短歌について(4)

 昨日引用した本居宣長の文章を、小林秀雄はたぶん誤読している。

  歌は「人情風俗ニツレテ、変易スル」が、歌の変易は、人情風俗の変易の写しではあるまい。前者を後者に還元して了(しま)うことはできない。私達の現実の性情は、変易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生を享け、死ぬことはないだろう。「心ニオモフ事」は、これを「ホドヨクイヒツゞクル」ことによって詩に、歌となって生まれ変わる。歌の功徳は、勿論歌の誕生と一緒であるから、「心ニオモフ事」のうちに在る筈はない。(小林秀雄『本居宣長』二十二)

 小林は、私と違って、「こころ」と「ことば」とを別のものだと考えている。だから、こういうおかしな議論をすることになる。私は「こころ」とはすなわち「ことば」だと考えているので、そうなると、現代語の散文で語っているときには、そのような「こころ」があり、古語の韻文で歌を詠んでいるときは、そのような「こころ」があることになる。たとえば、

  けふもまたかくてむかしとなりならむわが山河よしづみけるかも

という保田與重郎の歌があるのだけれど、「しづみけるかも」は「鎮みけるかも」だと解釈すると、「今日もまたこのようにしてむかしになるのだろう。私の(慣れ親しんだ)山川が(夕方になって)静まっていく」というようなことだと思う。歌と現代語訳は同じ「こころ」か違う「こころ」かというと、違う「こころ」だと私は言っている。どういう点で違うかというと、現代語は「現在の流転の論理を表現する」ことしかできないのにたいして、歌の「ことば」は、古代から連続した日本人の「こころ」と連続している。保田が、「歌に対する私の思ひは、古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふものである」と言うのは、彼が現代の時間の中で経験することを、古人の「ことば」である古語でもって言い表すことで、歴史連続体としての日本人の「こころ」にみずからも参加したい、ということであろう。

 これはちょっとすごいことかもしれない。過去から未来へ続く時間の中の「いま」という時に私は歌を詠んでいる。そのとき、「いま」という時の中でだけ詠むこともできるが、「過去・いま・未来」という連続した時間の中で詠むこともできる。散文だと、むしろ過去や未来を切り捨てた「いま」の時間に集中して読むというのが普通なのだが、韻文では、特に短歌では、「過去・いま・未来」を不可分の時間、さらには空間、の連続体としてとらえて読むことが可能になる。もっともいつでも可能になるわけではなくて、歌人にそのような意識があるとき、そういうこともできるようになるということだ。

 すべての歌人がこのように考えているかというと、現代ではほとんどそんなことはなくて、保田はきわめて稀な例外だと考えた方がいいかもしれない。古語を使う歌人であっても、古語が古人の「こころ」とつながっていることを意識している人はそんなにいない。むしろ、現代社会でのひとつの「個性的」な表現手法として、古語が使われている。たとえば斎藤茂吉の有名な歌、

  最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

は、敗戦後の落魄の中で作られた歌なのだが、『万葉集』の時代の人がこれを読んで「まことにそのとおりだ」と思ってくれるかというと、そうは思えない。これは茂吉のきわめて個人的な体験なのだ。しかし、たとえば、

  うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)とわが見む

という『万葉集』の歌は、処刑された大津皇子を偲ぶ大伯皇女の個人的体験を詠ったものであるけれど、しかも民族が共有するドラマの台詞として共有性を獲得しており、茂吉の歌のように、われわれとは別人である斉藤茂吉の個人の物語ではなくて、「誰であれ親族を悲劇のうちに失った者」に共通の「ことば」、共通の「こころ」であり、民族共有の物語になりおおせている。そのような物語のうちのひとつとして、自分の歌が参加できることを、保田與重郎は喜びにしていたのだろう。

 本居宣長もそういう人だったように思う。そんなに歌の上手な人ではないが、晩年には「マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨム」境地には達していたようで、たとえば次のような歌がある。

  まちつけて初花見たるうれしさは物言はまほし物言はずとも

 「まちつけて」は「待つことに慣れて」という意味だろう。「物言はまほし」の主語は作者で、「物言はずとも」の主語は桜だろう。これは宣長が実際に経験したことでもあるが、日本の歌人が古来ずっと経験し続けたことでもあり、どの時代の歌人がこの歌を見ても、「まことにそのとおりだ」と言っただろう。あるいは、

  桜花ちる木のもとに立ちよりてさらばとだにも言ひて別れむ

という歌もあるが、この歌を詠んだとき宣長はかなり高齢だった。来年は桜を見ることができないかもしれない。これも、どの時代の歌人も、「まことにそのとおりだ」と言うだろう。上手下手を言うなら、どちらの歌もあまり上手だと思わないが、宣長が詠っている「こころ」を、私も共有しているし、『万葉集』や『新古今和歌集』の歌人たちも共有していただろうことは、間違いのないことだと思う。

 宣長の歌はいいとして、保田の歌を引用しておこう。

  ささなみの滋賀の山路の春にまよひ一人ながめし花ざかりかな
  人減りしひろき屋敷の庭に咲く大木の桜うらさびて立つ

 こういう歌を解釈しなさいと言われても、私の手に合うものではない。前の歌は、「滋賀の山路で春に迷って一人さまよううちに花ざかり(桜じゃないかな)に出会った」という意味だろうし、後の歌は、「人が減ったひろい屋敷の庭に咲く大木(おおき?)の桜はうらさびて立つ」という意味だろう。それだけしか書かれていないのだが、書かれていない無限の情緒が広がっている。こういう歌を読み慣れることで、いつか自分もそういう歌を詠めるようになろうと願う。そうしているうちに、やがてこのような歌が詠める日が来るかもしれないし、あるいは今生には間に合わなくて来ないかもしれない。来ないならば来ないでそれでよい。

 このような歌では、作者の個性ではなくて、歌の伝統が、その時代その時代の歌人に歌を作らせている。詠われているのはいま現在の出来事であるが、それは歴史のなかで無限回繰り返されてきた出来事であり、それを詠っている歌人の「こころ」も、歴史の中で連続している多くの歌人の「こころ」と連続したものであり、その「こころ」とは、たとえば「もののあはれ」ということであり、巧みな「ことば」でもってその「こころ」を言い表しおおせたところにその歌の徳がある。宣長と保田の歌論は、ともにそのあたりのことを言っているのだと思う。