仏教の教えを詠った歌を釈教歌という。昨日、京極為兼の釈教歌をひとつとりあげたが、世の中に釈教歌ほど面白くないものはないことになっている。それは私も賛成なのだが、せっかくひとつ紹介したので、調子に乗ってもういくつか書いてみる。『風雅集』の釈教歌の章に、
燕鳴く軒端の夕日影消えて柳に青き庭の春風 花園院
という歌があって、これは、面白くないどころではなくて、叙景歌として見て絶品だと思う。あまりに平明だから、現代語訳の必要はないよね。「柳に青き」という言葉がすごいなと思う。
ところが、詞書を見ると、法華経薬王菩薩本事品の「是れ真の精進なり、是を真の法をもって如来を供養すと名づく」にちなんで詠んだと書かれている。薬王菩薩は、チベット人の焼身供養のモデルになっていると思うのだが、自分の体に火をつけて仏を供養した人だ。
花園上皇はご自身が戦場に出られ、味方が全滅して敵方に捕らえられた経験をもっておられる。『太平記』巻第九「越後守仲時以下自害のこと」に詳しい記述があるが、名文ではあるが冗長なので、平泉澄先生の解説文を引く。
それは元弘3(1333)年5月9日のことであった。京都の戦いに敗れた(鎌倉)幕府の軍勢は、六波羅南方探題左近将監時益戦死の後、北方探題越後守仲時にひきゐられ、光厳院・後伏見天皇・花園上皇御三方を奉じて、遠く鎌倉に走り、幕府の主力と一緒になって決戦をしようとして、東山道をいそぎ、漸くにして是の日、番場の宿(現在は滋賀県米原市)に入った。その兵わづかに7百騎にも足らぬ小勢である。しかるに意外の強敵あつて、番場の宿を四方より包囲し、一軍、袋の中の鼠となつた。
(中略)六波羅勢は激戦して血路を開かうとした。しかし官軍は目に余る大軍であつて、しかも疲れを知らぬ新手であり、あたかじめ見立てて、地の形勢を利用してゐるのに対し、味方は連日の戦に疲れ果てたる小勢、うつかりして袋の中に入り、摺鉢の底に陥った形である。勝敗の運命、今は明瞭となつた時、司令官である越後守仲時、軍勢共に向かつていふやう、「武運漸く傾いて当家の滅亡、近きにあるべしと見給ひながら、弓矢の名を重んじ、日来(ひごろ)の好(よしみ)を忘れずして、是まで付纏(つきまと)ひ給へる志、中中申すに詞なかるべし、其報謝の恩、深しといへども、一家の運すでに尽きぬれば、何を以てか是を報ずべき、今は我れ、かたがたの為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずるなり、仲時不肖なりといへども、平氏(北条氏)一類の名を汚せる身なれば、敵共定めて我首を以て、千戸侯にも募りぬらん、早く仲時が首を取つて、源氏(足利氏)の手に渡し、咎を補うて、忠に備へ給へ」。かやうに云ひも果てず、鎧をぬぎ、腹かき切つて伏したのを見て、従ふ者共いずれも感激に耐へず、我も我もと腹を切つて之に殉じ、その数、すべて432人に及んだといふ。(平泉澄『山河あり』錦正社,pp.267-268)
こうして花園上皇は足利方に捕らえられ、京都に帰られた。こういう体験を踏まえて法華経薬王菩薩本事品を読誦され、さらにその感想として上の歌を詠まれたのだとすると、なかなか鬼気迫るものがある。「私の供をした侍たちは、彼らの大義の為にみんな死んでしまった。それでも仏の世界には燕も鳴き、陽は昇って沈み、春になれば柳も青くなり、それを風が吹き返しもする。これが彼らの精進に対する仏のお答えなのであろうか」という感じかな。
釈教歌をもうひとつ。
今日はこれ半ばの春の夕霞消えし煙の名残とや見ん 伏見院
これは『玉葉集』に収載されている。伏見上皇は花園上皇の父君で、南北朝の動乱の前に崩御されているが、それでも身辺に血なまぐさい事件があった。たとえば、正応3(1290)年、浅原為頼ら3人の武士が騎馬で御所に侵入し、天皇の暗殺を謀った。浅原はお付きの女性を捕まえて天皇の寝所を尋ねたが、お付きは、別の場所を教えたので、その隙に天皇は女装をして三種の神器と秘伝の管弦をもって脱出され、一命をとりとめた。背後関係はよくわかっていないのだが、伏見天皇は持明院統で、大覚寺統の皇統と対立があったし、鎌倉幕府とも折り合いが良くなかったので、そのあたりが黒幕だと思われている。
この歌には「二月十五日涅槃の心を詠まれ給ひける」と詞書が付いているが、実はそんな穏やかな話ではないかもしれない。お釈迦さまではなくて、誰か知人の死を悼んだものだと読めないこともなく、しかもその知人は尋常の死ではない死に方をしたのだと思えてくる。本当のことをあからさまに書けない事情があって、わざと涅槃会にことよせたのではあるまいか。このあたりは『増鏡』あたりを丁寧に読み解けばあるいはわかるかもしれない。ともあれ、見かけほどのどかな歌ではなさそうだ。そうだとすると、「今日は春の半ばで夕霞が出ているが、あれは無念の内に殺された友を焼いた煙の名残だと思って見よう」という意味になって、かなり恐い。
昨日まで話題にしていた京極為兼は伏見上皇や花園上皇の歌の師匠であるが、彼の一生も平穏だったわけではない。皇位継承問題などのトラブルで鎌倉幕府に睨まれて、佐渡に流刑になり、一旦は帰京したが、後に再び土佐に流刑になっている。なんでも佐渡の配流先で、
鳴けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす 京極為兼
と詠んだので、その言霊で、そのあたりではホトトギスは鳴かなくなったのだとか。どの人も、歌は静かだが、生涯はなかなかたいへんだったみたいだ。