第四章 邪法
1.
いっときは平和でございましたが、それからまた戦乱の世になりました。帝にお味方して北条殿を滅ぼした足利殿が帝に背き、さらに足利殿の兄と弟とが内輪もめを始め、わけのわからぬ混乱状態になってしまいました。とうとう帝は都を出て吉野山に行幸あそばされ、そこに仮の皇居を定められました。延元二年(1337年)のことでございます。
その年の夏の終り、つくつく法師の鳴くころのことでしたが、永福門院さまをお訪ねいたしました。
「浄念、ひさしぶりですね」
と女院さまはおっしゃって、しばらく沈黙されました、いえ、正確に申しますと、わたくしがお答えにつまって黙っていたからでございます。
「今日は、お暇乞いにまいりました」
と、とうとうわたくしは申しました。女院さまは、たいして驚いた様子もなく、
「そうか。浄念も都を離れるか。私は身分上、都を離れるわけにはまいりませんが、みんな都から去っていきます。そなたのような前途のある者は、学問のできるところへ行く方がいいでしょう」
とおっしゃいました。
「あからまさに申し上げますなら、布施が集まらず、寺では口減らしをせざるをえないことになり、若い僧たちに追い出しをかけているのでございます。いささか不決断なわたくしも、これは地方行脚に出る良い機会であろうかと存じまして、こうしてご挨拶にまいりました」
と申し上げますと、
「そうなのか。先帝は各寺院への喜捨も豪勢になさいましたが、いまはそういう人もいなくなってしまいましたからね。わたくしたちでさえ、さすがに食べるものにまでは困りませんが、遊んで暮らすというわけにはまいらなくなっています。それで、そなたはいずこへ向かうのか?」
と、いくらか淋しそうにおっしゃいました。
「まず、吉野の文観さまにご挨拶にまいります。それから先は、そのときに考えますが、まだ関東にいる方がいいかと考えております。関東には、忍性さまのおかげで、律寺がたくさんございますし」
と申し上げました。
「律僧はどこでも出入り自由、木戸御免ですからね。私のように、狭い世界に縛られてるわけではありませんから」
と、女院さまは小さくお笑いになりました。
「それでは、ご健勝に暮らされますように。またご縁があればお目通り願いたく存じます」
と申し上げますと、
「それはおそらく叶いますまい。わたくしも年でございますし、世の中もどうなるものかわかりません。ともあれ、そなたも健勝に」
とおっしゃいました。わたくしは涙が流れてなりませんでした。
2.
京から南に真っ直ぐに、宇治を通り、南都に出て、さらに飛鳥を抜けて壺坂の山をひとつ越えますと、前方に吉野川の流れが見えます。秋の初めの午後の水面はきらきらと輝いておりました。その岸の向こうに、熊野にまでつながる吉野の連山が見えました。ひときわ高くそびえているのは青根が峰でございましょうか。
河原には足利方の軍勢がひしめいておりました。わたくしは律僧でございますから、その中を歩いていても、誰も怪しむものはおりません。しかし、そのまま上市から吉野山に登りますと、さすがにやっかいなことになりそうに思えましたので、村人に間道はないかどうかを尋ねてみました。すると、一里ほど遡ったところに宮滝という小さな滝があり、その奥に喜佐谷という村があるから、そこを抜けて谷沿いに上がるのがよかろうという話でした。
なるほど歩いてまいりますと、川の向こう岸に小さな滝が見えます。それが宮滝であろうと思われましたので、渡し場を探しましたところ、その上流に綱がかけわたしてあるのが見えました。それが浅瀬であるように思われましたので、衣の裾をたくしあげて、川に入りました。水は心地よく冷たくて、ところどころ腰まで濡れましたが、無事に向こう岸に渡れました。そこから小川に沿って登ってまいりますと、喜佐谷の盆地に出ました。村人は逃散したらしく、誰の姿も見えませんでした。やがて盆地のはずれに山に入る小路がございました。そのときにはもう暮れかけておりましたので、そこにあった小さな祠でその夜は休みました。蚊が多くて困りましたが、なんとか朝まで眠れました。
小川で沐浴をして、朝のお勤めをし、小道を登ってまいりますと、いきなり尾根に出ました。そこで数人の侍に取り囲まれたのでございます。槍を突きつけて、
「何者か?」
と申しますので、
「これは旅の僧にて、浄念と申します。文観僧正にお目通りを願い、やってまいりました」
と正直に申しました。すると、隊長らしい年長の侍が、槍を降ろすように合図し、
「ほう、文観上人のお知り合いか。上人はいまはそこの如意輪堂におられる。これ、与五郎、案内してさしあげろ」
