昨日の記事の続きだが、オリンパス OM-3 というカメラを使っていた時代には、そのカメラに「完璧」を期待することはしないで、絶対的な「美」と絶対的な「醜」の間のどこかで「ほんとうの」写真が撮れていると思っていた。さいわいなことに、OM-3 では「ハズレ」はそんなにたくさんはなかった。以下、『野田俊作の補正項』2011年5月11日から引用する。その項の題名は「真理は中間にある」だ。
いつもそうなのだが、釣りをしている間、頭は勝手に動いている。アイドリングという感じだ。それを外から意識が眺めているので、「考えている」という状態とはちょっと違う。今日頭がしていた仕事は、「真理は中間にある」というようなことだ。たとえば、絶対的な平和主義もバカげているし、なにかあればすぐに武力に訴えようとするのもバカげていて、その真ん中に最適値がある。戦前の日本を全面否定するのもバカげているし、全面肯定するのもバカげていて、その真ん中に最適の評価がある。言論や出版の自由を100パーセント認めてしまうのもよくないし、かといって完全に制限してしまうのもよくなくて、その真ん中のどこかに最適値がある。教育において子どもの個性を100パーセント尊重するのもよくないし、かといって完全に型にはめてしまうのもよくなくて、その真ん中のどこかに最適値がある。民主主義が絶対に正しいわけでもなく独裁主義が絶対に正しいわけでもなくて、その真ん中のどこかに最適値がある。宗教に凝り固まるのもよくないし、宗教を全面否定するのもよくなくて、その真ん中のどこかに最適値がある。
こういうのは「最適値問題」といって、QC(品質管理)や OR(オペレーションズ・リサーチ)ではおなじみの問題だ。たとえば、食べすぎると病気になるが、だからといって断食しても病気になる。その間のどこかに最適のポイントがあるわけだ。多くの、ひょっとするとほとんどの、われわれがかかえている問題が、最適値問題であるのかもしれない。最適値問題であるとすれば、なにはともあれ「極端」は最適値ではないことだけは確かだ。どこか中途半端なところに最適値がある。
引用は以上。どうなんだろうね。「最適値問題」は「主観を交えないほんとうの事実」を知るための方法で、「すべて OK」も主観、「すべて NO」も主観だと見破っている。その上で、ゼロと100の間のどのあたりに本当の値があるのかを決めようとするわけだ。
今の世の中は「最適地問題」の考え方はめったに使われない。つまり、「すべてが ON」が正解か、あるいは「すべてが OFF」が正解、というのが正しい「答」だと思われている。世の中はそんなに単純ではないみたいだよ。真理はいつも(でなくても多くの場合は)中間にあるみたいだ。
たとえば、大東亜戦争について、「日本とアメリカのどちらが正しくどちらが間違っていたか?」という問いを立てたとすると、この問いは答えられない。日本がNパーセント正しくてアメリカが100-Nパーセント間違っていたとする。それはそうなのだが、Nがいくらなのか、100ーNがいくらなのか、いくら議論をしても定まらないだろう。それは終戦時もそうだったし、いまもそうだ。そうしてわれわれは、Nがいくらなのか、あるいは100ーNがいくらなのかをめぐって、論争し続けるわけだ。