同型の変移

 歴史を振り返ると、事件の根源が実は遠い昔にあって、一見違うように見えながら、よく見ると同じことの繰り返しが何度もおこなわれているんだなと気がついた。根源になる事象Aと結果になった事象Bとの間の因果関係が確認されないままなので、ひとつのストーリーのふたつの現れだとは認識されない。まあ、認識されなくても、事実そのものが変るわけではないのでいいようなものだが、やはり因果性の認識が違うと対応も違ってきて、結果も変ってくる。

 抽象論を言っていてもしょうがないので、具体論をあげてみよう。鎌倉時代ができるころに、木曽義仲という武将がいた。源頼朝が覇権を握ると、その勢いを借りて上京し、一度は天下をとった。しかし、頼朝と方針があわず、最終的には征伐されてしまう。どう方針があわないかは、いまとなってはどうでもよくて、要は、頼朝は義仲の方針が何であれ気に入らなかったということだろう。自分とはまったく、あるいは些細に、方針の違う義仲が天下を無事に治めているという事実が、そもそも頼朝には気に入らないということだ。まあ、そういうわけで、頼朝は義仲を討った。

 権力者の争いはいつの場合もこれと同じ形をしている。それは、織田信長を見ていても、西郷隆盛を見ていても、東条英樹を見ていても、同じ形の葛藤が反対派との間にあって、そこである動きをすると、相手はそれに対抗する動きをし。それに対して別の動きをすると、相手はまたそれに対する動きをする。そうして何拍目かには、カップルは決まり切った型に陥って。決まり切った終結に向けて驀進するようになる。

 私の現在の運命だって同じことが起こっているはずで、ある人の「しうち」にたいして私がある「しうち」を繰り出す。二人の間にもめごとがない間は、それはそれでよくって、両者が「顔」を保ちながらやっていくのだが、いろんな理由(たとえば社会的地位)の都合でそうもいかない局面もあって。そうなると相手を貶めるために策動を始める。策動の初期の段階で相手が屈服すれば、話はそこで終りになるが、なかなかにそうはいかないときもある。そうなると本気の葛藤になって、大変印象的な最終画面が作りだされたりする。

 私が言いたいのは、「印象的な最終画面」を考えだす前に、両者が矛を引くことを考えた方が、葛藤している両者にとってもだし、葛藤していない第三者にとってもだし、建設的な折衷案でまとまれるのではないかということだ。別にこれは斬新なアイデアではなくて。アルフレッド・アドラー自身が予見し提案していた道だ。その道を見つけて、そこへ入れるようなコミュニケーション・パターンを実行すれば、「敵も味方も皆殺し」の悲劇を避けて両方が生き残れる道を探し出せるのではあるまいか。