二元論と多元論(2)

 西洋科学では二元論的論理が主流で、なんでもその型にあてはめて考える癖があること、これにたいして日本(やインド文化圏)では多元論的論理が主流であったことなどについて述べた。日本は開国以来150年になるのだが、いまだに二元論的論理は科学者専用で、一般の民衆は多元論的論理でもって発想するのが普通みたいだ。たとえば、野党勢力(つまり自民党中枢部以外の人々)は、現在も多元論的な論理空間の上で理屈を捏ねようとする。しかし、それではときに「理屈の通らない」理屈ができあがってしまって、議論が先に進まなくなる。

 たとえばどんなことかというと、ある川があって、昨年までの実績を見ると洪水が起こる確率は50年に1回くらいだとする。しかるに、昨年洪水が起こった。だとすると、今年洪水が起こる確率はどれくらい高いか? 普通は、50年に1回程度しか洪水は起こらないのだし、去年は起こったのだし、そうなると今年洪水が起こる確率は低いことになる。これが「常識的」な数学的結論だ。しかるに、ある種の災害学者は、「去年起こったのだったら、今年も起こる確率は高い」と主張するかもしれない。「数学的な根拠は?」と尋ねると、モヤモヤとわけのわからない説明をしたあとで、「というわけで、確率は高いんです」と、数学なしに断言する。さて、信じた方がいいか信じない方がいいか。ふつうは信じないよね。でも、その学者が新聞などにそういう意見を書くと、大衆はそれを読んで信じる。

 最近の国会での論議は、主にこのあたりに起因して起こっているみたいだ。バカバカしいので深入りして見ていないのだが、野党の側はまったく不可能な論証を立てようとしている。そういうのはどうすれば見破れるかというと、二元論的世界では原理はまったく簡単だ。ある主張Bが成立するために必要な条件がAであるとする。さて、Aが存在するかどうかを確かめてみて、存在すればBは存在するし、存在しなければBも存在しない。しかるに、多元論定世界で、しかも「ある項目Cが存在しないならBは存在する」という前提で論理が組立てられていると、かりに項目Cが「存在しない」のであっても、永久に存在しないとは言えないので、項目Bが存在できない理由にならない。政府野党が主張しているのはどうもこのあたりの「理屈」でしかないようだ。私はこういう「不可能な論理」に関心がないものだから、残念ながら実例はあげられないが、国会答弁を見ているといくらでも実例をあげることができるだろうと思われる。薄暗い世の中だ。