戦後の占領軍の魔法が垢抜けているのは当然で、大魔法使いグレゴリー・ベイトソンの弟子たちが深くかかわっていたからだ。ベイトソン自身も、戦争中は OSS (Office of Strategic Services) という諜報組織に雇用されて、ラジオ放送での日本向け「ブラック・プロパガンダ」の制作や、ビルマ・タイ・中国・インド・セイロンで、敵(つまり日本と同盟国)の間に不和を作り出すための諜報工作に協力していた。終戦でベイトソンは手を引いたが、彼の仲間の多くが日本に来て、 GHQ-SCAP で働いていた。ベイトソン自身は、科学を汚い政治的な目的で使ったことを後悔していたそうだが、彼の弟子たちは、そんなことにおかまいなく彼の理論を洗脳工作に積極的に応用した。
私のエリクソン催眠はジェイ・ヘイリーの系統で、ヘイリーはベイトソンのグループの人だ。だから、私がベイトソンに逆らうなんて、甲賀白雲斎の大仕事を一介の下忍が突き崩そうとするようなことなのだが、日本人を「ベイトソンの茹で蛙」のままに置いておくわけにはいかない。下忍なりに、できることはしなければ。
「平和」と「戦争」という対語も、占領軍が特殊な意味づけをして使った。「平和」は「戦争放棄」と同義語で、「平和」を獲得するためには「戦争」を放棄しなければならない。そのことを考えるために、ちょっと歴史の話をする。
以前に書いたことがあるのだが、第一次世界大戦(大正3(1914)年~大正7(1918)年)のとき、日本は連合国側として参戦したが、実際の戦闘にはそれほど参加せず、もっぱら観戦武官たちが各地の戦場を見学して回って所見を集めた。その結果わかったことは、
1)歩兵突撃を中心とする戦い方は終り、砲撃戦を中心とする戦い方をしなければらない。
2)軍艦を動かす動力は石炭から石油に変わった。
という2点だった。そうなると、鉄も石油もない日本は、どこ相手に戦争するのであれ、かならず負けてしまうことになる。そこから、さまざまの模索が始まるのだが、そのひとつが満洲を手に入れることだった。満洲には鉄などの資源が豊富にある。あれやこれやがあって、満州事変(昭和6(1931)年)を起こす。
満州事変は、日本からしかけた戦争だが、それなりに計算があった。まず、相手は国家としての中華民国ではなくて、国家として認められていない満洲の匪賊だった。だから漢民族国家全体を敵に回す心配は(それほど)ない。場所も万里の長城の外側であり、Proper China (支那本土)ではない。だから、国際的にも漢民族国家への侵略の汚名は着せられない。「無主の地」を、日本の権益を侵害する匪賊を排除するために闘って勝ち取ったのだと言えばいい。しかもそれを本来の領主である満州国皇帝に返したわけだ。このようにして、いちおう大義名分は立つ。実際、この計算は当たっていて、満州国を承認した国も結構あった。
1)外務省がもうすこし根気強く粘る。
2)軍が「華北分離工作」というようなことに色気を出さない。
というような条件下であれば、かなりの期間続く「平和」が訪れたかもしれない。
ちなみに、満州事変は関東軍が「発作的に」起こしたものではなくて、それより数年前から陸軍上層部の「統制派」と呼ばれる人々の間で周到に準備されていたものであることがわかっている。当時の国際情勢について、彼らはこのように読んでいた。もし満州に親日国家を作らなければ、遅かれ早かれロシアが入ってきて、日本はロシアと戦争をしなければならなくなるだろう。しかも、その戦争は、物量を背景とした総力戦になり、日本に勝目はないだろう。さいわい満洲には資源がある。だから、満洲に親日国家を作ることが、日本が極東の「平和」を維持するための唯一の方法だ。つまり、彼らの考え方では、満州事変は、「平和」をもらたらすための戦争だった。もちろん、これには賛否両論があろうが、それはそれとして、軍事合理的にも、大義名分論からも、弁護は不可能ではない。
長々と満州事変の話をしたのは、「平和」は、ときとしては海外で戦争をして、傀儡国家なり保護領なり植民地なりを作ってはじめて実現できる場合もあるということだ。例をいくつか挙げるなら、中国がチベットを侵略した目的のひとつは、インドとの間に緩衝地帯を作ることだろう。あるいは、ソ連が東ヨーロッパ諸国を保護国にし、ときに軍事介入しても自立を許さなかったのも、NATO 諸国との間に緩衝地帯を作って勢力均衡を保つためだろう。もちろん、アメリカが日本を半植民地にしているのも、同じ目的だ。だから、日本があまりに「真の独立」を言いつのると、アメリカが軍事介入する可能性はゼロではない。もっとも、いまの日本人にそんな根性はないがね。
