友人がインターネットに過激なことを書いている。私もそのように考えないこともないのだが、私がなにかいうとそれなりに社会的影響があるかとも思い、あまり明確には書いたり言ったりしてこなかった。その人はそういう「弱点」がないので、言い放題に言っている気がする。以下引用。
なぜ今ごろになってヒュー○ン・ギ○ド(以下 HG と書きます)に接近する人が輩出してくるのか不思議に思っていた。それも、過去の経緯をよく知っている人が「みんな仲良くしようよ、友だちになろうよ」と言っている。《ポリティカル・コレクトネス》のおかげで、仲良くしようとしない私たちは、閉鎖的・へんこ・カルトと思われる。
HGの論理的結末がひどく誤っていたことは、過去の学会誌や『負のアドラー』を読めば分かる。共同体感覚も欠如しているし、ムーブメントとしてアドラー心理学を広める姿勢もない。学術的にも、思想的にも、活動方針も異なっている。
何度 ICASSI に行っても、どれだけ長く学んでいても、ちっとも変わらない人たちがいる。自分では十分アドラーを理解していると思ってるのだろうが、たぶん、魂がHGなんだろう。つまりは経済で、損得でものを考えるのだ。
引用終り。HG という組織がわれわれと対立する主張をしている。それはそれでしかたがないんだけれど、問題は、われわれの組織の末端部に働きかけてきて、「切り崩し」をしようとすることだ。以下引用。
その人たちにとってアドラー心理学は、結局、自分の役に立てるための道具なのだ。自分のスキルを上げることができるなら折衷しても何でもOK。そう、自分の役に立つなら、何でもOKなのだ。なんという自己中か。「共同体感覚の歌」を読みなよ。
引用終り。「共同体感覚の歌」かあ。私がむかし書いた韻文集だ。いちおう「推薦書」になっているけれど、あまり厳しく義務化していないので、徹底度はもうひとつかもしれない。
個人が生きる究極目標は 社会の中に居場所を見つけ出し
所属をとげて人から愛されて 仲間と一緒に暮していけること
そのため人はみんなの幸福を 増進するようすべきことをして
みんなの不幸を招かないために すべきでないことけっして手を出さぬ
個人がゲマインシャフト感覚を 持ってみずからみんなの幸福に
貢献しようと決心するのなら 人間らしい世界ができるだろう
違いは制度にあるのではなくて 個人の心の構えの中にある
個人が他者を仲間だと思い 人ごとでないと感じることができ
損得を超え評価を気にせずに みんなのために真にすべきこと
相談しながら一緒に考えて おこなうことが幸福への通路
「共同体感覚の歌」には、やや厳しい目にだが、私がアドレリアンたちに期待することが書かれている。毎日声に出して読んでいると、自然に「自分」のあり方が変って、「私のために人に何をさせるか」ではなくて「人のために私が何をするか」を中心に生きていけるようになる。以下引用。
もちろん、ユーザー側の人は、みんなで楽しく学んで、みんな仲良く幸せになっていけばよい。誰だって最初はそうだった! だけど資格を取ったプロバイダーたちが、いつまでもそれをやってちゃ駄目でしょう。アドラー心理学は、他者のための援助の心理学ですよ。自利のために使うものではない。…だけど、たぶん一生やってるんだろう。アドラーの魂に触れることなく。
引用終り。そうだよねえ、あなたの言うとおりかもしれない。もう一度、あの人たちと衝突するかねえ。しかし、私にはもうそれだけの気力も体力も残っていないような気もするんだよ。