外国語とつきあう

 柔道や剣道には「段位」というものがあって、初段が最初で最終的には八段あるいは九段が与えられる。十段は、現在の段位制では廃止されて存在しないのだそうだ。柔道八段だの剣道八段だのいうと、たとえようがないほど強い人だと私なんかは思い込んでしまう。けれども、考えてみれば、柔道八段を遠距離から銃で狙撃するなら、私でも勝てそうに思う。つまり、柔道八段というのは相手が同じ柔道家である場合にのみ通用し、他の場合には通用しないということだ。つまり、「相対的な強さ」をあらわすが、「絶対的な強さ」をあらわすわけではないということだ。

 段位は、江戸時代には囲碁の世界でだけ言われていたのだが、明治に入って柔道や剣道にもひろがっていった。だからそう古いわけではない。なるほど江戸時代を舞台にした柔道や剣道の芝居では、段位の話なんて出てこないものね。そうではあるが、明治以後は便利なのでさまざまの場面で使われるようになった。そしてわれわれ民衆は、段位認定はおおむかしからあるのだと思い込むようになった。

 最近の記事では、「外国との交易は儲かる」という考え方はどうかということを考えている。鎌倉時代には外国との交易は赤字しか出ず国は倒産しそうになった。室町時代には、中国側の体制が変って、交易をするとこちらがかならず儲かるようにできていた。そうなると、さまざまの面に影響が出るが、その一例として国語の中での漢文の位置がある。鎌倉時代は国語と漢語の距離が遠かったが、室町時代になると近づく。鎌倉時代は日本と中国の関係は遠く、室町時代は近かった。つまり、言語を介する両国の距離は、日本人が中国に対してどういう態度をとったかの指標になる。残念ながら現在は自宅で養生中なので、文献を確認することができない。しかし、たとえば禅宗の経典を見ていると、鎌倉時代に輸入されたものと室町時代に輸入されたものとでは、中国語の「深さ」にずいぶん差があるように思う。それは禅宗だけではないのだろう。

 現代に読み直すと、たとえば英語の「深さ」はどうだろうかということだ。幅はたしかに広がってたくさんの人が英語を理解するが、アメリカ人やイギリス人と同じレベルで英語を使っているかというと、そんなこともない。むしろ戦前の英文学者の方が、いまの人たちよりも深いレベルでアメリカ化もしくはイギリス化しているような気がしている。どうなんだろうね。