ベイトソンの弟子たちが「茹で蛙」を作ったプロセスは、おおむねこんなことだ。占領軍は最初に、「もう一度戦争をしたいですか?」と尋ねた。ほとんどすべての日本人が「ノー」と答えた。「そうですね、日本は戦争を放棄すべきですね」と占領軍は言った。多くの日本人は「イエス」と言った。「戦争放棄」の具体的な意味がわかっていた人は、そんなにいないと思う。ただ「もう一度戦争をしない」というだけの意味で「イエス」と言ったのだと思う。「そもそも戦争そのものを絶対にしない」と思っていた人は、あまりいなかったんじゃないかな。次に、「この前の戦争は軍人が始めたんですね」と占領軍は言った。日本人は「イエス」と言った。実際には、ほとんどの日本国民が戦争に賛成していたのだが、実際に戦争したのは確かに軍人だから、「軍人が始めた」と言われれば、「そうではない」とは言えない構造になっている。次に、「軍人がいなければ戦争になりませんね」と占領軍は言った。さすがにここには論理の飛躍があるので、これに「イエス」を言わせるために、占領軍は早い時期から帝国陸海軍の「悪事」を捏造して、ラジオや新聞で盛大に宣伝した。日本人は、「そうか、軍人はそんなに悪逆非道だったのか」と思い込み、「軍人がいなければ戦争になりませんね」という質問に「イエス」と言った。こうして、「平和を維持するためには、軍隊を無くして、交戦権を放棄することだ」という常識ができあがった。これは、「警察をなくせば犯罪はなくなる」というのと同じ理屈で、とんでもなく変なのだが、「小さな変化を段階的に起こす」というテクニックに、日本人はコロッとだまされて、深く深く信じ込んでしまった。しかも、占領軍に強制されたのではなくて、みずからが自由意思で選んだと思い込んだ。ここがこの魔法のすごいところだ。ベイトソンの弟子たちは、だいたい2年かけて、この魔法をかけている。それくらいの時間を、あれだけの労力をつぎ込んでやれば、たいていの魔法は実現するということだ。日本の呪術史上、もっとも成功した魔法ではないか。
ここから学ぶべきことはたくさんある。まず、最後に結論を決めておく。たとえば、子どもに「ゲームやテレビを捨ててしまって勉強に専念する」という決心を、「子どもの自由意思で」させることだとしておこう。目標を決めてから、試験の成績が悪かったときに、「試験の成績が悪かったけど、次も悪い成績をとりたい? それとももうすこしいい点をとりたい?」と選択肢を使って尋ねると、大抵の子どもは「次はもうすこしいい点をとる」と言うだろう。次に、「そのためには、悪い点をとった原因を探して、それを捨てるべきだと思うけど」と言う。普通はこうは言わないで、「どうすればいい点がとれるようになるかな?」と聞くが、いまは目的が違うので、違うやり方をする。そうすると、子どもは「ゲームに時間を使いすぎたな」と言うかもしれない。「他には?」と尋ねる。すると「テレビもかな」と言うかもしれない。「ゲームとテレビと、どちらが悪い点の原因として大きい?」と尋ねる。この選択肢はトリックで、ついどちらかを選んでしまう。子どもは「ゲームの方が大きいかな」と言うとする。そこで「じゃあ、ゲームの時間を減らせば成績はよくなるわけね」と言うと、息子は「イエス」と言うだろう。1回目はここまでにする。一度にたくさんの変化を起こそうとしてはいけない。
次回の試験も、思うほど成績があがらなかったとする。そこで「今回もあまり成績があがらなかったけれど、原因はなんだろう?」と問う。成績とゲームの関連は、子どもが言い出した因果性なので、「ゲームの時間がまだ多かった」と子どもは言うだろう。「どうしよう?」と尋ねると、「じゃあ、もっと減らす」と子どもは答えるだろう。2回目はここまでにする。その次の試験は、すこし成績が上がったとする。そこで「今回は成績がよかったけれど、ゲームをすっかりやめてしまえば、もっとよくなるかもね」と言う。もし「イエス」と子どもが言えば、「すっかりやめてしまうのなら、いっそゲームの機械を捨ててしまうといいかもね」と言う。このあたりは子どもの様子をよく見ながら、大丈夫だと思えば言うし、思わなければ次回に回す。慌てると蛙は鍋から跳びだしてしまう。
その次の試験は、成績はもうすこし上がった。「ずいぶん成績がよくなったけど、このままでいいか、もうすこし上げたいかな?」と尋ねると、ここまで来れば子どもは「もうすこし上げたい」と言うかもしれない。「何をやめればあがるかな?」と問うと、以前に「ゲームとテレビ」と言った文脈から、「テレビ」と言うだろう。こうして、数回後には、テレビも捨ててしまえるだろう。中間試験と期末試験とで年に5回試験があるとして、2年計画くらいでとりかかれば、実現可能だと思う。
きわめて悪辣な育児法だと、私は思う。だから、お勧めではない。しかし、ある条件が整えば、こういう育児法も悪辣でなくなる。それは、子どもとの目標の一致があらかじめ取りつけられているときだ。つまり、子どもも「成績がよくなりたい。そのためにはかなりの犠牲を払ってもいい」と合意しているときだ。つまり、子どもとの間に《協力的》な関係ができあがっているときだ。そうでなければ、占領軍の洗脳工作なみに悪辣な黒魔術になってしまって、後で子どもに怨まれるかもしれないし、怨まれなくても、自分の人生を自分で決心して生きる人に育たないだろう。ちょうどいまの日本人のように。