くの人が誤解しがちなこの言葉の本当の意味は、「子どもの不適切な行動に対して、怒りや不安といったネガティブな感情で対応しない」ということです。決して、子どもを無視したり、見て見ぬふりをしたりすることではありません。アドラー心理学では、感情は「思考」をもとに生じると考えます。たとえばある出来事に対して「これは大変だ」「許せない」と考えると、不安や怒りといった感情が湧き上がってくるのです。親(あるいは教師)がこうした陰性感情(ネガティブな感情)を持っていると、子どもを勇気づけることはできず、建設的な話し合いもできません。怒りに任せて叱っても、問題がこじれるだけです。

感情的にならず、冷静に「その行動は適切ではないと思うよ」「どうしてそうしたのか話してくれる?」と問いかけ、対話することは、不適切な行動に注目することにはあたりません。ここでは理性的に関わることが重要となるのです。そして、そうした関わり方のためには、まず親自身が、普段から子どものよいところやよい思いをさがすなどをして、子どもの行動を別の見方で捉えられるようになる必要があります。

しかし、物事の捉え方(その物事への意見、意味づけ、考え方)を変えることは簡単ではありません。なぜなら、人が物事を捉える際には、その人独特の、凝り固まった価値観を基準としているからです。物事の捉え方を変えるためには、まず自分独特のものの見方を知ること、そして、そうした自分の物の見方以外にも、他の見方もできるかもしれない、と考えてみることが大切になります。そのようにできて初めて、実際の子どもとのコミュニケーションのなかで、子どもの行動に動揺せず、子どもの良い意図を探し、よいところを見つけ、子どもに何を学んでもらいたいか考え、冷静に対応できるようになるのです。

とはいえ、その場でどうしても感情的になってしまうこともあるでしょう。そのようなときは、陰性感情をぶつけて関わるより、文字通り「注目せず」に、距離を置く方が賢明です。つまり、その場を離れて冷静になる工夫をするのです。ただしこれは、あくまで一時的な経過措置にすぎません。大切なのは、冷静になったあとで子どもの話に耳を傾け、必要であれば話し合うことにあります。

  • 「適切な行動に注目する」ことの目的

こちらも同様に、単に「良い行い」を見つけて褒めることとは異なります。そのような対応は、いくつかの危険性をはらんでいます。例えば、普段勉強しない子がたまたま勉強した時に「偉いね」と褒め続けると、子どもにとって「褒められること(ご褒美)」が目的になってしまうかもしれません。それでは、親が褒めなくなれば行動をやめてしまい、子どもは勉強をする本来の意味を理解する機会を失ってしまいます。

では、何に注目するべきなのでしょうか。注目すべきは、子どもの個々の行動の良し悪しではなく、子どもの成長、すなわち「人として望ましいあり方」の芽生えなのです。

アドラー心理学が考える育児の最終目標は、《共通感覚》と《共同体感覚》を持った人間に育てることにあります。

《共通感覚》
現在暮らしているその社会(例えば日本)で、良しとされる常識や価値観のこと。例えば「正直」「勤勉」「親切」といった徳目や、伝統的に受け継がれている様々な作法や美意識などは共通感覚にあたります。
《共同体感覚》
共同体にとってよいことを善とする考え方。自分とは様々な点で違っている他者と、どちらが上/下、優れている/劣っているなどを争うのではなく、お互いに協力しあって「自分も相手も幸福になるにはどうすればよいか」を考える視点です。

これらの目標をしっかりと持ち、子どもの日々の行動の中に目標に結びつく成長を見つけた時に心から喜び、その喜びを子どもと分かち合うこと。これこそが、子どもの適切な行動に注目するということなのです。例えば、「勉強した」という行動そのものに注目するのではなく、その背景にある「知ろうとする姿勢」や「将来、社会の役に立ちたいという思い」に気づき、それを喜ぶのです。そうした意味では、日常の中で「いまどんな本を読んでいるの?」「どんなことに関心があるの?」「どんな勉強してるの?」などといったように、子どもが関心を持っていることに親も自ら関心を持つことも、適切な行動への注目に結びついていきます。

