語法と様式

 中学・高校時代には、マーラーだのストラヴィンスキーだのバルトークだのの世話になって暮らしていた。そうすると、彼らにとって「新しい」ものが私にとって「新しい」ものになり、彼らにとって「古い」ものが私にとって「古い」ものになる。他の領域、たとえば文学とか絵画とかでも同じ現象があるはずなんだけれど、私の場合はそんなに気にしないですんだ。ただ音楽だけが鮮烈に「新しい」と「古い」とでできていた。しかもそれは成立年代の話ではなくて、大学に入ってルネサンス音楽の一部が「新しい」部類に入ったりしたように、私の側の主観的な分類だった。

 音楽に対する感受性は、このようにかなり「曲がった」ものだったし、その後も基本的には変らないで保たれている。ある種の旋律を聴くと、ほれぼれと感動してしまったりする。問題は、他の聴衆がその旋律を聴いても、同じように感じることが少ない、あるいは無いことだ。これはどうしようもないことであるようで、たとえば親しくなって同じ音楽を聴いて暮らしていても、私のお勧めの音楽はまず共有されない。まあ、そういうものなんだ。もう何十年も前にあきらめがついてしまっている。

 とはいえ、私の好みが完全に個性的なものであるわけでもない。マーラーだってストラヴィンスキーだってバルトークだって、一定程度の売上げはあるわけで、わずかのパーセントにせよ、好んで聴く人はいるわけだ。そうでなければ、こんなに簡単に音源が手に入るはずもない。

 そこから学校教育全体を振り返ってみると、あれって「主観的」な好みを生徒たちに押しつけている雰囲気がある。同じ現象を違う言葉で語りなおすこともできなくはない。自分でやってみる気はないけれど、原理的には可能じゃないかな。そうして用語を変えて語り直すと、現代科学の書き方では気がつかなかった別の側面に気がつくかもしれない。これは妄想にすぎないのかもしれないけれど、マーラーだのバルトークだのを信じて音楽全体を見直したとき、意外な「新現象」に出くわす可能性は充分ありそうに思う。