ある概念Aと、それに対立する概念Bとがあって、教師が生徒にそのどちらかを選ぶように勧めたとする。生徒は、AもBも気に入らなくて、第三のCを選択すると宣言した。さて、この状況は適切か不適切か、というのが昨日出した問題だ。
概念Aと概念Bは「競合的」と「協力的」なので、それとは関係のない第三の選択肢Cは存在しない、というのがアドラー心理学の基本前提だ。西洋人と話をしていると、これは当然のことで、誰も異議をさしはさまない。しかし、日本人と話をしていると、日本の哲学はAとBの二元論からできていなくて、A,B,C,D,..と無数の選択肢からたまたまAとBを選びとっただけであることが多く、そこで最初に提出したような問題が起こる。
これは、どちらが正しいかという問題ではなくて、「AとBの二元論」を採用しているのか、あるいは「A,B,C,..の多元論」を採用しているのかという、根本的な世界観の選択に由来する問題だ。西洋の哲学の中では、普通はAとBとの二元論を採用する。その場合には、「AとB以外の存在はありえません」とは書かない。もしAとBとCなどを採用するなら、議論が始まる前にそう述べておかないといけない。それが西洋世界の常識だ。明治になって西洋科学が導入されて以来もう150年にもなるので、日本でも理系世界では二言論的世界分類は常識化しているように思うのだけれど、ややこしいのは、本来文系出身の人が理系の議論をすることがよくあることによる。彼らにとっては、「AかBか」は話が狭すぎて、どんな場合にも「AかBかCか」などと考える必要があるようだ。
西洋文明はどうして「AかBか」の二元論を採用したのだろうか。それは「計算が簡単」だからだと思う。「AかBか」の二元論ならば、とにかくAでないと決まればBなのだし、Bでないと決まればAなのだ。AとBの中間は存在しないのだから、これはきわめて確かなことだ。そういう世界の中で、どうして「AかBかCか」というような「こじれた」議論が出てくるかというと、それは結論を出したくないからだろう。