アドラー心理学の育児は、「子どもをコントロールする技術」ではありません。親自身がまず、子どもにどう育ってほしいかという明確で建設的な目標を持つ。その上で、子どもの行動の中に、その目標につながるものを見つけたときに喜び、子どもが何かしら困難を抱えたときには、どうしたらよいかをともに考え目標に向かって少しずつ歩を進めていく。将来、子どもが社会に出たときに、周りの人びとと力を合わせて問題を解決していけるよう、工夫を重ねていくのです。こうして親子が共に成長していく「共同作業」こそが、「不適切な行動に注目せず、適切な行動に注目する」という言葉に込められた、アドラー心理学の深いメッセージなのです。

カウンセリングと応用

アドラー心理学のカウンセリングは、単なる悩みの相談や気休めではなく、クライアントがより良い人生を送るための「学び」のプロセスです。洞察を重視し、必要であれば助言も行います。
その原理、具体的なプロセスは明確に示されており、カウンセラーや心理療法士には、医療関係者と同等かつ、アドラー心理学のプロバイダー(供給者)としての倫理的責任が求められます。

アドラー心理学のカウンセリングや心理療法の最終目的は、クライアントが「協力」というあり方を学ぶことです。アドラー心理学では、人間関係における問題や不幸の唯一の原因は、物事を「競合」的に捉えることにあると考えます。競合とは、相手と自分とを比較し、善悪・良否・美醜といった基準で優劣を決めようとする心の持ち方です。「相手が間違っている、自分が正しい」と裁くこの態度は、人間関係を勝ち負けの闘争にしてしまいます。それに対して協力とは、優劣の比較をやめ、相手と対等な立場で、力を合わせて問題を解決しようとする心の持ち方です。アドラー心理学のカウンセリングや心理療法は、この「競合」的な生き方から「協力」的な生き方へと移行するための再教育の場ですが、カウンセリングでは主に「エピソード分析」を用いてライフタスクに関する問題を解決することを目標にし、心理療法では、「ライフスタイル分析」によってライフスタイルに関する問題を解決することを目標にします。セッションの始まりには「前回はどんなことを学ばれましたか?」最後には「今日はどんなことを学ばれましたか?」と問われ、この学びをクライエント自身が言語化する事によって再認識することを促します。

一般的にアドラー心理学のカウンセリングでは、ある日あるところで一度だけ起きた、陰性感情を伴う出来事の話(エピソード)を素材にします。エピソードの中でのクライエントの「思考」「感情」、「目標」を探し、分析します。そして、エピソードの中でクライエントがとった行動について、次に似たような場面があったら、エピソードでとった行動の代わりにそんなことができそうか、行動の代替案を考えます。この時出た代替案などが「宿題」となることがあります。

カウンセリングや心理療法で扱う人間の行動は、すべて「相対的マイナスから相対的プラスへの目標追求」という原理に基づいていると理解されます。人は、何か問題を感じる状況(相対的マイナス)に陥ると、それを解決し、より理想的な状態(相対的プラス)を目指して行動します。この「相対的プラス」の状態は、多くの場合、本人が無意識に抱いている非現実的で空想的な「仮想的目標」です。

この原理に基づき、カウンセリングは以下のステップで進められます。カウンセリングでは、この仮想的目標が「競合的」なのか「協力的」なのかを分析することがポイントになります。カウンセラーは、エピソードを聞き終えた時点で、このプロセス全体のシナリオを見通すこととができるよう、トレーニングが必要になります。

以下に示すのは、元来欧米の言語体系で構築されたアドラー心理学のカウンセリング手順を、日本語話者に理解しやすくやりやすく工夫した、『エピソード分析』の手順です。

  1. エピソードの聴取
    「ある日、ある所で、一回だけ起こった、陰性感情を伴う出来事」を、客観的な事実として正確に聞き取ります。これが分析の出発点となります。
  2. 対処行動の特定
    物語を最も大きく動かした、クライアント自身の具体的な行動や言葉を「対処行動」として特定します。
  3. ライフタスクの特定
    その対処行動のきっかけとなった、相手の言動を「ライフタスク」として特定します。
  4. 仮想的目標の言語化
    ライフタスクが理想的な形で解決された状態がどのようなものかを推量し、「仮想的目標」を言語化します。
  5. 協力的目標/競合的目標の判断
    明らかになった仮想的目標が、協力的目標(一緒に問題を解決する方向性の目標。相手も納得してくれそうな目標)または競合的目標(相手を裁いたり、上下関係を決めようとしたりする。実現すると自分にとってはうれしいが、相手は同じようにうれしいとは思ってくれなそうな目標)のどちらにあたるかを、クライアントと共に吟味します。
  6. 新しい行動計画の立案
    目標が協力的な場合は、その目標を達成するためにより有効と思えるような、対処行動の代替案(例:目標をそのまま相手に伝える)を考えます。
    目標が競合的な場合は、その目標を無理に達成しようとすると相手との関係が悪くなります。この場合は相手も納得してくれそうな協力的な目標を探し、その目標を達成するための、対処行動の代替案を一緒に探します。