と申しました。与五郎と呼ばれた侍の案内で如意輪堂に参りますと、山門のところにも侍がおります。与五郎の説明を聞いて、やがて中に入っていきましたが、ほどなく文観さまと一緒に出てまいりました。
「浄念、よくまあ、こんなところまで来た。さあ、入れ入れ」
と、文観さまは上機嫌にわたくしを堂内に案内してくださいました。
ご挨拶の後、
「吉野での暮らしはいかがでございますか?」
とお尋ね申し上げますと、
「魚は食わなくて済む」
と言って、大笑いなさいました。さらに続けて、
「浄念よ、どこにいても同じことなのだ。南海の小島でも、東寺でも、吉野の行宮でも、仏さまと一緒にいるかぎり、どこにいても同じことなのだよ。それはそなたにもわかるだろう」
とおっしゃいました。まったくその通りでございましょう。
「まことに荼吉尼法のおかげでございます。昨夜はここの山の麓で野宿をいたしましたが、たくさんの蚊に噛まれました。しかし念誦をいたしておりますと、やがて気にならなくなりました。むしろ蚊に供養ができてよかった。来世はもうすこしマシなものに転生するように、と思えるようになったのでございます」
と申し上げました。文観さまは、
「文殊菩薩が蚊に姿を変えて、忍辱の修業をさせてくださったのかもしれぬ」
とお笑いになりました。それは思いつきませんでしたが、そうだとすればきわめてありがたいことでございます。
しばらく、東寺でお別れして以後のことについて話を交した後に、
「実は、京で妙な噂を聞いております。それは、文観さまが邪法立川流を帝に教えておられたという噂でございます」
と申し上げました。立川流というのは、男女の交合を使って修法をするというとんでもない邪法でございます。
「立川流か、縁がなかったわけではない」
とおっしゃいますので、驚いて、
「ええっ、立川流を帝に?」
と申しますと、
「いや、そうではない。増瑜とかいう真言の僧が、立川流について書いたものを帝に献上した。帝は儂を呼ばれて、『これをどう思うか』とおっしゃるので、お借りして読んでみた。むかし、阿闍梨からいただいた新訳の経文があっただろう。その中に、『金剛三業最上秘密儀軌』とか『大悲空智金剛儀軌』とかいうのがあって、それらを読むと似たようなことが書いてある。つまり、男女の白赤の滴を和合させることで、菩提を生ずる、というようなことだ。ただ、阿闍梨さまからいただいた経典では、それらは譬喩として説かれているように思うのだが、立川流の者たちは、それを実際の男女の交合だと理解しているようだった。だから、立川流は、法そのものは邪法とは言えないかもしれないが、行が戒律に触れると儂は考えた」
とおっしゃいます。
「なんと、立川流の法そのものは外道ではないとお考えなのですか?」
と、驚いて問い返しますと、
「阿闍梨からいただいた経文に同じことが書かれているのだから、外道とは言えまい。ただ、それを、譬喩としてではなく、現実のこととして実践すると外道になる」
とおっしゃいました。わたくしは驚いておりました。文観さまはかまわずに、
「しかしな、浄念よ、考えてもみよ。荼吉尼法だって交合の譬喩を使うではないか。ただ、阿闍梨さまにいただいた経典と違うのは、荼吉尼法では行者が女身の荼吉尼に変身して、目前に観想した男尊の精を受け取るのに対して、阿闍梨さまにいただいた儀軌では、行者の胸中、あるいは頭上に、男尊と女尊との交合像を観想し、そこから精を受け取るところが違っている。それだけの違いなのだよ」
とおっしゃいます。さらに、ちょっと苦笑いなさりながら、
「もっとも、立川流は、生身の女尊を前に置くわけだが」
と続けられますので、
「それで、帝にはどのようにおっしゃったのですか?」
とお尋ねしました。
「だから、立川流は、法としては外道ではないが、行として戒律に触れるところがあるので、僧がおこなうべきものではない、と申し上げた」
とおっしゃいますので、
「帝はどうおっしゃいましたか?」
とお尋ねしますと、
「それでは在家である朕が行ずる分には支障がないということだな、とおっしゃった。そこから先どうなったかは、儂は知らん」
とおっしゃいました。
「帝は立川流の修法を行じたもうたのでございましょうか?」
とお尋ねしますと、
「だから、儂は知らんと申しておる。それは儂の知るべきことではない」
とおっしゃいました。
「ともあれ、文観さまが立川流をお教え申し上げたとか、お勧め申し上げたとか、そういうことではないのでございますね」
とわたくしが申し上げますと、
「お勧め申し上げなかったとも言えないな。ぜったいになりませぬ、とは申し上げなかったから。行としてはともかく、法としては邪法とは申せぬからな」
とおっしゃいました。