稲作文化

 ある国の未来は、その国と周辺諸国の関係で決まる。こんなの、わかりきったことなんだけれど、いまの日本国民の多くはそのことを忘れている。なんだか不思議な力でうまくいくように思っているようだ。「うまくいく」というのがどういうことか尋ねても、たいしたアイデアを持っているわけではない。いまの暮らしの延長線上により輝かしい暮らしがあるように思っているのかな。いや、そもそも、そんなことは考えたことがないのかもしれない。

 20世紀の前半の人類は、経済恐慌を怖れ、なんとかそれを避けようと考えていた。すくなくとも中央ヨーロッパではそうだった。いまではマルクスとかエンゲルスとかしか覚えられていないが、たくさんの「革命思想家」がいて、おのおのアイデアを出していた。最終的にマルクスとエンゲルスが多数説をとり、その方向で革命が行なわれた。その結果どうだったかというと、世界はいっそう貧しくなり、富はいっそう局在した。つまり、革命思想はうまく動かなかった。そうして人類は虚脱状態の中にとりのこされた。日本人もその部分集合として虚脱状態の中にいる。

 2011年05月03日の『野田俊作の補正項』に次のように書いている。「日本文明の中心は、『古事記』や『日本書紀』や『祝詞』に述べられている、稲作についての《ことよさし》によるものでなければならない。別の言葉で言うと、「天皇を中心とする神の国」だ。あるいは、「家族を単位とする有機的な国家」だ。これが国家の根本、つまり《國體》であり、これを譲ってはいけない。』

 日本文明が稲作文化を離れて成り立ちうるとは思えないし、また逆に稲作文化を離れさえしなければ他はどんな風にアレンジしても成り立ちうると思っている。他の文明のことは知らない。日本文明は、稲作を中心に考えるかぎり、なんとか成り立つ。もちろん稲作を離れても成り立つかもしれないが、やってみたことがないので不安だ。稲作文化を中心に置いておくかぎり、あと1千年でも2千年でもやっていけると思う。