なお、すべてのセッションの全過程を通じて基本となるのが、R.ドライカースの提唱した「治療的人間関係」、つまり、「相互尊敬、相互信頼、協力、目標の一致」という良い人間関係を終始築き、カウンセラー(心理療法士)とクライエントの共同作業を続けることです。アドラー心理学のカウンセリングは、教育的ではありますが、教示的ではありません。

アドラー心理学のカウンセラー(心理療法士)であるためには、まず自分自身の私的感覚や競合性を知り、日常生活でアドラー心理学の理論と思想にもとづいて物事を考え行動できるようになること、自分の私的感覚や私的論理を脇に置いて相手の話を聞いたり物事を考えられるようになることが必要です。

アドラー心理学のカウンセラーは、単なる技術者である「ユーザー」とは一線を画す、「プロバイダー(供給者)」として、以下の三つの重い倫理的責任を負っています。

  • 理論への忠実性:アドラー心理学の「基本前提」を正しく理解し、それを崩さずに伝える責任。もし同意できないなら「アドラー心理学」を名乗るべきではありません。
  • 思想の実践:「共同体感覚」という思想を、自らの実生活の中で実践し続ける責任。日常生活で競合的に暮らしている人に、協力的なカウンセリングはできません。
  • ムーブメントへの貢献:アドラー心理学を、より良い世界を実現するための社会運動(ムーブメント)と捉え、それに貢献する責任。これは、過去から未来にわたる世界中のアドレリアンに対する連帯責任を意味します。

この責任を果たすためには、海外の技法を文化的な風土を無視して輸入するのではなく、日本の文化に根差した実践(例:日本における「課題の分離」の重視など)が求められます。また、アドラーや他の先達の著作を「聖典」のように深く読み込み、その思想だけが人類を救済するというほどの確信と、自らの人生を懸けるほどの「覚悟」がプロバイダーには不可欠であるといえます。

「治療的人間関係」とは、カウンセリングにおける「良い相談関係」を指し、その構築のためにルドルフ・ドライカースが提唱した「四つの条件」がその核心となります。これは、カール・ロジャーズが提唱した「受容」や「共感」といった姿勢とは異なり、セラピスト側がより能動的に関わっていく点を特徴としています。カウンセリングが上手くいかない場合、その99%はこの四つの条件のいずれかが満たされていないからであり、したがってこれらは、セッション後に常に自己点検すべき極めて重要な実践項目となります。この「治療的人間関係」を構成する四つの条件は以下の通りです。

  1. 相互尊敬
    これは単に敬うことではなく、相手を「一回性(Einmaligkeit)」を持つ、かけがえのない「歴史的存在」として捉える、深く能動的な姿勢を指します。相互尊敬とは、語源である「re-spect(再び見る)」が示すように、相手を一人の人間として改めて見つめ直し、その人生の歴史全体を丸ごと掴もうとすることです。この姿勢を通じて、相手の現在の言動が、その人が生きてきた歴史の中で形成されたライフスタイルに根差していることを理解し、深いレベルで相手を尊敬します。
  2. 相互信頼
    これは、クライアントがどのような状態にあっても、その人の最も根本にある「健常で健康な適応努力をする力」を絶対的に信じることです。現在見られる不適切な行動(神経症的策動)は、その人の健康な努力が過去の関係性(例:親子関係)の中で破綻した結果であり、本質的にその力自体が失われたわけではないと理解します。これは精神科医療のような困難な現場で特に不可欠な姿勢ともいえます。
  3. 協力
    これは、セラピストとクライアントが「共に働く(ドイツ語: Mit-arbeit)」という対等な共同作業を行う関係性を意味します。セラピストがクライアントを一方的に「癒す(ヒーリングする)」という縦の関係ではなく、「人生の一時期を共に歩む」という横の関係を築くことです。共に作業し、共に時間を過ごすことを通じて、クライアントのその後の人生に良い影響が残ることを願う、温かい関わり方を指します。
  4. 目標の一致
    これは、関係者間で「目標についての同盟」を結ぶという、意識的かつ契約的な関係を指します。日本文化に見られがちな「仲間だから」といった曖昧な関係ではなく、達成すべき目標、互いの役割、協力する範囲としない範囲を明確に言葉にして合意します。人間は一人では不完全で協力が必要ですが、その協力関係は明確な合意に基づかなければ、誤解やトラブルの原因になると考えます。カウンセリングの冒頭で「何を目標とするか」を合意することで、その後のプロセスが不当な介入や単なるお説教になることを防ぎ、生産的な協力関係を築きます。

