天皇はある種の魔法でもって生み出される。しかし、魔法の効果が出て天皇が生まれたとしても、その効果を持続させるためには、維持のための操作をしなければならない。そうしないと、魔法はだんだん醒めていく。いままでの経験では、どんなに強烈な魔法をかけても、だいたい2~4週間で「シラフ」に戻ってしまう。なぜなら、世間には、別の種類の魔法がかかっているからだ。だから、世間にさらされると、世間の魔法の方に戻っていってしまう。それを予防する操作を魔法使い自身がするのは面倒なので、被術者にある仕事を言いつけて、効果が冷めないようにさせる。
たとえば、チベット仏教では、ときどきリンポチェ(師匠)のセッションに出て、強烈な魔法をかけてもらうが、そこで伝授された経文を家に帰ってから毎日読誦する。ラマとお会いしたときにありがたい経文をいただいたくので、それを朝晩の瞑想の際に読誦する。そのたびにラマが私にかけた魔法が蘇る。ラマと会っても、経文の読誦を怠ると、魔法の効果は消えていくし、ラマと会わないで、ただ経文だけを手に入れて読誦するのでは、最初にそもそも魔法にかかっていないので、そんなに効果がないと思う。魔法使いに会うことと、その後自分で効果が持続する操作をすることの、両方が必要なのだ。
日本仏教が没落してしまったのは、師匠の魔力が劣っていたからではなくて、信者へのアフターケアが悪かったからだと、私は思っている。つまり、信者に渡された経文が漢文で書かれていて、ちんぷんかんぷんだったので、魔法の効果を維持するために役に立たなかった。『般若心経』なんて読んでも、魔法の維持には役に立ちませんよ。浄土真宗のように、和文の経文を信者に渡した教団だけが、活力を維持できた。日本にチベット仏教を移植しようとするなら、絶対に和文の経文集を作る必要がある。
アドラー心理学もそうなので、ときどき強烈な魔法セッションをするけれど、効果はかならず冷めていく。だから、学習者自身が継続学習をしなければならない。そのために学習グループがあるし、そこで独誦すべき経文として『パセージ』と『パセージ・プラス』がある。あれだけあれば、かけられた魔法の効果を維持するために十分だと思っている。もちろん、他の本を読むのもいいことだけれど、それとは別に、魔法の効果を維持するために、繰り返し繰り返し読む経文が必要なのだ。一人で繰り返し読むのは、かなり根性がいるので、学習会に出た方がいい。そのために、全国に学習会を作っていっている。隠れキリシタンのように、いつまでも正しいアドラー心理学を保っていけるようにね。
占領軍がかけた魔法は、学校を学習会、教科書を経文にして維持されているので、強烈な持続性を持っている。考えるだけでうんざりしてしまう。教科書を改革しなければいけないのだけれど、昨日書いたように、最初に、最終目標はどういうものかについて、ひそかに決めておかなければならない。日本国憲法の三大原則、すなわち「国民主権」「基本的人権」「平和主義」を全面否認して、「君民共治(陛下と国民がいっしょに作る日本)」「相互扶助(みんなで助け合う社会)」「自主独立(日本を守り世界とつながる)」あたりを目標に定める。これを、20年くらいかけて、小さな変化を連続的に起こしながら、すこしずつそちらの方へ持っていく。しかも、あらゆる局面で、国民が自由意思で選んだかのように思えるような問いかけを工夫しなければならない。これは、研究所をひとつ作ってじっくり取り組むほどの課題だ。アメリカ人も、日本人の精神改造のために、ずいぶん時間と金をかけて研究をしていたそうだし。
占領軍は、きわめて巧妙に魔法をかけたので、日本人は現在の社会体制、それは民主主義と呼ばれたり、東京裁判体制と呼ばれたり、自虐史観と呼ばれたりするものだが、それをみずからの自由意思で選んだと思い込んでいる。中国にはグレゴリー・ベイトソンはいなかったので、チベット人やウィグル人は、現在の社会体制をみずからの自由意思で選んだとはまったく思っていない。だから、中国人はひどい暴力でもってチベット人やウィグル人を迫害して、自分たちの考えを押しつけている。それはたとえば、日本の場合は、コ◎チングだかN◎Pだかの、ベイトソン系統の黒魔術の育児でだまされた子どもみたいなもので、チベットやウィグルの場合は、権威主義的に賞と罰を使うむかしながらの育児で虐待されている子どものようなものだ。いずれにせよ、子どもの尊厳を無視して、親の願いを押しつけていることに変わりはない。どちらが悪質かというと、まあ、どっちもどっちだな。
満州国建国以後、日本人は現地の人々に対してひどいことをしなかった。アメリカ占領軍が日本にしたような器用な魔法は使わなかったが、中国人がチベットやウィグルでしているような残虐な統治もしなかった。では、どうしたかというと、賞による育児をした。つまり、近代国家を作り出そうとした。具体的には、ものすごい量の経済投資をして豊かな国を作ろうとしたし、法治主義を徹底して(ということは中国式の人治主義を廃して)法のもとの平等を徹底させたし、「五族共和」の旗印のもとに人種差別を最小限にした。今の目から見て、日本人が優遇されていたという人がいるけれど、たしかに当時の西洋諸国の植民地を見れば、比較にならないほど日本人と現地人の格差は小さかった。あれで、外務省がもうちょっと粘って世界の了解をとりつけ、軍がもうちょっと禁欲的になって華北に手を出さなければ、あのまま満州国は存在して、あの地域に中華民国や中華人民共和国のような「古代国家」ではなくて、民主的な近代国家ができていたかもしれない、残念! まあ、歴史に「もしも」はないんだけどね。でも、私が言いたいのは、満州国は、あるいは朝鮮や台湾は、西洋の植民地とも違っていたし、いまのチベットやウィグルとも違っていたということだ。いくらか似ているのは、旧ソ連の衛星国だが、それよりもまだ待遇が良かった。
アメリカは中東のイスラム諸国に対して、日本に使った魔法を使おうとして、失敗している。理由は、日本は西洋風の近代国家になりたいと願っていたが、イスラム諸国は西洋風の近代国家なんてまっぴらで、イスラム法の統治する彼らの理想国家になりたいと願っているからだ。つまり、日本の場合には、アメリカ人はそれほど意識していなかったと思うのだが、「目標の一致」があった。イスラム諸国については、「金儲け」以外のいかなる「目標の一致」もない。これからどうなっていくのかは、私には予測できない。アメリカ人は、また新しい魔法を発明するかもしれませんよ。そうなれば、話はいっそう悪辣になる。
ま、それはともかく、アメリカはこれからどうしたらいいかというと、今のように「競合」と「競走」を対立させないで、「競合」と「協力」を対立させるように、みずからの行動基準を変えていくことだ。エリクソン催眠は子供の育児に関して「競合」と「協力」を組み合わせることで、抵抗のない催眠状態を作りだすことに成功した。「えっ! 催眠だって」と驚かれるかも知れないが、「協力」と「競合」の対立だって、「服従」と「反抗」の対立だって、同じ意味で催眠だ。催眠というのは、「『イエス」オア『ノー』」の一組でできた「魔方陣」を使う話法だ。いくつかの方法が開発されているが、いちばん「開けて」いるのが、「競合」と「協力」をペアにして、クライエントに選んでもらう方法だ。