智慧と煩悩を超えたもの

 チベット瞑想はある種の「テーマ」をもっている。たとえば「智慧と煩悩は本質的には同一だ」とか「迷いと悟りは本質的には同じだ」というようなことだ。問題の立て方がちょっと変っているでしょ。「智慧と煩悩はこれこれが違う」とか「迷いと悟りは本質的に違っている」だとかいうようなことがテーマだと、一見悟りが開けそうだが、実際には永久に悟りは開けないんだそうだ。そういうわけで私も「わけのわからない」テーマについて瞑想を続けている。

 「悟り」あるいは「迷い」、「智慧」あるいは「煩悩」は、一見きびしく対立するものであって、けっして両立できないことになっている。しかし実はそうではない。なぜそれら両者がこんなにきびしく対立してみえるかというと、実はわれわれの「ものの見方」の側に問題があるのであって、その「ものの見方」が見ている事物そのものの側にあるのではない。ぶっちゃけて言うと、事物そのものは「A」でもなく「ノットA」でもなくて、そのどちらでもありどちらでもない「中性」であると教えているのだ。

 しかし、そんなのって本当だろうか。つきつめて問い詰められると、私もよくわからない。わからないけれど、いま現在の認識がすべて「A」もしくは「ノットA」で、この認識に従っているかぎり「A」の「しばり」あるいは「ノットA」の「しばり」から自由になれないので、それで瞑想してこの境界を乗越えようとしている。実際にはそう簡単ではなくて、私に関してはまだ一向にメドが立たないんだけれどね。