「横の関係」とは、アドラー心理学における人間関係の理想的なあり方を示す重要な概念です。これはアドラー自身ではなく、彼の弟子であるリディア・ジッシャーによって提唱されました。この概念を深く理解するためには、その対極にある「縦の関係」との比較、そして「平等」と「同等」という言葉との正確な区別が不可欠です。

まず「縦の関係」とは、心の中に「価値観のはしご」を立て、その上で他者と自分を比較し、優劣を決めようとする心のあり方です。比較の基準は、善悪、良否、美醜など様々です。この関係性では、優れた者の席は一つしかなく、常に他者との競争状態にあります。自分が上に立つためには他者を蹴落としたり、自分が下にいると感じれば相手を罰しようとしたりします。

一方、「横の関係」とは「縦の関係」とは対照的に、心の中に価値のはしごがなく、人間としての価値に優劣をつけない関係です。人々がそれぞれ、協力したり、あるいは協力しなかったりしながらも(目標が違う場合など)、他者と比較することなく、対等な立場で自分自身の人生を生きている状態を指します。

「横の関係」は、しばしば日常語のイメージと混同され、誤解されがちです。「横の関係」は、社会や組織の構造がフラットであるべきだ、ということではありません。会社における上司と部下のように、権限や責任が異なる「縦の構造」は、組織が円滑に機能するために必要であり、それ自体は問題ではありません。問題なのは、その構造上の役割の違いを人間の価値の優劣と結びつけてしまう、心の中の「縦の関係」です。「上司は偉い、部下は劣っている」と考えるのが「縦の関係」であり、「横の関係」では、役割は違えど人間としては対等だと捉えます。

「横の関係」は、すべての人が「同等(同じ)」であることを意味しません。これは最も重要な区別点です。男と女、若者と年寄り、親と子などが、役割や責任の違いを無視して全く「同等」に扱われると、社会秩序はむしろ乱れます。それぞれの役割と責任の違いを認め、尊重し合った上で、皆に発言権があり、意見が汲み上げられる状態が真の「平等」です。

「横の関係」とは、社会的・組織的な役割の違いや責任の大小を認め、互いに尊敬しつつも、人間としての価値に優劣をつけず、対等な個人として関わっていく心のあり方です。それは、無責任に全員が「同じ」であると主張する「同等」の関係ではなく、それぞれの違いと役割を尊重した上で成り立つ、成熟した協力関係の基盤となるものです。

アドラー心理学の育児は、単に「褒めない、叱らない」という放任育児ではありません。親が圧力をかける代わりに、子どもが自らの行動の結果を体験し、そこから学ぶことを援助するアプローチを取ります。そのための具体的なコツは以下の通りです。

1, 【自然の結末】を体験させる

これは、親が直接介入するのではなく、子どもの行動が自然にもたらす結果をそのまま体験させる方法です。

  • 親は手出し・口出ししない
    例: 夜更かしをして朝起きられない、冷たいものを飲みすぎてお腹を壊すなど。親が無理に起こしたり、先回りして注意しすぎたりすると、子どもは学ぶ機会を失います。
  • 事前の「仕掛け」が重要
    例: 小学校に入学したら「自分で起きる権利」を与え、目覚まし時計をプレゼントする。その代わり親は起こさない、というルールを事前に子どもと話し合っておきます。これにより、子どもは自分の責任として朝起きることを学びます。
  • 親は動揺せず、子どもを信じる
    子どもが失敗しても、怒ったり心配しすぎたりせず、「この経験を通じて成長する」と信じる姿勢が大切です。
  • 問いかけで学びを促す
    失敗した後に「だから言ったでしょ」と責めるのではなく、「どうしてこうなったんだろうね?」「次からどうしようか?」と問いかけ、子ども自身に原因と対策を考えさせます。「賢いことを学んだね」と締めくくることで、子どもの学びを肯定します。

