「チベット仏教裏日記」というようなものを書いている。いや、これは違うね。ほんとうは「チベット仏教陰日記」というべきかな。つまり、チベット仏教の典礼文(毎日のお勤めに使うお経)ができてくるときに、祖師たちがどんなことを考えていたのかを、典礼文をにらむことで復元してみよう、というような研究だ。典礼文は、とにかく有り難いことが書いてあるので、真正面から受けとって「神懸り」になるのが正しい読み方だし、そのことは私も知っているんだけれど、でも「テレビ世代」なんだよね、人々が受けとっている表面的な読み込みの裏に、なんだか陰の意味が隠されているように思うんだよ。
たとえば祈祷文は、
われを恨む怨敵も妨害する邪鬼も
解脱と全智の障害となる一切の者たちも
楽を得んことを苦を離れんことを
すみやかに無上勝等菩提宝を得んこと
という風にはじまるのだが、何しろ相手は「怨敵」であって、そんなに簡単にわれわれ衆生の願いを聞いてくれそうにない。だからこれは「ふかし」というか「はぐらかし」というか、そういう怨敵たちをなんとか「おだて上げ」あるいは「なだめすかして」われわれの言うとおりにしてもらおうとしているのではないかとつい考えてしまう。手が込みすぎているように思うんだよね。
これは最初の四行だが、同じ調子で40ページも50ページも話が続く。表面的に読めば「怨敵」たちをなだめているように見えるのだが、現実には「言いくるめている」というか「気をそらしている」というか、どうも暗い陰謀が見てとれる。怨敵なり邪鬼なり解脱と全智の障害となる一切の者たちも、そんなに単純な奴らではあるまい。
それを「そりゃそうですわね、お師匠さま」というように認めておいてから、「怨敵」なり「邪鬼」なりを無理矢理に味方であるかのように「思い込む」。どうも経典の知識の多くがそのことのために使われている感じがする。もっとも、これは私の心がそんな風にねじ曲がっているからそう思えるだけかもしれないのだが。