突然おかしな話をする。文永11年(1274年)元が博多に攻めてきた。もっとも、いきなり来たわけではなくて、6年前の文永5年(1268年)に降服を勧める使節を派遣してきている。時に将軍であった北条時宗(なんと16歳)がこれを拒否したので、関係はこじれていった。その後あれこれあって、元は日本征伐を企画し、文永11年の攻撃になったわけだ。総兵力は15,000人程度であったと言われている。軍勢は10月5日に対馬に押し寄せ、対馬や壱岐をたいらげて、10月20日に博多湾に到達した。しかし、日本軍は勇敢に反抗し、10月21日の午前6時頃に元軍は博多湾から撤退した。この戦いを「文永の役」という。
それからも緊張状態が続いた。7年後の弘安4年(1281年)5月21日、元は対馬に来襲し、やがて6月6日には博多湾の志賀島に寄港した。戦線は膠着状態に陥るが、やがて元は江南の兵を増強して大軍となり、総攻撃を企画する。北部から来た「東路軍」が兵4万人・軍船900艘、南部から来た「江南軍」が兵10万人・軍船3,500艘で、とんでもない大軍だ。ところが、総攻撃の寸前の7月30日に台風が来襲して、元の軍艦はことごとく沈没した。この戦いを「弘安の役」という。
戦争そのものは、日本の側からいえば戦勝で終わったのだが、現実には経済的逼迫が進んで行った。元に賠償を求めるわけにもいかないし、元以外に保護国のようなものが存在したわけでもないし、国は貧困に陥っていく。そこで鎌倉幕府はさまざまの耐乏策を試行するが、それでもって問題が解決したわけではない。収入がないままで莫大な支出を迫られ、それを回復する手段はなにもなかった。
この問題は難しいねえ。もし私がその時代に生きていたとして、対策があるかというと、あまり効果のありそうなものがない。だって、海外交易ができないわけでしょう。そうなると収入なしで支出だけがふくらんでいく。御家人などはことあるたびに報償をほしがる。政府としては有効な対策を思いつくことができない。結局、こういう経済情勢を背後にして、鎌倉幕府は貧困化して滅びていったのだと思う。
鎌倉幕府を滅ぼしてできた室町幕府は、元が滅亡して中国との取り引きが正常化したので、生き延びることができた。仮に鎌倉幕府が滅びないでその時代まで生き残っておれば、鎌倉幕府でもなんとかなったかもしれない。つまり、鎌倉幕府の滅亡とか室町幕府の興隆とかは、歴史の偶然にすぎないかもしれないと思うのだ。まあ、いまとなってはどっちでもいいことなんだけれどね。