2, 話し合いでルール【社会的結末】を決める

暴力や他人に迷惑をかける行為など、自然な結果に任せておけない問題については、家族でルールを決めます。

  • 家族会議で民主的にルールを決める
    親が一方的に「命令」するのではなく、「こういうルールはどうかな?」と提案し、子どもたちの合意を得る形が理想です。子ども自身が考え、納得したルールは守られやすくなります。
  • ルールは全員が守る
    「親は例外」というルールでは、子どもは納得しません。帰宅時間などのルールは、親も守る姿勢を示すことが重要です。守れない場合は、その理由を説明し、代替案(例:「夕食に間に合わない時は電話する」)を約束します。
  • 実行可能なルールにする
    まずは「お試し期間」を設けるなどして、守れるルールかどうかを確認し、必要に応じて見直します。
  • 家族会議を儀式として楽しむ
    「家族会議」と銘打って少し形式張って行うことで、ルールに権威が生まれます。深刻にならず、楽しんで行うことが長続きのコツです。

3, 【選択できない可能性】には、選択肢をきっぱりと示す

喧嘩は子どもの課題ですが、暴力のように許されない行為(=選択できない可能性)には、親が介入します。

  • 感情的にならず、2つ以上の選択肢を与える
    例: 兄弟喧嘩で手が出そうになったら、「仲良く遊ぶか、一人で遊ぶか、どちらかを選んでください」と冷静に選択肢を提示します。
  • きっぱりと実行する
    子どもが「仲良く遊ぶ」を選んだにもかかわらず再び暴力をふるった場合は、「一人で遊ぶことを選んだ」とみなし、その場から引き離します。子どもが泣いても言い訳をしても、毅然とした態度を貫くことが重要です。

4, 冷静に話し合える親子関係が不可欠

上記のコツを実践する大前提として、親子が対等な立場で、冷静に協力して話し合える関係を築くことが不可欠です。

  • 関係が未熟なうちは「課題の分離」に徹する
    冷静な話し合いが難しい間は、無理に共同の課題にしようとせず、「それはあなたの課題だから、あなたに任せます」と伝え、手を出さずに(課題の分離)、優しく注意深くこどもの行動を見守ります。
  • 関係が成熟すれば「共同の課題」に取り組める
    親子が信頼しあえる対等な仲間になれば、不登校などの難しい問題であっても、「ちゃんとした大人になる、という目的のために、一緒に何ができるか考えよう」と、協力して解決策を探ることができます。

以下は専門的なカウンセリングの話ではありません。いわゆる世間一般でいう、「ちょっと相談に乗る」といった話です。これらは単なる聞き方のテクニックではなく、アドラー心理学に基づいた、相談相手が自らの力で問題を解決できるようになるための心構えと具体的な手法です。

相談に乗る前の大前提と心構え
まず、具体的な技術に入る前に、相談に乗る上で最も重要となる3つの前提があります。

  1. 相談は「契約」である
    最も基本的なルールは、相手からの明確な要請なしにアドバイスを始めないことです。「相談に乗ってほしい」「意見が欲しい」という双方の合意(契約)があって初めて、相談は成り立ちます。いきなり「こうした方がいい」と助言するのは、相手の領域に踏み込むルール違反です。
    また、これは相談を受ける側にも言えることで、自分の専門外であったり、対応が難しいと感じたりした場合は、無理に引き受けず断る権利があります。
  2. 相手を信じ、解決を「委ねる」姿勢を持つ
    相談に乗る側が陥りがちな間違いは、「自分が相手を助けてあげなければ」「正しい道に導いてあげなければ」という支配的な考え方です。
    重要なのは、「相手は自分の力で問題を解決できる能力がある」と心から信じること、です。相談に乗る者は、あくまで選手本人ではなく「コーチ」です。試合に出るのは相手自身であり、私たちはその人が力を最大限発揮できるよう手伝うだけで、代わりに問題を解決することはできません。この信頼関係がなければ、本当の意味での援助は不可能です。
  3. 相性がすべてであると知る
    医者選びと同じように、相談においても相談する側とされる側の「相性」が非常に重要です。どんなに優れた専門家でも、相性が合わなければ良い結果にはつながりません。もし相手が自分に合わないと感じているようであれば、無理に関係を続ける必要はありません。お互いに「この人とならやっていける」という感覚が大切です。

すべての土台となる「良い人間関係」の築き方
良い相談は、良い人間関係という土台の上にしか成り立ちません。テクニック以前に、以下の4つの条件を満たす関係を築くことが不可欠です。

  1. 相互尊敬
    相手を「間違っている」「劣っている」と裁くのではなく、一人の対等な人間として敬意を払うことです。たとえその行動が問題に見えても、「その人なりに、自分の理想に向かって一生懸命生きている」という善意を認めます。
    重要なのは、「人格」とその人の「行為」を分けて考えることです。ある「行為」が問題であっても、その人の「人格」を否定してはいけません。
  2. 相互信頼
    前述の「相手を信じる姿勢」と同じです。相手の能力を信頼し、課題を乗り越える力を信じ、最終的な決定を本人に委ねます。
  3. 協力
    上下関係で「指導する」のではなく、対等な立場で「役割分担」をしながら、共通の目標を目指すことです。相談に乗る側と乗られる側では役割が違いますが、人間としての価値は全く同じ「平等」な関係です。
  4. 目標の一致
    「この相談がどうなったら成功(終了)なのか」というゴールを最初に共有することです。「夫婦関係を修復したいのか、それとも円満に離婚したいのか」など、目指す方向性を最初に明確にすることで、建設的な話し合いが可能になります。

問題を深く理解するための具体的な分析手法
良い関係を築いた上で、以下の手法を用いて問題を分析していきます。

  1. 「エピソード」に焦点を当てる
    「いつも夫が冷たい」といった漠然とした話(レポート)ではなく、「昨日の夜、こんな出来事があった」という具体的な一度きりの出来事(エピソード)を詳しく聞きます。具体的な状況の中にこそ、問題の本質が隠されています。
  2. すべての行動を「目的」から理解する(目的論)
    人の行動を「何が原因か(原因論)」で見るのではなく、「その行動によって、どんな目的を達成しようとしているのか(目的論)」という視点で見ます。
    すべての行動は、本人が無意識に「今より少しでも良い状態になりたい」という目的(仮想的目標)のために行われています。不登校も、いじめも、夫婦喧嘩も、その行動を取ることで本人が得ている「良いこと」が必ずあります。
  3. 目標の種類を「競合的」か「協力的」か見極める
    相手の「仮想的目標」を分析する際、それがどちらのタイプかを見極めることが重要です。
    競合的な目標
    「どちらが正しいか/間違っているか」「どちらが善か/悪か」を決め、相手を打ち負かし、裁こうとする目標です。これは人間関係を破壊するだけで、何の解決にもなりません。この場合、「そのやり方では、あなたの本当の望みは叶わないのではないか?」と問いかけ、相手を裁くことの不毛さに気づいてもらう必要があります。
    協力的な目標
    相手を裁く意図はなく、純粋に関係を良くしたいと願っているが、うまくいっていない場合です。この場合、目標自体は素晴らしいものとして肯定します。問題なのは、その目標を達成するための「手段(対処行動)」が間違っていることです。(例:夫に早く帰ってきてほしいのに、不機嫌な態度で責めてしまう妻)

解決へ導くための最終ステップ
分析を通じて問題の構造が明らかになったら、最後は相手が自ら一歩を踏み出せるように援助します。

  • 複数の「選択肢」を提示し、相手に選んでもらう
    「Aというやり方とBというやり方がありますが、どちらを試してみたいですか?」というように、具体的な選択肢を提示し、最終的な決定を相手に委ねます。
    (例:「ご主人が帰りたくなるような家作りを工夫してみますか?それとも、今まで通り不満を伝え続けますか?」)
    相談に乗る側が「こうしなさい」と答えを与えるのではなく、相手が自分の意志で道を選ぶ手助けをすることが、その人の自立と成長につながります。たとえその選択が最適に見えなくても、その決定を尊重し、信頼し続けることが大切です。

高齢者、特に自身の親と良好な関係を築くためには、テクニック以前に私たちの心構えを見直すことが重要です。その基本原理は、アドラー心理学における子育ての考え方と多くが共通しています。しかし、子供に対する関係とは異なる特有の難しさも存在します。
アドラー心理学の対人関係論は、相手が子供であれ、年老いた親であれ、その基本原理は変わりません。それは相互尊敬相互信頼に基づいた、対等な横の関係を築くことです。しかし、親との関係には以下の2つの難しさがあります。

  1. 辛抱強さの違い
    私たちは子供の未熟さや失敗には辛抱強くあれますが、自分の親に対しては感情的になりやすく、寛容さを失いがちです。特に、配偶者の親(姑・舅)に対しては、その傾向がさらに強まることがあります。
  2. 過去のイメージの呪縛
    親はいつまでも我が子を「子供」として見てしまいがちです(例:60歳を過ぎた息子に18歳当時と同じ量の食事を用意する)。同時に、私たち自身も親に対して「子供の頃の親」のイメージを引きずってしまい、対等な大人同士として向き合うことを難しくしています。

具体的なコミュニケーションの実践法
感情的な対立を避け、建設的な関係を築くためには、問題が起きる前の「予防」と、起きてしまった後の「対処」の両方が重要です。

【第一の鍵】 問題を未然に防ぐ:「仲間」であり続けるための工夫
親が不平不満や悪口を言う背景には、会話についていけず、「自分は仲間外れにされている」という孤立感がある場合が少なくありません。そのマイナスの感情を埋めるために、たとえ否定的な反応でも、相手が確実に反応する話題(例:亡くなった配偶者の悪口、体の不調、他人の悪口)を選んでしまうのです。
この状況を避けるために、こちらから積極的に「仲間」であると感じてもらう働きかけが極めて重要です。

  • 共通の話題を継続的に提供する
    日々の出来事をメールで報告したり、電話で話したりして、こちらの状況を共有する。「今晩のおかず、何がいいかな?」「この時期の魚は何が美味しい?」など、日常的な相談を持ちかける。
  • 親の知識や経験を尊重し、頼る
    おせち料理の作り方、冠婚葬祭のしきたりなど、親が得意とする分野について教えを請う。多少の苦労をかけてでも「自分がいないとこの子たちは駄目ね」と思ってもらうことが、親の所属感を満たす。

【第二の鍵】 問題が起きた時の対処法:目的を「仲間になること」に再設定する
もし親が不満を口にし始めても、感情的に反論してはいけません。それは関係を悪化させる「権力争い」に陥るだけです。この時の目的は、相手を言い負かすことではなく、「もう一度、仲間になること」です。

  • まず、相手の話を最後まで聞く(傾聴)
    相手の方をしっかり見て、相槌を打ちながら、話を遮らずに最後まで聞きます。それだけで相手の気持ちは落ち着き、会話が一方的な不満で終わるのを防げます。
  • 「開かれた質問」で話を深める
    「はい/いいえ」で終わらない質問(例:「へえ、例えばどんなことがあったの?」)をすることで、相手はさらに自分の気持ちや状況を話すことができます。
  • 相手の言葉の背景を理解する
    話を聞いているうちに、不満の裏にある本当の気持ちや、良い思い出などが語られることもあります。例えば「夫の金遣いが荒い」という不満も、見方を変えれば「気前が良かった」という長所であったりします。じっくり話を聞くことで、より深い理解に至ることができます。

尊敬と信頼の出発点
親に対して尊敬の念を持つことが、良好な関係の土台となります。

  • 「恩返し」の気持ちを持つ
    私たちが子育てで苦労するように、親の世代はもっと不便で大変な時代に、私たちを育ててくれました。その苦労に思いを馳せ、「よくぞ育ててくれた」という感謝と尊敬の念を持つことが大切です。
  • 「できること」に注目する
    年齢と共に「できなくなったこと」を数えるのではなく、長年の経験で培われた知恵や能力など、「できること」に注目し、頼りにすることで、親の自尊心を支え、良い関係を築けます。

認知症への応用
これらの原理は、親が認知症になった場合でも応用できます。病気自体は治せなくても、私たちの接し方次第で、日常生活の様子や症状は変わります。相手の不可解な言動は、実は私たちの対応が引き金になっている可能性もあります。諦めずに、尊敬と信頼に基づいたコミュニケーションを続けることが重要です。

社会と家族のあり方
私たちは、物質的な豊かさや介護保険・バリアフリーといった社会制度を充実させれば幸せになれると考えがちです。しかし、それに頼りすぎることで、かえって人間の本来持っている力や家族の絆が失われている側面もあります。

  • 制度への過度な依存からの脱却
    本当に大切なのは、制度に任せきりにするのではなく、「自分たちの家族は自分たちで守る」という決意を持つことです。
  • 家族で看取ることの価値
    病院のベッドの上ではなく、住み慣れた家で、家族に囲まれて最期を迎える。その荘厳な時間を家族で共有することは、何にも代えがたい経験となります。

結論
高齢者との付き合いは、単なるコミュニケーション技術の問題ではありません。それは、「お年寄りと一緒に暮らす」という家族全体のあり方をどう再構築するかという、より大きなテーマです。アドラー心理学の知恵を借りながら、尊敬と協力を基盤とした人間らしい関係を、私たち自身の決意によって築いていくことが求められています。

アドラー心理学を学校教育の現場で活かすためには、単なるテクニックの導入ではなく、教師自身の根本的な心構えの変革と、子どもたちへの深い理解に基づいたアプローチが求められます。
その注意点は、大きく「持つべき視点」と「具体的なアプローチ」に分けられます。

教師が持つべき基本的な心構えと視点

  1. 究極目標を理解する:「所属感」の育成
    教育の究極目標は、子どもたちが将来、共同体の一員として貢献しながら所属できるようにすることです。そのために、子どもたちが「人々は仲間だ」そして「私は能力がある」という二つの基本的な信念を持てるよう支援することが、あらゆる指導の根幹となります。
  2. 原因論から目的論への転換
    子どもの問題行動を見たとき、「なぜこんなことをするのか?」と過去の原因を探るのではなく、「この子は何を求めているのか?」と未来の目的を考えることが不可欠です。そして、その究極の目的は常にクラスへの「所属」である、という視点を持ちます。
  3. 感情的な即時反応をしない:「ストップ・シンク・アクト」
    問題に直面した際、すぐに叱るなどの感情的な反応をしてはいけません。まず「①ストップ(止まる)、②落ち着く、③考える、④それから行動する」という原則を徹底します。冷静な対応が、建設的な関わりのための絶対的な前提条件です。
  4. 二者関係ではなくクラス全体の力学で捉える
    学校教育は家庭とは異なり、常に「教師-生徒」と「生徒-クラス全体」という二重の力学が働いています。問題行動は、表面的には教師に向けられていても、その真の目的はクラス内での所属感を確保するためであることが多いと理解すべきです。そのため、安易に教師と生徒の一対一の関係(例:職員室での説教)だけで問題を解決しようとすると、かえって問題を強化しかねません。
  5. 教師の限界を認め、子どもたちの力を信じる
    教師一人がすべてを解決できるわけではありません。教師の役割は、クラスを支配する「扇の要」ではなく、子どもたちのネットワークを支援する「コンサルタント」です。子どもたち自身が持つ問題解決能力や、子どもたち同士の助け合いの力(総合援助の力)を信頼し、それを引き出す関わり方が求められます。

具体的なアプローチにおける注意点

  1. 賞罰教育を避ける
    賞や罰を用いる教育は、子どもを「競合」的な関係(勝ち負けや優劣の世界)に引き込み、協力的な学びを阻害するため、原則として用いるべきではありません。
  2. 「教え込み」から「引き出す」へ:循環的話法の実践
    「~しなさい」という一方的な指示・命令(直線的話法)ではなく、「どうすればできると思う?」といった、子ども自身に考えさせる「循環的な問いかけ」を多用します。これは、教師が答えを教え込む(インストラクト)のではなく、子どもが本来持っている答えやアイデアを、対話を通じて引き出す(エデュケート)ためのアプローチです。
  3. 貢献の機会を与え、クラス全体に働きかける
    不適切な行動に注目する代わりに、その子の長所や得意なこと(パーソナル・ストレンクス)を見つけ、クラスのために貢献する機会を与えます(特に小学生に有効)。また、個人の問題として抱え込ませず、「〇〇君がクラスに所属できるよう、みんなで何ができるだろう?」とクラス全体に問いかけ、協力して解決する文化を育みます。
  4. 「解決」に焦点を当て、具体的なステップを示す
    原因追及に時間を使うのではなく、実現可能な解決像を子どもと共に描き、そこに向かうための具体的な方法を考えます。その際、大きな目標を達成可能な小さなステップ(階段)に分け、スモールステップで進めるよう支援することが重要です。

これらの実践は、単なるクラスルームマネジメントの技法に留まりません。それは、子どもたちに「共同体感覚」と「常識」を教え、他人の問題を「自分には関係ない」と切り捨てるのではなく、「私にできることは何か」と考える、成熟した市民としての態度を育むプロセスです。最終的に、アドラー心理学を教育現場で活かす上での最も重要な注意点とは、学校教育の役割が、未来の民主的な社会を担う、協力的で責任感のある人間を育てることにある、という大きな視座を持つことだと言えるでしょう。